76 番外編30 おそーじ、おーいそがしっ!
「おそーじなのー!」
アナが子供部屋の小さな棚や机や壁に、ぱたぱたと例のはたきをかけていくが、足元にはおもちゃやクレヨンや絵本が散乱している。……掃除とは、一体。
「アナ。これはどういう状況だ?」
シリウスが床を指差すと、アナはきょとんとしてから、頭ごと目線を下へと落とした。そこには描きかけの絵とクレヨンがそのまま放置され、絵本もどれから読むか迷ったのか、とにかく散らばっている。そしてなによりその奥、ボールや積み木、どんぐりや石などが転がっている場所は、どう見ても危険地帯だ。
「周りを見て、なにか思うことはないのか?」
「うーんとねー……」
そこで一旦言葉を切ったアナが、周囲を再度きょろきょろと確認してから、シリウスを見上げて笑った
「しっちゃか、めっちゃかー」
「……よくそんな言葉を知っていたな」
予想外の言葉に一瞬毒気を抜かれたが、正しくその通りだ。それがわかっているのなら、なぜ片づけないのか。
「アナはまず足元を片づけなさい」
散らかし放題のアナはもちろん問題だが、もうひとり。
「サフィニアはなぜ窓拭きを? それはメイドの仕事だろう」
シリウスが指摘すると、窓を拭いていたサフィニアはその手を止め、気まずげに振り返った。
「すみません……レモンが汚れを落とすのにいいと小耳に挟んで」
そんな情報、どこで誰から聞いたのか。
「執事長さんに話してみたらレモンを搾ってくれたので、早くその効果のほどを試してみたくて、アナの汚した窓を拭いていました」
執事長は相変わらず柑橘を搾ることを生業としているようだが、とりあえず。
「アナ。窓は汚すな」
なにをどうしたら窓を汚すことになるのか。
「あなのおてて、きれいよ?」
アナが両手のひらを見せつけてきたが、たとえ汚れているように見えなくても、何度も直で触れていたら汚れはするのだ。
実際光に透かすとアナの手形が見えるし、外を覗こうとしたのか顔を押し当てたような跡も残されている。
「レモンで汚れが落ちるのか?」
「はい。綺麗に落ちますよ」
窓がピカピカになるのが楽しいらしいサフィニアから、その雑巾を取り上げていいものかしばし悩んでいると、アナがレモン果汁入りのバケツへと話しかけた。
「くえんしゃーん」
「クエンさん?」
クエン酸なのか、それとも、バケツの中の妖精かなにかなのか。
よくわからないが、娘の言動がよくわからないのは今にはじまったことではない。
「窓はサフィニアに任せるとして、アナははたきをかける前に、まず散らかしたものを片づけなさい」
「めいどしゃんの、おしごとなのー」
こういうときだけ人の言ったことをきちんと覚えている娘だ。
「それはそうだが、大事なものは自分で片づけないと、どこにしまわれたかわからなくなって後から困ることになるぞ」
きょとんするアナは、まだなにをどこにしまったかわからなくなる状態に陥ったことがないようだ。
「たとえば、クレヨンが使いたいときに、どこにあるかわからないと探すのが大変だろう?」
「かくれんぼ!」
「かくれんぼではないが……」
探す手間すら楽しめる娘には言葉で言っても伝わらないらしい。
「……わかった。しばらく目を閉じていなさい」
「かくれんぼ?」
「片づけの大切さを学ぶいい機会だ。今からアナの大事なものを隠す」
「あなのだいじ……じぇのべーぜ?」
ジェノベーゼが、ぱっと嬉しそうな顔でアナを見上げる。犬だったらしっぽをぶんぶん振っていただろうが、馬なので、ふぁさっ、としただけだった。
ぬいぐるみが、ふぁさっ、とさせる時点でおかしくはあるのだが、いちいち追及していたらキリがないので見なかったことにしてアナと向き合う。
「ジェノベーゼは大事だが、片づけするようなものではないので、別のものだ」
ジェノベーゼは別にどこにいてもいいが、定位置はアナの腕の中だ。そうでなくともジェノベーゼならばほかのおもちゃ類と違って、間違って踏みそうになっても自分でうまく避けるだろう。
「今からアナの仕事道具であるクレヨンを、一本ずつどこかへと隠す。つまり、全色見つけないと仕事ができなくなるということだ」
「おえかき、あなのおしごと」
「そうだ。仕事がしたいのに仕事道具が見つからない苦労をアナには体験してもらう。さあ、目を閉じなさい」
アナはしっかりと両手で目を塞いだ。ジェノベーゼも迷ってから目を閉じた。
シリウスは子供部屋の危険地帯を一旦部屋の片隅へと一掃しながら、あちこちにクレヨンを隠す。
「目を開けてよし。今からクレヨン探しの開始だ」
「かくれんぼー!」
アナは嬉々としてクレヨンを探すが、短時間ながら難しい場所に隠した。
アナが部屋中をぐるぐる駆け回るのを横目に、保留になっていた危険地帯の、おもちゃなのかなんなのかよくわからない小物類を、まとめておもちゃ箱へと入れていく。
「みずいろ、あったのー」
アナはひとつクレヨンを発見し、にこにこしながらこちらへと駆けて来た。空のクレヨン箱を差し出すと、きちんと水色の場所へとそれを収める。
「いい子だ。だが、水色だけでは空しか描けないぞ」
「こまったなのー」
「片づけの大切さがわかったか?」
「かくれんぼ、たのしー」
「……そうか」
まだ失せ物探しの大変さを理解できていないようだ。
アナはカーペットの下から黄色のクレヨンを見つけ出して「あったのー!」と叫ぶ。
……まあ、楽しく掃除できるのは悪いことではない。
さくさく床を片づけるシリウスと、きゅっきゅと窓を磨くサフィニア。そしてクレヨン探しに興じるアナ。
(……なにか、違う気がする)
だが床はすっきりとして、窓もピカピカとなっている。本来の目的の半分は達成しているはずだ。……たぶん。
「サフィニア。手が荒れたりしていないか?」
水拭きによって冷えて少し赤くなったサフィニアの手を取ると、彼女はじんわりと頬を染めた。そういう反応をされるとこちらも頰に赤みが移りそうだが、どうにか堪えてその手を包んで温める。
あまり体温の高い方ではないシリウスよりも冷たいのは問題だ。
「やっぱりシリウス様は優しいですね」
「久しぶりに聞いたな、それ」
「いつもそう思っていますよ」
相変わらずサフィニアの中では、シリウスは優しい人らしい。
手の状態を気にするシリウスに、サフィニアはおっとりと微笑んで言った。
「ジェノベーゼオリジナルを塗るので、手荒れは平気ですよ」
「……前から思っていたが、ジェノベーゼオリジナルを過信し過ぎではないか?」
とりあえずジェノベーゼオリジナルを塗っておけばいいと思っている節がある。サフィニアに限ったことではないが、バロウ家全体でその傾向にあった。
とはいえ手荒れに効くのは確かだろう。
シリウスは万能薬扱いされているジェノベーゼオリジナルをサフィニアの手に塗り込みつつ、アナのクレヨン探しの様子を眺めた。
着実に集まりつつあったクレヨンだが、残り数本といったあたりから探すペースが遅くなりはじめ、それでも、どうにか後ひとつというところまで来たのだが、その最後のひとつがなかなか見つけられずに、それまで楽しそうに捜索していたアナは一転して焦りはじめた。
クレヨンの箱を確認して、未だ発見に至っていない色がなにかに気づくと、頰にぺちりと両手を当てて悲壮な声を上げる。
「ちゃいろ、ないのーー!」
部屋の隅々まで繰り返し見て回るが、茶色いクレヨンだけがまったく見つからない。
「じぇのべーぜ、かけないのーー!」
茶色いクレヨンがなければジェノベーゼの体の色が塗れないわけで、かといって塗らなければカプレーゼのように白馬になってしまう。ほかの色を代用するわけにもいかない。
描けないと言われたジェノベーゼも、わかりやすガーンとショックを受けて固まっている。
よく描くジェノベーゼの体の色として消費率が高い茶色いのクレヨンは、ほかのものより短いせいで見つけにくいようだ。
シリウスも適当に隠したので、正直、どこに茶色いがあるのかわからない。サフィニアを見るが、残念ながらこちらも覚えてはいなかった。窓拭きに熱中していたので、そもそもシリウスが隠すところを見てもいなかったのだろう。
「うっ、……うわぁぁぁぁん!!」
とうとうアナが泣き出してしまった。
シリウスは片づけの大切さを教えたかっただけで、泣かせるつもりはなかったのだ。ゆえに、サフィニアの胸に飛び込んでしがみつきながらわんわん泣くアナを、シリウスは必死で宥めるしかなかった。
こんなことになるのなら余計なことはせず、シリウスが黙って片づけておけばよかった。
「すまない、アナ……。茶色のクレヨンなら、また買えばいい。箱で買ってもいいから」
いっそ予備として全色箱で買い置きしておけば、万が一の際に助かる。
「いまなのーー! いま、かくのーー!」
「今は掃除ごっこだろう? 明日買って来るから、新品のクレヨンでジェノベーゼを描けば――」
「いまなのー! いまのじぇのべーぜ、かくのー!」
今のジェノベーゼはショックを受けて沈んだままだ。この状態を描くのは、さすがにかわいそうではないだろうか。
「いっしゅんの、きらめきなのー!」
その煌めきはきっと、ジェノベーゼの涙に違いない。
不甲斐ないシリウスの代わりに、サフィニアが優しくアナの背中を撫でながら言い聞かせる。
「お絵描きは明日にしよう? ね?」
「やぁーー!」
サフィニアがどう声をかけても、アナが泣き止む様子もなければ了承することもない。ジェノベーゼもガーンという文字を背負ったまま傷心している。
「執事長!」
万策尽きたシリウスが困り果てて助けを求めると、執事長が一礼してから入室して来た。
「茶色のクレヨンの予備はないか?」
「予備はございますが……そうですね」
そこで言葉を切った執事長が、シリウスの横を通り過ぎて、さっき片づけたおもちゃ箱の底を探る。そしてなにかを掴み取ると、その手をシリウスへと開いて見せた。そこにあったのは探していた短い茶色のクレヨン。
「片づけをする際、気づかず一緒に箱に入れてしまったのでしょう」
見ていたわけでもないのに、なぜわかるのか。
「不規則に隠したと思っていても、その人の性格や思考、行動パターンなど、いくつかの要素を分析すれば規則性が見つけられるものです。それを踏まえると、このあたりかと」
シリウスの思考から行動まで、すべてが執事長によって読まれている。いっそシリウスよりもシリウスのことを知っている気さえする。
普段ならば少し怖く感じるかもしれないが、そのおかげで助かったので今は感謝しかない。執事長こそ正義だ。
「アナ様。茶色のクレヨンです」
「よかったね、アナ。執事長さんにありがとうを言おうね」
アナは涙をこぼす目をごしごしと擦ってから、茶色いクレヨンを大事そうに受け取って笑った。
「ひつじしゃん、ありがとうー」
「どういたしまして」
アナは最後のひとつである茶色のクレヨンを箱に収めて、それをシリウスへと見せた。
「全部揃ったな」
「そろったー」
泣き止み機嫌も戻った娘にほっとしながら、シリウスは今回の教訓を短くまとめて語った。
「きちんと使い終わったら片づけないと、こういうことになる。わかったな?」
アナは神妙にこっくりとうなずいた。
「あなのだいじ、パパかくす」
「……少し違うが、そういうことだ」
また散らかしたらシリウスがアナの大事なものを隠してしまうと思っていれば、片づける癖がつくだろう。あまり期待はしていないが。
「あした、しんぴん?」
「新品?」
「くれよん」
「……確かにさっきそう言ったが」
それは茶色が見つからなければの話であり、すでに見つかったのでなかったことになったつもりでいたのだが、アナは明日新品のクレヨンを買ってもらう気でいる。
サフィニアが、「茶色は見つかったでしょう?」と言ったところで聞かない娘は、すでに真新しいクレヨンに思いを馳せている。
「あな、えめらるどぐりーん、ほしかったのー」
「……ただの緑ではだめなのか?」
「じぇのべーぜのおめめ、えめらるどぐりーん」
「……そうか」
「かぷれーぜはねー、るびーいろ」
「……そうか」
「おいろ、もっとなの」
確かに子供用のクレヨンは色が少なめだ。これまではそれで十分事足りていたが、絵画教室に通ったことで微妙な色味の違いに納得いかなくなってきたのかもしれない。
お絵描きを生業とするアナにはもっと色が必要ということなのだろう。
「百色セットでいいか?」
「うんー!」
「あまりあまやかさないでくださいね」
(百色は多いのか……?)
何色が妥当な範囲なのだろうか。美術とは縁遠いのでわからないが、大は小を兼ねる。少ないよりは多い方がいい気がする。
そしてなにより、父親として、娘に美術に疎いと思われたくない。
「おえかきするのー!」
綺麗になった部屋で、アナが床に紙を広げると、今このときのジェノベーゼをありのままに描きはじめた。
せっかく集めたクレヨンが、また箱から出されて周囲へと散らばっていく。
ジェノベーゼの背景の小道具としておもちゃ箱に収納したあれこれも取り出され、散らばっていく。
綺麗になった室内が、元のしっちゃかめっちゃかな景色へと戻っていく……。
すべてが徒労に終わったような気もするが、アナとジェノベーゼが笑顔なので、もうそれでいいことにしておいた。
「アナ。模範となる姿を周囲に見せるのも令嬢として大事なことだ。わかるな?」
「もはんしゅー、だいじー」
「模範囚ではない。模範だ。どこから来たんだその模範的な囚人は」
なぜ模範囚なんて言葉を知っているのか。『ララとブラウニー』のせいだろうか。
「みなの手本となれるようにがんばりなさい、ということだ」
「あな、かんがるー」
「カンガルー……」
ジェノベーゼの横にカンガルーの絵を描きはじめたアナに、いろいろ諦めたシリウスだった。




