71 番外編25 妹、来たる
シリウスが帰宅するといつものように足にしがみついてきたアナが、顔をぐいぐいと押しつけながら、思いがけないことを口にした。
「いもうと、きたのー」
「妹……来た?」
この娘は急になにを言い出したのか。
アナの言う妹とは、アナが待望する妹のことだろう。
そしてアナの待望する妹とは、シリウスとサフィニアの子のことである。
その子が来たということは、つまり――。
「…………」
まったく反応しないシリウスに、アナは焦れたのか不満げに続ける。
「いもうと、きたのー!」
アナがぷりぷりしているが、シリウスはそれどころではなかった。
アナに遅れて玄関へと駆けてきたサフィニアの、まだ薄い腹部を凝視する。
そうして導き出された答えが、ひとつ。
(………………処女受胎?)
アナの妹計画はまだ道半ば、あともう少しだとは思っているのだが、時間のなさゆえに、なかなかうまくことは運んでいなかった。
サフィニアがほかの男と通じることはないと断言できるので、あるとすれば、そう。神の子であるということしか考えられない。
サフィニアは自分の腹を無言でじっと見ているシリウスになにか気づいたらしく、躊躇いがちに尋ねてきた。
「すみません、もしかして、アナがなにか変なことを言いましたか……?」
言った。言ったが、それを口にしていいものなのかがわからない。
どう訊けと言うのか。
その腹の子は誰の子だ、などと、妻の不貞を疑う夫のようなことははなから言うつもりはないが、それは神の子か、と素で訊けるほどの信仰心は宿っていない。
神の子であれ、サフィニアの子ならシリウスの子だ。神には言いたいことが山ほどあるが、アナに妹を与えるためにやったことだと思えば許せなくも…………いや、どうがんばっても許せない。
もちろんその子供はアナの妹として大事に育てるが。
「アナ。もしかして、お約束を破ったの? 王太子妃様との大事なお約束だったでしょう?」
アナは拗ねたようにシリウスの足に顔を埋める。
「あなも、いもうと……」
「それはお外で言ったらだめなことなのよ? わかった?」
「……」
ふたりのやり取りでピンときてしまったシリウスは、自分の勘違いを悟り、それと同時に、とんでもない事実を知ってしまった動揺でますます動けなくなっていた。
どうやら王太子妃がご懐妊らしい。
そしてそれを、王太子より先に知ってしまった。
しかしなぜ、王太子より先にサフィニアとアナが知っているのか。王族内で留めておかなければならない機密だろうに、誰が漏らした。ジョシュア王子だろうか。あり得る話だ。
王太子を一番に狙っていた公爵はいなくなったとは言え、まだ第二王子を担ぎ上げようとしていた派閥が完全消滅したわけではなく、よからぬことを考える者がいないとも限らないのだ。安定期までは周りに伏せるべきであり、間違っても子供のような口止めの難しい相手に教えてはならないのだが、今回は運が悪かったのだろう。
シリウスはサフィニアに重ねるように、あちこちでしゃべってしまいそうなアナへとしっかりと釘を刺しておく。
「アナ。それは絶対に口にしてはいけないことだ。アナが誰かに話したことで、妃殿下が悪い人に狙われるかもしれない」
「そうよ、アナ。悪い人が赤ちゃんを盗って行っちゃうかもしれないのよ?」
「やなのー! まぶの、いもうとなのー!」
「だったら、黙っていましょうね。アナはお利口さんだから、できるわよね?」
アナはこっくりとうなずいた。
「あな、おりこうしゃん。できるこ」
とりあえずほっとしてサフィニアと顔を見合わせたシリウスだが、不安は完全には拭い去れなかった。
アナの腕にいたジェノベーゼにも念押ししておくと、きらっと瞳が光った。快諾だ。アナがしゃべりそうになったら飛ぶなり踊るなりして気を逸らしてくれるだろう。それがぬいぐるみの務めというものだ。
ぬいぐるみは飛んだり踊ったりしないという事実からはひとまず目を逸らしておく。
「ねぇー。あなもいもうとー。いもうと、いるのー」
「引っ張るな、アナ。脱げたらどうする」
自宅とはいえ、人としての尊厳が損なわれる。
「いもうとなのー」
「わかったから」
足をよじ登ろうとするアナを抱き上げてから、サフィニアに詳しい話を聞くために場所を移動した。
まずは軽く食事を済ませてからソファにかけると、そのまま目を閉じてしまうのをどうにか堪えて、改めてサフィニアと向き合った。
「それで、なぜアナがこんな重大機密を知ることに?」
「それが、王太子妃様と主治医の方が話されているのをジョシュア殿下が偶然聞いてしまったそうで。きっと弟妹ができることが嬉しくて、黙っていられなかったのだと思います。アナと遊んでいるときに、ポロッと」
概ねシリウスの予想通りだった。
気持ちはわからなくもない。よほど嬉しかったのだろう。それを聞いたアナがむくれているのも理解できた。
ちらりと見たアナは不満げにソファに転がっていたが、急に両手足を天へと伸ばすと、ゆらゆらと揺らしはじめた。
「……なにかの、儀式か?」
妹を降臨させるための儀式なのだろうか。ジェノベーゼも同じようにひっくり返らされている。
「よがなのー」
「……?」
「よーが」
意味はわからないが、危険な動きではないのでとりあえず放置して、再度サフィニアと問いかけた。
「それで、王太子妃の様子は?」
「お元気そうですよ。つわりよりも夫の方が気持ち悪いと言っていました」
つわりを経験したことのないシリウスだが、噂に聞く限りでは、かなりの苦痛を伴うものらしい。それ以上の位置づけをされている王太子はさすがだった。
「殿下に、いつ伝えるとかは?」
「ギリギリまで伏せておくそうです。鬱陶しいから、と」
確かに、鬱陶しいことこの上ないだろう。
思い返せばジョシュア王子のときも大変だった。隙あらば側近たちの目を掻い潜って王太子妃の元へと走り、しつこく腹へと話しかけては蹴り出され、近衛たちが担いで執務室へと連行するの繰り返しだった。
シリウスとしても仕事が滞るのが一番困る。いっそ臨月まで黙っておいてくれないだろうか。王太子妃に直に提案したいくらいだ。
「あなのいもうと、まだー?」
「アナの妹はまだだ」
「まぶのいもうとはねー、めがみしゃまのねー、おなかなの」
まだ妹と決まったわけではないのに、アナは妹であるとすでにわかっているような口ぶりだ。
「弟かもしれないだろう」
「いもうとなのー! ぐすたふ、ゆったの!」
出たなグスタフ。
サフィニアがあたりをきょろきょろとしてから、なにかを納得したようにひとつうなずく。
「星の子グスタフは余計なことは言いますが、嘘はつきませんから、本当に妹なのかもしれません」
褒めているのか貶しているのかわかりにくいが、グスタフは真実しか言わない星の子らしい。
未だアナのイマジナリーフレンド説を捨てていないシリウスとして、その言い分を完全に信用しきれてはいないが。王子が誕生する可能性だって、きっとまだ半分は残されている。
「余計なことを言うのか? グスタフは」
「ぐすたふ、おしゃべり」
おそらくそれも褒め言葉ではない。
アナはサフィニアの腹をじっと見つめる。サフィニアは困った顔をしているが、アナは目を離さない。そこに妹がいないとグスタフが断言したのか、アナは不満顔で言った。
「……ぷんすこ!」
「ぷんすこってなんだ」
怒っているのだろうが、あまりにも気の抜ける怒り方だ。
「あな、いもうといるのー!」
「そうは言っても子供は授かりものだから、そう簡単には来てくれない」
「あなのいもうと、いま、どこー?」
「今……? 今は……どこだ?」
この世にまだ誕生していない人間が、今、どこにいるのか。それは永遠の謎だろう。知っているのなら教えてほしいくらいだ。
「おはか?」
なぜだ。
お墓とお腹、言い間違えたのだろうか。
「赤ちゃんはお空で星の子たちと一緒にいるのよ」
いかにもサフィニアらしい説明に、もちろんアナが納得するはずもなく。
ぷんすこしていた顔はみるみる曇っていき、今や涙目へと変わっている。
「パパとママ、けんかなの……?」
「喧嘩?」
「なかよし、ちがった……? いもうと、こないの……?」
仲が悪いから妹が来ないのだとしょんぽりするアナを、サフィニアが膝に乗せて、涙をハンカチで拭いながら優しく語りかける。
「パパとママが、喧嘩していたことはないでしょう?」
アナはしばらく考えたような表情をしてから、こっくりとうなずく。
シリウスもサフィニアも、人と言い争うような激しさは持ち合わせていないので、意見をぶつけ合うような喧嘩をすることは今後もないだろう。
そう言ったところでアナが納得するとは思えなかったので、わかりやすい例を提示した。
「いいか、アナ。殿下と妃殿下が、仲良しに見えるか?」
質問の意図がわからなかったのか、アナは目をぱちくりとさせる。
仲良しでなければ赤ちゃんが来てくれないと言うのなら、あの夫婦の元に、ふたりも子がいるのはおかしいのだ。
なにせ王太子妃は未だ王太子のことをわりと嫌っているのだから。
「アナのまぶのパパとママが、仲良くしていたことがあったか?」
「めがみしゃまと、げぼくしゃん……?」
「そうだ。ばっちぃから嫌いと言っているだろう? それでも、妹が来た。だから、喧嘩していたとしても、妹は来る。私とサフィニアの仲が悪いからアナに妹ができないわけではない」
仲が悪いわけでも、相性が悪いわけでもない。
ただ、ふたりともそちらの方面に疎いため、スムーズにことが運ばないだけで。努力はしている。完遂する決意もある。必要なのは、タイミングと勢いだ。
「いもうと、くる?」
「すぐには無理だが、そのうちには来る」
たぶん。
シリウスが断言すると、アナは「よかったのー」と笑う。良心が少々痛んだが、嘘はついていない。いつ来るとは明言していないのだから。
「あなねー、いもうとのおなまえ、つけたの」
それはいくらなんでも気が早い。
だが機嫌を直してくれたので今は口を挟まず好きなようにさせておくことにした。
サフィニアがひっくり返ったままだったジェノベーゼをアナに持たせると、すいすいさせながら妹の名前候補を口にする。
「いちごしゃんにするのー」
(前言撤回だ。早急にやめさせなくては)
イチゴシャン・バロウ。娘をそんな珍妙な名にするわけにはいかない。
かわいいお名前ね、と、にこにこしているサフィニアはこの件に関してはまったく当てにならない。さすがタピオカを受け入れているだけのことはある。
「もっと呼びやすい簡単な名前がいいのではないか? アナだって自分のことをアナと短い愛称で呼ぶだろう」
こじつけではあったが、それも一理あると思ったのか、アナはあっさりと意見を引き下げてくれた。
「いちごしゃん、ながい?」
「そうだ。『苺さん』では、アナスタシアと同じくらい長い」
「それなら、『ベリー』ではどうでしょう?」
サフィニアが人の努力を無に帰すことをまったく悪気なく言うので、シリウスは思わず真顔になった。このままでは、はじめての夫婦喧嘩が勃発しかねない。
「ママ、せんすないから、めっ!」
そのセンスのなさゆえに夫婦喧嘩は無事回避された。
「名前は産まれて顔を見てから考えればいい。その前にやることがたくさんある」
「あなねー、いもうとに、ぷれぜんとあるのー」
「プレゼント?」
「ぬいぐるみ!」
アナが選んだぬいぐるみをあげるつもりなのかと思ったが、おもむろに取り出したのは白い馬のぬいぐるみだった。
「これ、かぷれーぜ」
(どこから出した)
「あら、アナ? どうしたの、そのぬいぐるみ」
「おへやに、いたのー」
カプレーゼ。とうとう満月の夜以外でも具現化するようになってしまったようだ。
サフィニアがカプレーゼを手に取りしげしげと観察する。
前々から存在は認識していたが、こうして間近で見ると本当に普通のぬいぐるみだ。ジェノベーゼと並ぶと対だと思うくらいに、よく似た作りになっている。
しかしここにカプレーゼがいるということは、絵の中のカプレーゼは不在ということではないだろうか。それとも、絵の中に存在を残しつつ実体化できるようになったのだろうか。
子供部屋の絵の中にカプレーゼがいるのかいないのか。それは誰にもわからない。シュレディンガーの馬だ。
ちらっと見やったジェノベーゼのそわそわが止まらない。
「かぷれーぜ、ぷれぜんとなのー」
アナの相棒はジェノベーゼで、アナの妹の相棒はカプレーゼ。
このような不可思議なぬいぐるみを産まれたばかりの子に与えてもいいのかは不安だが、もっと摩訶不思議なぬいぐるみを相棒にしているアナがいるのだから、きっと大丈夫なのだろう。
ひとまず、妹の名前の件を忘れてくれたようで、その点に関してのみほっと胸を撫で下ろした。
アナが変な名前をつけてしまう前に、普通の名前の候補を出しておかなくてはと、頭の片隅に忘れないように書き記しておいた。
ジェノベーゼの番のカプレーゼ
アナと妹ですいすいする予定




