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52 番外編6 肩車

サフィニア視点



 サフィニアが夫の執務室のドアを開けると、膝をついて頭を低く下げたシリウスの上に、向かい合わせで立ったアナが折り重なるように張りついているのが見えた。


「……?」


 シリウスの頭にのしかかるアナは、フリルつきのキュロットを履いた片足を上げたり下げたりしながら、なにやらうごうごしている。


 新しい遊びかと思ってしばらく感心しながら眺めていたら、アナの下からシリウスがこちらへと縋るような眼差しを向けてきた。


「肩車の正しいやり方を教えてほしい」


(肩車だったんだ……)


 向かい合わせになっている時点で間違いしかない。


 どうにかしてシリウスの肩に乗ろうと奮闘するアナの両脇に、サフィニアはすっと手を入れてひょいっと持ち上げた。


「ママ……?」


「アナ、ちょっとごめんね?」


 正しい向きでシリウスの首を跨ぐように乗せると、アナはようやく思った形になったことを喜んでにこっと笑った。


 今日も娘はかわいらしい。サフィニアもにこりと微笑み返した。


「立ち上がるから、しっかり掴まっていなさい」


「うんー!」


 アナが言われた通りに、シリウスの髪を両手でむんずと掴んだ。


 力加減を知らない娘は手綱のように髪を容赦なく引っ張る。そのぴんと張り詰めた髪束に、サフィニアは思わず息を呑んだ。それでは髪が抜けてしまわないだろうか。


 ハラハラしながらも、はたと気づいて思案する。


(いっそ、ごそっと髪が抜けていたら……)


 ストレスによる脱毛ということで、しばらく仕事を休む口実になるかもしれない。


 シリウスが屋敷にいる時間も前よりは長くはなったが、それはサフィニアやアナと過ごす時間を捻出するために調整しているだけで、仕事量自体は変わっていないと聞いている。


 とはいえ高潔なシリウスが仮病を使うことはないだろうこともわかっているので、サフィニアも考えるだけで口に出したりはしなかった。


 現実的に考えて子供がちょっと掴んだくらいでは髪がごそっと抜けたりはしないが、彼の場合、度重なる睡眠不足で同じ年齢の人よりも毛根が弱っているはず。やはり不安しかない。


 髪が引き攣る痛みを堪えるように、シリウスはいつも以上に難しい顔になっていたが、立ち上がると同時にアナがぱっと手を離したのでほっとした表情で安堵をにじませた。サフィニアもアナの両手に毛束が絡んでいないことに、そっと胸を撫で下ろした。


 そんな大人たちの心情など知らないアナは、やり切ったとばかりに満足げな顔で万歳をしている。


「とうちょー」


(頭頂…………あ、登頂?)


 髪のことばかり考えていたせいで、聞き間違えてしまった。


 登頂を成し遂げた娘に拍手を贈ると、アナは晴れやかに笑った。サフィニアが来るまで、肩車ができずによほど大変だったのだろう。アナがのしかかってうごうごしていたからか、シリウスの髪も掴まれたところだけでなく、全体的に乱れている。


 多少髪が乱れた程度では損なわれない美貌の夫ではあるが、その少し抜けた姿を眺めながらサフィニアは再び思考の澱へと沈んでいく。


(もし頭頂から毛量が減ったら……)


 言い寄ってくる女性も、少しは減るかもしれない。


 未だに、シリウスの不在中に、屋敷に突撃して来る勇猛果敢な女性が一定数現れるのだ。バロウ家よりも格下の貴族なら、執事長をはじめとした使用人たちが追い返してくれるものの、同格や格上になるとそうもいかない。


 一応妻として話だけは聞くようにしているが、ものの見事にみな同じことを訴える。つまり、シリウスと愛し合っているのは自分の方であり、サフィニアは身を引け、と。


 シリウスがいない隙を狙っている辺り、不安を煽ってサフィニアが自ら出て行くように仕向ける意図があるのだと思う。根っからの貴族の娘ならばプライドが傷ついて去るかもしれないが、サフィニアは違う。初対面の相手の一方的な話を鵜呑みにして惑わされるほど愚かではない。


 結婚当初ならいざ知らず、シリウスのトラウマを知るサフィニアが、彼女たちの言い分に疑問を抱くのは当然のことだった。


 もしシリウスが結婚前に誰かと愛し合っていたのなら間違いなくその女性と結婚していただろうし、情が深い人なので、どのような障害があってもきっとめげたりしなかったはず。


 悲恋にあまんじるような人ではないのだ。


 アナを本当に実の娘にしてしまったように、思いもよらない方法で自らの想いを成就させただろう。


 それだけでもシリウス・バロウという人間のことをまったく理解していないことが窺える。


 とはいえ、そう正論を説いたところで聞く耳を持つ相手ならば、非常識に屋敷にまで押しかけては来ないわけで。


 王太子命令で仕方なく娶ったお飾りの妻だと嘲笑されることに、なにも思わないわけではない。それでもいちいち気にしていたら、きっとシリウスの妻など務まらないだろう。


 執事長や使用人のみんながそばで控えていてくれるので身の危険はまったく感じなくても、やはり、話の通じない人との会話は疲れるものだ。


 サフィニアは両親のせいでそういうことに慣れているのでこの程度で済んでいるが、慣れていなければ精神が病んでいそうだ。


 結局いつも、どうお引き取り願うか迷っている間に、サフィニアを探してとことこやって来たアナが状況を理解しているのかいないのか、女性の顔面に向かってジェノベーゼを投げつけて終わるという一連の流れとなっている。


 しょっちゅうボールやら泥団子やら雪玉をぶつけられていたサフィニアからしたら、ぬいぐるみなど物のうちにも入らないが、女性たちはみな怯えて逃げ帰って終わりである。


 そしてなぜか、その女性が訪れることは二度とない。


 ジェノベーゼが思ったよりも、すいーっと勢いよく飛んでいくので、案外、ぶつかると痛いのかもしれない。


(中、綿なのに……)


 バロウ家七不思議のひとつだ。


 ジェノベーゼが痛いかどうかはさて置き、アナのジェノベーゼの扱い方には不安しかない。


 悪い子ではないのだが、気に入らない相手にジェノベーゼを投げる癖だけは直してほしい。


 そんなことをつらつらと考えながら、シリウスの肩車に両手を挙げてはしゃいでいるアナを眺め、サフィニアはさりげなく万一の落下に備えた位置に移動した。


 シリウスもこのままだと落ちそうだと思ったのか、アナへとすかさず注意喚起する。


「手を離すな、危ないからしっかり掴まっていなさい」


「うんー!」


 素直に従ったアナはシリウスの頭に腕を回したが、今度はうまいこと両目が手のひらで塞がれた。


「アナ、それでは前が見えない!」


 慌てるシリウスが転んだり物にぶつかったりしないよう、サフィニアは周囲の物を退けて気を配りつつふたりを見守る。


「♪あなのなのー、あなのなのー」


「歌はいいから、目を!」


 高いところが好きなアナはご機嫌で、体をゆらゆら揺らしながらリズムを取って自作の歌を熱唱しはじめた。


「♪パーパとマーマは、あなのなのー」


「危ないっ、落ちる!」


 シリウスの頭をがっちり抱えているので落ちはしないだろうが、念のためアナの背中に手を添え、シリウスの腕を引いて開けた場所へと誘導する。


「♪じぇのべーぜーもー、あなのなのー」


 アナは歌いながらジェノベーゼのことに思い出したのか、ポシェットからジェノベーゼを取り出すと、シリウスの頭にちょこんと載せた。まさかの頭頂に登頂だった。


 ようやく視界が開けたシリウスが安堵の息をついたところで、アナも途切れていた歌の続きを歌う。


「♪かぷれーぜーもー、あなのなのー、あなのなのー」


「カプレーゼはイザーク殿下のだ」


 おそらく本物ではなく絵の白馬の方だと思うが、もしかすると、この世の馬はすべてアナのものだと思っている可能性もなくはない。


 とんでもない歌だな……、とつぶやくシリウスが、ふと今気がついたというように、サフィニアへと問いかけてきた。


「ところで、きみはなにか用があって来たのではなかったか?」


 指摘されたおかげでサフィニアは本来の用件を思い出した。うごうごしていた肩車の衝撃で飛んでいた。


「お食事ができたそうなので、呼びに来ました」


 そう言うとシリウスが少しだけ表情を緩めた。


「そうか」


 シリウスは気づいていないだろうが、最近サフィニアを見るその眼差しが特に柔らかい。ふいに向けられると、どきっとしてしまうほどに。


 彼は頭上のアナにも、その優しげな目をしたまま声をかけた。


「もう食事の時間らしい。このまま一緒に向かうか」


「うんー!」


 サフィニアは不意打ちの胸の動悸を秘めて、アナを肩車したままのシリウスと並んで歩き出した。


 頭に載ったジェノベーゼが見事なバランスを保っているのを不思議に思いながらも、ふたりの微笑ましくも愉快な会話に耳を傾ける。


 あれなんで、これなんで、と、アナはあれこれ指差し訊いては、シリウスがその都度そつなく答えていく。


 たぶんアナはその説明のほとんどを理解していないだろうが、そっかー、とにこにこしながら、このやり取りそのものを楽しんでいるようだった。


 幼いアナには毎日が新しい出会いとの連続だ。なぜ、どうして、と思うことも増えている。


 サフィニアでは答えに窮することでも、博識なシリウスが正しい答えをくれるのでありがたい。


 サフィニアは虹を作る方法は知っていても、なぜ虹ができるのかまではわからない。そこまでは学んでいないからだ。


 しかしそれを恥じてはいない。


 聖典の内容ならシリウスよりも詳しい自負はあるし、高度な教育を受けられるのは恵まれたひと握りの人間だけなのだと割り切ってもいる。


 それに、シリウスが答えたことをサフィニアがしっかりと記憶しておけば、また次にアナから同じ質問をされたときに、正しい答えを教えてあげられる。アナがわかりやすいように、噛み砕いて説明してあげることもできる。


 アナがもう少し成長したら、一緒に調べ物をするのも楽しそうだ。この屋敷の蔵書は多いので、きっといくらでも答えは見つかるはず。


 アナが今、こうして自由に学べる環境にあることはとても幸運なことだ。サフィニアはネックレスに触れて、神へと感謝の祈りを捧げ、シリウスへと感謝の祈りを捧げた。


 パパとたくさんおしゃべりができて嬉しそうなアナは、ふと窓ガラスに映る自分たちの姿を目にすると、不思議そうに首を傾げてからシリウスへと尋ねた。


「パパのあたま、ちがうのなんで?」


「頭?」


 アナがシリウスの髪をつんつんと引っ張る。肩車で視点が変わったからか、シリウスだけ髪色が違うことを唐突に疑問に思ったらしい。


「これ、なにいろ?」


「これはプラチナとかシルバーとか……そんな感じの色だ」


「ぷらちな? なにいろ?」


 シリウスがさすがに言葉に詰まったので、サフィニアはあえてアナへと聞き返してみた。


「何色かな? アナは何色だと思う?」


「うー……んとねー、ふんすいいろ」


「噴水?」


「ふんすいのおみず、ゆらゆらがきらきらなのー。パパ、ふんすいいろー」


 アナの発想力はサフィニアとはまるで違うらしく、思いがけないことを言われる度に驚かされている。噴水色。考えたこともない。シリウスもサフィニアと似たような表情をしていた。


 アナのひと言で、シリウスの髪色は噴水色に決定した。アナが噴水色と言えば噴水色になるのがバロウ家だ。今や羊は使用人たちの間ですら毛玉で定着している。


 かわいいは法なのだとか。


 バロウ家に於いてはアナが法らしい。


「なんでパパ、ふんすいいろ?」


「それは……遺伝だな」


 シリウスの声が一瞬こわばった気もしたが、すぐに苦笑へと変わる。サフィニアは気づかなかったふりをして、そこに触れることはしなかった。


「いでん……? あな、だいこんしゃんすきー」


「なぜ大根が出てくる」


 聞いていないアナは大根に思いを馳せている。


「おだし、しみしみー」


 生まれたときから貴族のシリウスは、あまり庶民派な食べ物は知らないのだろう。そういえば厨房の人たちですら知らなかった。もしかして郷土料理なのだろうか、おでん。


「だいこんしゃん、しろいろー」


 なぜ大根が出て来たのかの追求を諦めたらしいシリウスは、そうだな、と疲れた顔で相槌を打つ。


「あたまはねー、ちょっとみどり」


「よく知っているな」


 感心するように言われたアナは得意そうに口角を上げている。


「パパのあたま、ふんすいいろー」


「それなら、ユーリの頭も噴水色か?」


「ゆーりはねー、おうじしゃまいろー」


「なぜだ。同じ色なのに」


 シリウスが愕然としている。


 アナの気持ちもわからなくはない。やはり父親と好きな人とでは、見え方が異なるに決まっている。


「その王子様色とは何色なんだ」


「おうじしゃまいろは、おうじしゃまいろなのー!」


 なんとなく卵色っぽい響きかなとのんびり思いながら、サフィニアは口を挟むことなく聞き手に徹する。


 議論は食卓につくまで続けられたが、結局いつものようにシリウスが折れることで決着がついた。




実は見えないところで細々動いているサフィニア


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― 新着の感想 ―
[一言]  ジェノベーゼの足元で、ゆらゆらきらきらと流れる噴水色。  その鮮やかな色艶が、父親の愛情として、アナの心に強く印象を残したのでしょう。  ……あと、ジェノベーゼ、最強!
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