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サフィニアと出かけるにあたり、唯一の懸念事項がアナだった。
百連勤という地獄のような過密労働の後にようやく得られた休日。午前中いっぱい死んだように眠って休養を取ったシリウスは、昼食後にサフィニアを探して回り、庭でアナといるところを見つけて早々に切り出した。
「今日、少し街に出かけようと思うのだが」
「はい、行ってらっしゃいませ」
庭でとたとた元気に走り回るアナを優しい目で見守っていたサフィニアの返答は、ある意味予想通りだった。
「違う。きみも行くんだ」
「わたしも……ですか? ですがアナが……」
「アナはもう少し、他人と接する機会を増やすべきだろう。一日の大半をきみが面倒見ているではないか。それに少しは息抜きをしないと、今後身が持たなくなるぞ」
それはかねてよりシリウスが思い続けていたことだった。
アナばかりでなく、自分のことも考えないといつか限界が訪れる。
たまにはお互いに、離れて過ごす日があってもいいだろう。
アナだってこれから先、ずっと母親と一緒にいるわけにはいかないのだ。少し離れる練習もさせておかなければ。
「……もしかして、わたしを心配してくれているのですか?」
純粋な眼差しとはなぜこうも人をいたたまれない気持ちにさせるものなのか。
なんだかんだ言い訳を並べ立てはいたが、結局はシリウスがサフィニアを外に連れ出したかっただけの話である。
もちろん慰労の意味合いも大きくはあるが。
しどろもどろなシリウスに、サフィニアはふわりと微笑んだ。
「やっぱり旦那様は優しいですね」
「そんなことを言うのはきみくらいなものだ」
「みなさん、そう思っていても言葉にして言わないだけなのですよ」
絶対に違うとシリウスは断言できるが、今にはじまったことではないので軽く流した。
「乳母もいるのだから、半日くらいならば問題ないだろう。夕食前には帰って来る」
アナは乳母にも懐いていると聞いているし、使用人たちは当然のこと、執事長もいるので心配はいらないだろう。
アナの、初対面の人間にも臆することない豪胆さは、目を見張るものがある。あの娘は案外大物になるかもしれないと親ばかのようなことを素で考えながら、シリウスはサフィニアを外出着に着替えに行かせた。
庭からサフィニアが消えたことに遅れて気がついたアナは、不安げにあたりを見渡してからシリウスの方へと走って来ると、いつも通りに足にしがみついた。
もはやわざとやっているようにしか思えないのだが。
シリウスの足にはしがみつかなければならないと決めている気がする。
「……ママはー?」
「着替えに行っている。…………私と、遊ぶか?」
シリウスが問いかけると、アナは、ぱっと笑顔を見せた。甥と遊んでやったこともあるので幼子の相手など余裕だと完全に油断していた。
兄や自分と似てあまり屋外では遊ばなかった甥と、庭で走り回るような天真爛漫なアナが同じような遊びに興じるはずがなかった。
「パパ、おうましゃーん」
「……? 馬?」
厩舎から馬を連れて来ればいいのだろうか。しかし馬と触れ合わせるにはまだ早い気もする。アナなど、万が一蹴られたらひとたまりもない。危険過ぎる。
少し離れた場所から馬を見せてやれば気が済むだろうかと真剣に考えていたシリウスに、様子を遠巻きに見ていて色々と耐えきれなかった使用人たちが方々から現れると、静かに耳打ちをされた。
おかげで自分の考えが間違いであり、アナが本当はなにを望んでいるのかが判明した。
シリウスを馬にして跨って遊びたかったらしい。乗馬の練習の一環だろうか。いつかは馬に乗れるようになるに越したことはないが……。
「室内ならまだしも、外では無理だ」
シリウスが一刀両断すると、アナは目を潤ませた。
「おうましゃーん……」
「な、泣くな……。そんなに馬が好きなら今度ポニーを飼ってやるから、今は高い高いとかで我慢しなさい」
シリウスが慌ててアナの両脇に手を入れて持ち上げると、普段してもらう高い高いよりもよほど高かったのだろう、アナは馬のことなどすっかり忘れてきゃっきゃとはしゃいだ。単純な娘だ。
言われるがままにアナを持ち上げくるくる回ったり、疲れてしゃがんだところをのしかかられたり、最終的には追いかけっこにまで発展したので、出かける前にどっと疲れてしまったが、それはアナも同じで、シリウスの腕の中で遊び疲れて寝落ちした。
ふつりと糸が切れるように眠ったので失神したのではないかと慌てたが、聞くとどうやらおかしなことではないらしい。
この年でこれだけ元気なのだ、数年後にはシリウスの体力が限界を迎える気がひしひしとしている。
今のうちに少しでも体を鍛えておいた方がいいのだろうかと思案していたところで、サフィニアがやって来た。
シリウスが事前に用意していた清楚なワンピースは彼女によく似合っている。行く場所が場所なので濃紺の地味な色合いにしたが、それでも彼女の野花のような慎ましやかな美しさが損なわれることはなく、神に仕えるシスターのように清廉さが増している。
あまり派手な格好をすると金銭目的で狙われる可能性もあるので、シリウスの装いも普段よりも簡素だ。王太子のお忍びで鍛えられた変装の腕が、今はじめて活かされた。
女性の服装を褒めるという最低限のマナーすら失念していたシリウスだが、普通の女性ならば怒るようなところをサフィニアはまるで気にしないので、うまく噛み合う結果となった。
サフィニアの視線は、シリウスの腕の中で眠るアナに注がれている。
「あら……眠ってしまいましたか」
「ああ。昼寝をしている今のうちに出かけよう」
アナを部屋まで連れて行って静かにベッドに入れてやり、後のことは乳母に任せることにした。
心得たとばかりにうなずく乳母の生温い眼差しがうるさいが、サフィニアは丁寧にアナのことをお願いしている。
後ろ髪引かれる様子のサフィニアを連れて、シリウスは用意していた馬車へと乗り込んだ。
「どちらに向かわれるのでしょうか?」
「堅苦しい貴族のお茶会などではないから、安心しなさい」
そわそわと不安げにしていたサフィニアは、それを聞いて少しだけ肩の力を抜いた。
「きっと、きみが喜ぶ場所だ」
目を丸くして首を傾げながら思案するサフィニアに、シリウスは早々に、どこに向かっているかの種明かしをした。
荘厳な鐘の音が街中に響き渡る、ナスラン聖教のこの国唯一の大聖堂。
この地区は特に景観が美しく、観光地としても有名だ。華やかさもあるが貴賤貧富の差が如実に表れる王都の街とは違って、古き良きという言葉がよく似合う趣きある街並みだ。普段街中ではあまり見かけない祭服の男性やシスター服の女性が、当たり前のように溶け込んでいるのもこの地区ならではの特色だろう。
馬車から降りて大聖堂の入り口で一度足を止めたシリウスは、隣に立つサフィニアの様子をちらりと窺った。
予想はしていたが、彼女は口を半開きにしながら首が痛くなりそうなほど大聖堂の外観を見上げて、感激のあまり目尻に涙さえ滲ませていた。
外観でこれなら、中に入ったらどうなるのか。
ハンカチを差し出すと彼女は礼を言って受け取った。そして涙を拭い終わると、改めてシリウスへと向き直り、輝かんばかりの笑みを見せて言った。
「旦那様、ありがとうございます……! 一生に一度でいいから、訪れたかった場所なのです!」
サフィニアがあまりにも嬉しそうで、シリウスもつられるようにわずかに頬を緩めた。
こんなまったく金のかからないデートでこれほど喜んでもらえるのなら、シリウスも計画した甲斐があったというもの。王太子のつまらない戯言に耳を傾けていてよかったと思う日が来るとはと、無駄話もときには必要なのだと認識を改めさせられた気分だ。
サフィニアをエスコートし、ナスラ神の眷属である天の御使い――星の子たちの彫刻に高い位置から見下ろされながら入り口をくぐり抜けて中へと足を踏み入れる。
ナスラ神のシンボルは月なので、夜の雰囲気漂う内部はやや薄暗いが、蝋燭の炎があちらこちらでちらちらと揺れる様は非日常感があって幻想的だ。
背面に丁寧に月と星の透かし彫りが施された長椅子が左右に整然と並び、中央祭壇へとまっすぐ伸びる身廊を、シリウスはサフィニアを連れてゆっくりと歩いていく。
最奥部にある巨大なナスラ神の彫刻を前にしたサフィニアは、その場で膝をつくと、首からかけたネックレスを服の中から引き出して、本格的な祈りを捧げはじめた。
一般的な祈りはかなり短縮されているが、実際の祈りは途方もなく長い。あの祈りの文言を一字一句覚えているなら、相当に記憶力がいいと言わざるを得ないほどで、聖典など、辞書の厚みだ。
観光客の方が割合が多いものの、熱心に祈る者もほかにいるので、サフィニアだけが浮いているわけではない。
しかし、シリウスは暇だ。
仕方ないので有名彫刻家の手がけた星の子たちの彫刻を眺めたり、大聖堂の内部構造をじっくり観察しながら一周し、まだ祈り終わらないサフィニアに苦笑してから、一番前の長椅子にかけて待った。
時間を無駄にすることは本来嫌いなたちのシリウスだが、信者に祈りを短縮しろと言うほど狭量ではない。これでも最低限の信仰心は持ち合わせているのだ。にわかではあるが。
ようやくサフィニアが祈り終えてシリウスの元へと戻って来たとき、唐突にパイプオルガンの音が聖堂内に響き渡って反射的に背筋が伸びた。
なにごとかと思っていると、星の子たちの衣装を着た子供たちが左右からぞろぞろと現れる。どうやら子供たちの讃美歌が神へと捧げられる時間だったらしい。
シリウスの隣に静かに腰を下ろしたサフィニアは、そのソプラノの綺麗な歌声に目を閉じて耳を傾けていたが、最後には小さくハモリを口に乗せていた。
子供たちの声の方が大きいはずなのに、隣から聞こえる囁くような讃美歌にこそシリウスは聞き入った。
(歌がうまいとは、知らなかった)
讃美歌だからかもしれないが、小川のせせらぎのように透き通り、心を癒して穢れを流し去ってくれるような心地よい歌声だった。
子供たちの讃美歌が終わると、サフィニアはようやく、長いまつ毛を伏せるようにして閉じていたそのまぶたをゆっくりと上げた。そして、脇へと順にはけていく子供たちのことを優しい眼差しで眺めながら、ぽつりと、懐かしい……と、つぶやいた。
(懐かしい?)
子供の頃に合唱団にでも入っていたのだろうか。
そう尋ねようと声をかけかけたとき、ふと、こちらへと歩いて来る人がいることに気づいて咄嗟に口を閉した。このような場所で知り合いに会うことはまずないだろうと油断していただけに、警戒心をかき集めてそちらへと目をすがめる。
薄暗い室内で朧げだった影は蝋燭の明かりと高窓から入る少しの光の筋のおかげで、少しずつその姿が明らかとなっていく。黒に近い濃紺の祭服を身に纏った青年だ。彼はその長衣を揺らしながら、他人には一切目もくれず、まっすぐにシリウスたちの元へと向かって来る。
司祭……いや、若いので司祭ではないのだろうか。にわか信者のシリウスではそのあたりの違いがよくわからないが、祭服を着ているということは、聖職者で間違いはない。
癖のある薄茶色の髪に、舞台映えしそうな華やかな顔立ちの色男だ。シリウスにはまったく覚えのない顔であり、戸惑いが増していく。
しかしシリウスの知人でないのなら、答えはひとつだ。
彼はサフィニアの前で足を止めると、怪訝そうに眉を顰めながらその口を開いた。
「……サフィニア?」
呼びかけられたサフィニアは、はっとしたように顔を上げると、驚きも露わに目を見開いた。わななく口元を手で覆い、そして彼と向き合うために慌てて立ち上がった。
「エスター!?」
驚愕の中にも喜色の浮かぶ彼女の横顔を見上げ、シリウスは思う。
なぜだろう。
非常におもしろくないのだが。
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