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 エスターと呼ばれた彼は、サフィニアをじっと食い入るように見つめ、互いに瞬きひとつせずに熱心に見つめ合っている。これでは完全にふたりの世界だ。


 蚊帳の外でますますおもしろくないシリウスは、旧知の間柄らしいふたりの間に躊躇いもなく割り込んだ。


「知り合いか?」


 シリウスがサフィニアに問いかけると、彼女は相変わらずびっくりした顔のまま、こくこくとうなずき肯定した。


「わたしの、幼馴染なのです」


「幼馴染……?」


 幼馴染が聖職者とは。本当にナスラン聖教にどっぷりと浸かっている。


 シリウスは胡散臭げにエスターを見やった。年齢は二十代前半か半ばくらいだろうか。シリウスが不躾に値踏みしていると、ちょうど彼もシリウスの存在に意識を移したところだったのか、バチリと視線が交差した。


 謎の敵愾心に突き動かされるまま火花を散らす勢いで見据えるシリウスに、彼は虚をつかれたような顔で瞠目しながらも、こちらを観察するかのような、見透かそうとするかのような目でまじまじと見つめ返してきた。シリウスと違ってそこに敵意はまるでなく、初対面の人にはわりとされがちな熱っぽいどろっとした視線でもない。シリウスがそうしたように向こうも値踏みしているのだろうと特に気に留めなかったが、サフィニアは気になったらしい。


「エスター?」


 不思議そうに小首を傾げるサフィニアへと、エスターは奥歯になにかが挟まったようなもどかしげな表情を一度投げてから、すぐに諦観のこもった声で「なんでもない……」とつぶやき、ゆるゆると首を振った。なにか話したいことがあったのに、シリウスがいる前ではできないと諦めたようにも見えた。


 この形容し難い疎外感。やはり気に入らない。


「幼馴染というか、兄貴分と妹分だろう」


 そう言って肩をすくめる仕草がやたら様になっている。彼はまるで、大聖堂を舞台に役を演じている華やかな舞台俳優のようだ。実際浮ついた様子の観光客たちがちらちらと彼を盗み見てはなにかを囁き合っている。


 しかし『エスター』という名前は、女性名ではなかっただろうか。そんな疑問を浮かべたシリウスの心を読んだのか、それともこれまでの人生でうんざりするくらいに何度も同じ質問をされてきたからなのか、彼は自ら名前についての説明を手早く済ました。


「長男には女性名をつけないと早死にするとかいう、馬鹿馬鹿しい風習が地元に根づいていたんですよ」


 それを聞いたシリウスはすぐに、なるほどと納得した。


 この国の主流はナスラン聖教だが、各地に古くから続く風習や伝承、信仰などが今も根強く残っているのは事実だ。地方に行くほどそれは顕著であり、シリウスでもすべてを把握しきれていないが、男児に女性名をつけるというのは聞いたことがあった。


 場合によっては人命に関わる危険な類の信仰や、風土病を発症するような風習もある。国から危険な行いは禁止されているのだが、やはり古くから続いてきたものを止めることはなかなか難しいものらしい。


 彼の場合、実害のないものではあるが、本人にとっては不幸なことだろう。


 両親と確執のあったシリウスには、彼の気持ちが少しだけだが理解できた。割り切っているようにも見えるが、名前を呼ばれるたびに小さな棘が引っかかるように両親のことを思い出すのはなかなかつらいことだろう。


 エスターは神妙な空気になることにも慣れているのか、それを払拭するようにさらりと話を切り替えた。


「それにしても、サフィニア。いつ王都に? 来たなら連絡くらい寄越せよ、俺がどれだけ世話してやったと思ってるんだ。それに……この方は?」


 問われたサフィニアは、幼馴染で兄貴分だというエスターへと、少しだけはにかみながらシリウスを紹介をした。


「この方は、わたしの旦那様です」


「だっ、旦那!? 旦那だって!? おまっ、結婚したのか!?」


 エスターの驚きの声は聖堂内に轟き、周囲の視線がこちらへと集中する。微笑みひとつでなにごともなかったように振る舞ったエスターは、声を潜めると、何度もあり得ないと首を横に振った。


「おまえ、あのサフィニア……だろう? てっきり立派な修道女になって、生涯をかけて神に仕えると信じて疑わなかったのに、なんで結婚なんか……」


 初耳だったシリウスは思わずサフィニアを凝視した。


 強い信仰心を持つ女性だとは知っていたが、どうやら修道女を目指すほど神に傾倒していたらしい。


 しかしエスターが惜しんだ通り、サフィニアはすでに結婚してしまっている。実情は白い結婚だが、書類上では正式な妻だ。彼女がいくら望んだところで、もう修道女になることはできないだろう。


 もしかしてシリウスのせいで、彼女の夢を奪ってしまったのだろうかと思うと、これまでにない後悔の波が急激に押し寄せて来て胸が苦しくなった。


 エスターから責められても仕方ないと粛々と受け止めようとしたが、彼が蔑むように吐き捨てたのは、シリウスではなく別の相手だった。


「あのクズ親のせいだろう、どうせ」


 シリウスは目を瞬いた。サフィニアの両親のことは、ほとんど書類上でしか知らないのだ。彼女が結婚にあたり養子に入った伯爵家の人間は知っているが、だからと言って親しくしているわけでもない。


 なにせサフィニアとの結婚は政略結婚と言っても、家同士の繋がりを持つためのものではなく、シリウスの条件に合う女性を見つけてきた王太子夫妻のゴリ押しで決まったようなものなのだ。


 シリウスもだが、伯爵家側も王太子の命令に逆らえるはずもなくサフィニアを書類上のみだが一度養子にして婚姻が成立したわけだが、今も互いに不干渉を貫いている。


 思い返せばサフィニアは結婚してから何度か手紙を出すことはあったらしいが、執事長が言うには、すべてが地元の教会の神父様宛だったと聞いている。


 普通ならば親と連絡を取ったりしないだろうか。


 こんな当たり前のことになぜ気づかなかったのか。


 シリウス自身が親と没交渉だったので思いつきもしなかったが、どうやら彼女のところも親子間の溝が深いらしい。


 一応端くれでも貴族の娘なのに、修道女になると公言していたほどの関係性だったのなら、相当だ。


「なんで俺に相談しなかったんだよ」


 エスターのちくりとした非難混じりの言葉に、サフィニアはばつが悪そうにつぶやく。


「……エスターの邪魔したら悪いし、話したらたぶん、怒ると思って」


 実際その通りになっているので、エスターは否定できずに気まずげに視線を逸らした。


「心配してくれるのは嬉しいけど、全部自分で決めたことなの。それにわたしは、結婚してよかったと思ってる」


 サフィニアはそう言って晴れやかに微笑んだ。そこに憂いはひとつもなく、黙って聞いていたシリウスは深く安堵した。同時に胸の奥がじんわりと温かくなり、なぜかそわそわと落ち着かない心地になる。そばにいるはずの彼女を感じたくなって、無意識にその細い腰に手を添えていた。


「……まあ、強制されたのでないなら、いいけど。むしろ縁が切れてよかったのかもな。清々しただろう?」


 サフィニアは苦笑した。否定しないあたり、実家にはよほど嫌な思い出しかないらしい。


 事前調査で、虐待などの暴力を受けているという報告はなかったが、体に不審な怪我などがあればメイドが知らせて来ていたはずなので、暴行などを受けていたわけではないのだろう。


 ならば精神的に傷つけられていたのだろうか。


 だから神に縋ったのだろうか。


 誰も助けてくれないから、神に助けを求めるしかなかったのだろうか。


 それが彼女の強い信仰心の原因ならば……。


 そう思ったらたまらず、彼女の腰に回した腕にきゅっと力を入れて自分の方へと引き寄せていた。


 不思議そうな顔をするサフィニアに見上げられたシリウスは動揺した。自分の行動の意味がわからずに戸惑うが、貴族としての矜持でそれを表に出すことはなかった。


 シリウスが堂々としていたら、サフィニアもそういうものかと納得したらしい。寄り添ったまま、ふたりでエスターに向き直る。


 彼はなぜかにやにやした顔をしてこちらを見ていた。本当に聖職者なのだろうか。未だ疑念を持ちつつシリウスが眉を顰めていると、


「仲睦まじいご様子で。……妹分を、末長くよろしくお願いします」


 思いがけず真摯に頼まれて、少しだけ彼に対する見方を変えた。


「ああ」


 短く、それでも当然だと覚悟を持って請け負った。もしシリウスが先に死んだとしても、彼女とアナの生活が困らないようにすでに遺言も作成してある。


 エスターがどうやらサフィニアを女性としてではなく、本当に妹のように思っていることにほっとし、なぜ安堵する必要があったのかと疑問を抱えたまま、ふたりの前途を寿ぐ祝福の言葉を素直に受け取った。


「あ、それと。……もうひとつ」


 エスターがサフィニアへと、さきほどとは違う種類の祈りの言葉を囁いた。


 はっとした彼女は月のネックレスを握りしめて、深々と頭を下げている。


 短い祈りだったが、サフィニアの目には涙さえ浮かんでいた。


 あまり信仰心のないシリウスにもその祈りの言葉の意味くらいはわかる。



 それは、冥福を祈るための文言だった。






エステル(エスター)•クロウ(25) サフィニアの兄貴分

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― 新着の感想 ―
[一言] スタートから反して、夫ちょっと変わってるけどかなりまとも?善良やな?
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