63 番外編17 下手ではないけど、うまくもない
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午後からだらけはじめた王太子に、にんじんをちらつかせたり鞭打ったりしながら、どうにかやる気を起こさせようとシリウスがひとり奮闘していると、近衛の彼が血相を変えて足早に入室して来た。
「礼拝堂の前で令嬢たちが揉めていると、衛兵より報告がありました。仲裁のため、至急こちらへ向かってほしいと」
「はぁ? 令嬢の揉め事の仲裁なんて、どう考えても王太子の仕事じゃないだろう」
「いえ……殿下ではなく」
近衛の彼の深刻そうなその顔が、シリウスへと向けられる。
「どうやらその令嬢の片方が、バロウ侯爵令嬢とのことで」
今現在バロウ家の令嬢は、アナしかいない。
全身の血の気が一気に引いた。
「バロウ侯爵令嬢が、壮絶に泣いていると……」
近衛の彼の言葉を最後まで聞くことなく、シリウスは王太子が止める間もなく執務室を飛び出していた。
礼拝堂の前管理者であるガマガエルが排除された今、後任が決まるまでの期間、ひとまずという形でエスターが代理としてその任についている。
礼拝堂の前で揉めているということは、エスターのところへ向かう途中か、もしくは帰り際になにかが起きたのだろう。
(いや、考えるのは後回しだ)
シリウスは運動不足の体を叱咤し、死に物狂いで廊下を走り抜け、時間短縮のために人生ではじめて窓から飛び降りた。一階のだが。
庭園を抜け、礼拝堂へと近づくにつれ、アナの悲痛な泣き声が鮮明になっていく。
はらわたを煮えくり返しながら、しかし体力のなさのせいで息も絶え絶えに駆けつけたそこでは、数人の令嬢たちに囲まれ泣かされているアナの姿があった。
同年代の子供の諍いかと思っていたが、それよりもずっと状況は悪い。三歳のアナをいじめていたのは、信じられないことに十代半ばくらいの令嬢たちだった。
令嬢たちとアナの間には聖職者がひとりいて、その司祭服の背にアナを庇っている。言わずもがな、エスターだ。サフィニアが近くにいないことを怪訝に思ったが、考えるのは後回しにして、シリウスは地面にぺたんと尻をついて大泣きしているアナの元へと駆け寄った。
「アナッ……!!」
シリウスは膝をついてアナをぎゅっと抱きしめてから、身を離して全身に素早く目を走らせた。怪我はないように見えるが、これだけ火がついたように泣いているでどこか痛い場所があるのかもしれない。
「もう大丈夫だ。大丈夫。怖かったな……」
エスターがこちらを軽く振り返り、ほっとした顔を見せた。貴族令嬢相手に、彼ひとりでアナを庇い続けるのは大変だっただろう。礼を言おうと口を開いたが、エスターの頰に打擲されたような跡があるのを見つけてそのまま言葉を失った。真ん中に立つ令嬢の手にある扇で打たれたのだとすぐに察し、はっとしてアナを見る。もしかしてアナも打たれたのではないかと思ったが、それはエスターが否定した。
「アナ様は尻餅をついただけで、殴られてはいませんよ」
殴られたわけではなかったのはよかったが、それはそれで腹立たしい。ジェノベーゼは臨戦態勢で翼を広げ、歯をぎりぎりと鳴らしてはいるが、アナに寄り添って慰めることを優先している。
アナはシリウスの胸に顔を押しつけるようにして、ぎゅっとしがみつく。よほど怖い思いをしたのだろう、ぷるぷると震えている。慰めるように背中をさすりながら、静かな怒りを堪えてエスターへと問いかけた。
「なにがあった」
「申し訳ありません、俺の不手際です。アナ様と遊んでいたのですが、俺の注意が遅れて……ぶつかってしまったらしく」
それで尻餅をついてしまったらしい。慌てて助け起こそうとしたエスターも難癖をつけられ、八つ当たりで殴られたのだろう。聖職者とはいえ、信仰心のない貴族からは下賎な者扱いをされる場合も多い。
令嬢たち、特に真ん中にいるリーダー格らしき扇を持つ少女の顔には見覚えがあった。
(また面倒な相手に絡まれたな……)
立場はアナと同じ侯爵令嬢ではあるが、第二王子の婚約者候補として名も挙がるほどの名家の令嬢だ。
期間限定とはいえ侯爵位を頂いているシリウスよりもこの小娘の立場が上なわけではないが、その親となると話は別で、下手に関わるとこちらが不利益を被るような相手でもあった。弱みのひとつでも握っていればまだましだが、どこの家でもそうであるように、疑惑はあっても確証がない。
なによりシリウスの繋ぎの侯爵というその立場は不安定なものだ。自分でも本業は王太子の補佐だと思っている。
向こうもこちらの事情を知っているのだろう。シリウスが来たところで不遜な態度はまったく変わらず、それどころか蔑むような目をして自らのドレスの裾を指差し吐き捨てた。
「その子のせいで、ほら、ドレスが汚れてしまったわ。これだから血統の悪い人間は嫌。こんなのが同じ侯爵令嬢だなんて、ぞっとする」
確かにドレスの裾は泥のようなもので少し汚れているが、それにしたって大袈裟過ぎる。アナはまだ三歳なのに。
「……っ!? ちがっ……ちがうのーっ! ちがっ、うっ、うぅ……」
うまく否定できずに嗚咽する娘の背中を、シリウスはとんとんと軽く叩いて宥める。
「わかったから。パパはアナの味方だ」
「うっ、うっ……」
アナはあちこち走り回る活発な子ではあるが、不注意で人とぶつかったり物を壊したりすることはあまりない。意外と周りを見ているのか、別の理由があるのかはわからないが、例外があるとすれば相手からぶつかって来るというような場合のみだろう。
そう思っていたシリウスだが、そこでエスターが少し気まずげに思いがけないことを口にした。
「いえ、ぶつかったのはアナ様ではなく、聖……ぬいぐるみの方で」
シリウスは一瞬怒りも忘れて瞬いた。ぬいぐるみとは。
「……ジェノベーゼ?」
「俺の目では、ぎりぎり避けていたように見えたのですが……」
ジェノベーゼも無実を訴える目をしている。
少し混乱してきた。
「つまり、どういうことだ?」
エスターが言うには、アナは礼拝堂の前でジェノベーゼを飛ばせて遊んでいたらしい。そこに運悪く彼女たちが通りかかり、ジェノベーゼは衝突を避けるために急旋回したものの、その足元に転がってしまい、「なに、この汚いぬいぐるみ」と、ぽこんと蹴飛ばされたという。
ドレスの汚れはジェノベーゼを蹴ったときについたものであり、アナはジェノベーゼを目の前で蹴られたことにショックを受けて尻餅をついて泣いてしまったらしい。
当のジェノベーゼに傷はなさそうだが、アナにとっては恐ろしい出来事だったに違いない。人の心がないとまで言われたシリウスですら、この令嬢には人の心がないのではないかと真剣に思った。ぬいぐるみにも心はあるというのに、それを蹴るとは。
「状況は把握したが、サフィニアはどうした?」
「それが……少し前に、なんか変な女に絡まれて……」
「は……?」
「立ち話していたら急に、『わたしのシリウス様を返しなさい、このあばずれ!』とか、頭のおかしいことを叫びながら女が詰め寄って来て……暴言があんまりにも酷かったので、子供に悪影響を与えると思って俺がアナ様を預かってここに避難して来たんですが……」
エスターは自分の判断ミスだと申し訳なさそうにしているが、悪いのはその頭がおかしい令嬢であり、目の前の令嬢たちである。
おそらくエスターと親しげに話していたことで誤解されたのだろう。
とりあえずサフィニアの方は執事長がついているらしいので大丈夫だろう。こっちが解決してから加勢しに行ってもいいが、シリウスがいると話が拗れそうな気もするので判断が難しい。
最悪、執事長が相手の首の裏をとんと打てば場は収まるだろう。
ひとまず先にアナだ。
ジェノベーゼはぶつかっていないと必死に訴えているが、さすがにぬいぐるみの証言になど誰も耳を貸してはくれないだろうし、そもそもジェノベーゼは話せないので肝心の証言自体ができない。
エスターもはっきりとその瞬間が見えたわけではないらしいので、こちらの正当性を証明するのは難しそうだ。訴え出たところでこちらが負ける。権力に負ける。
アナとジェノベーゼをいじめたことは許さないが、かと言ってシリウスは罰を与える立場にはない。できるのは暴れ馬を放つことくらいだが、これだけ人目のあるところで動けば、未知の生命体として捕えられて実験動物にされかねない。馬なのに。
謝ってドレスを弁償すれば早い話なのだが、それだとアナの非を認めることになってしまう。
最悪の場合は王太子を連れて来て虎の威を借るという手もあるが、褒められた手段ではない。
この理不尽さこそが貴族社会だ。
だがアナがそれを身をもって知る必要はない。
矢面に立つのはほかでもない、父親の仕事だろう。
しかしそれよりも、泣いているアナを慰めるのが先決だ。
シリウスは一度咳払いしてから、喉を整えた。
そして、歌った。
「♪ジェノベーゼは走るよ、すいっ、すいっ、すいっ、すいっ」
アナの背をとんとんしながらシリウスが真顔で歌い出したので、エスターがぎょっとした顔で振り返ったが、お構いなしに歌い続ける。
「♪ジェノベーゼは飛ーぶよ、すいっ、すいっ、すいー」
アナが驚いたようなまんまるな目でこちらを見た。泣き顔が痛々しいが、涙は止まり、アナ作詞作曲の『ジェノベーゼの歌』をじっと聴いている。
「♪ジェノベーゼは泳ぐよ、すいっ、すいっ、すいっ、すいっ」
アナを誘うかのように、腕に抱えたジェノベーゼがリズムに合わせてゆらゆら揺れる。
「♪ジェノベーゼは踊るよ、すいっ、すいっ、すいー」
アナの気持ちが落ち着くなら子守り唄でもよかったが、ジェノベーゼの歌で正解だったらしい。できることなら人前でなど絶対に歌いたくはなかったのだが、今は自分の羞恥心よりもアナだ。泣き止んだのならそれでいいと思っていたら、アナがおもむろに、続きを歌い出した。
「♪じぇ、じぇ、じぇのべーぜ、じぇのべーぜったらじぇのべーぜ」
いや、待て。アップテンポなそんなパートは知らない。続きがあったことも知らない。
「♪じぇ、じぇ、じぇのべーぜ、じぇのべーぜ、だよっ」
だよっ、に合わせてジェノベーゼがぱちんとウインクをしたが、幸いにもシリウスしか見ていなかった。
……いや、エスターは見ていたかもしれない。急に真剣に祈りはじめた。聖職者の本気はサフィニア以上の気迫があって怖い。
令嬢たちの目は点になっているが、瑣末なことだ。
泣き過ぎて赤い目をしたアナは、心配そうにジェノベーゼの横腹を撫でている。そこを蹴られたのだろう。
「じぇのべーぜ……いたいの、ない?」
「ジェノベーゼは元気だ。ちょっと汚れたくらいで傷もない」
ぬいぐるみに痛覚があるのかは知りようもないが、汚れに関しては拭けばすぐに落ちるだろう。
前々から思っていたが、ジェノベーゼはちょっとやそっとのことでは傷つかない頑丈なぬいぐるみだ。
アナはジェノベーゼを細部まで確認してから、無事と理解してようやくちょっと笑みを見せた。
シリウスもほっとしながらアナを抱き上げて、エスターへと声をかける。
「サフィニアを探しに行くので、案内を頼む」
「構いませんよ。こちらです」
エスターに促されて足を踏み出しかけたところで、ようやく我に返ったらしい令嬢たちに待ったをかけられた。
「謝りもせず逃げる気? お父様に言いつけるわよ!」
その程度の脅しがシリウスに効くとでも思っているのだろうか。
呆れつつ、これ以上無益な話し続けるのも面倒なので虎の威を借りることにした。
ただし、虎は虎でも、王太子ではない虎だが。
シリウスはこちらをにらむ彼女たちを無視して、あえて娘へと話しかけた。
「アナ、せっかく城に来たのだから、イザーク殿下に会いに行くか?」
「せんせー?」
「そうだ。アナとジョシュア王子の絵の先生の、イザーク殿下だ」
「せんせーのえ、みるー」
「そうか。アナはいつでも絵を見に来ていいと言ってくれていたから、今から向かうか」
「うんー!」
令嬢たちが怯んだのを横目に、やはりな、と思いながら、エスターを連れて歩き出す。
もう引き留められることはなかった。
しばらく歩いてから、エスターはちらりと後ろを確認してから、肩をすくめて笑った。
「大人げないやり口ですね。わざわざ殿下の名前を口に出すのは、あまり褒められたことではないでしょうに」
「だが、穏便にことが済んだ。こういうのは最初にしっかり釘を刺しておかなければ、またアナに当たられても困る」
聖職者であるエスターを扇子で打つという信仰心皆無の彼女たちが、城の敷地の中でも奥まった場所にある礼拝堂の前を通りがかること自体が妙だと思ったのだが、予想が当たっていて助かった。
「第二王子目当てでしたか」
「今日は公務でこちらに滞在しているから、あわよくば、と思ったのだろう」
「……そうですね、殿下はよく祈って行かれますよ。とても熱心に」
彼がなにを祈っているのか、おおよその察しはつく。アナが不思議そうな顔をこちらに向けてきたので、撫でてごまかした。
第二王子の妻の座を狙うのなら、彼女たちはもう少し情報を集めてから慎重に行動すべきだった。
アナがイザークの絵の生徒だと知らなかったのか、知っていてやっかまれたのかはわからない。取り入る方向で動いていればなにか違ったかもしれないが、アナを泣かせた時点でもう決定的に手遅れだ。
どちらにしても、美人だが気位が高そうなつんと澄ました顔や、人を見下すあの態度からして、彼女らはきっとイザークの好みではないだろう。
城内の情報は驚くような早さで広がる。すぐに第二王子の耳にも届くだろうし、それによってどうなるかは、シリウスの考えることではない。
「今度また同じようなことがあれば、今と同じ手を使えばいい。そのことでいちいち殿下から咎められたりはしないはずだ」
アナをいじめるような相手などイザークも願い下げだろう。
シリウスの予想通り、件の令嬢たちはイザークから厳しいお叱りでも受けたのか、それ以降、礼拝堂周辺で彼女たちを見かけることはなくなった。
もちろん別の場所でアナに絡んでくるということもない。
礼拝堂の前では、今日もすいすいジェノベーゼが空を飛んでいる。
『ジェノベーゼの歌』
ジェノベーゼは走るよ すいっ、すいっ、すいっ、すいっ
ジェノベーゼは飛ぶよ すいっ、すいっ、すいー
ジェノベーゼは泳ぐよ すいっ、すいっ、すいっ、すいっ
ジェノベーゼは踊るよ すいっ、すいっ、すいー
(ラップ調)
ジェ、ジェ、ジェノベーゼ ジェノベーゼったらジェノベーゼ
ジェ、ジェ、ジェノベーゼ ジェノベーゼ、だよっ←(ジェノベーゼウインク)
一方その頃①
エスターに聖典の内容でも語っておけと言われたので素直にその通りにしていたサフィニア
結果、絡んできた令嬢に逃げられる
ちょっと語り足りない
一方その頃②
情報が錯綜して、シリウスが窓から身投げしたと伝わり、パニック状態に陥っている王太子の執務室
戻ってきた無傷のシリウスに、全員で仲良く大きな悲鳴をあげた
ちなみに
頰を打たれたエスターには、この後アナがジェノベーゼオリジナルをプレゼントしました
そして家宝となるジェノベーゼオリジナル……




