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アナのいた孤児院へと、夜中に書いた質問書を早朝には送りつけたので、とりあえず後は返答待ちということで、ひと息ついてから仕事へと出かけようとしたとき。
とたとた走ってきたアナが、またシリウスの足を柱かなにかだと思ってしがみついてきた。
「人の足にしがみつくのはやめなさい」
サフィニアが慌てて足から引き剥がしてそのまま抱っこする。目線が近くなったアナへとシリウスは言い聞かせた。
「そうそう来ないとは思うが、客人の足にしがみつき粗相をして恥をかくのは、きみ自身だ。わかるか?」
アナはまんまるな素直そうな目をしてシリウスを見てはいるが、理解はできていなさそうな顔をしている。
なんとなくわかっていたが、この子供、あまり賢くはなさそうだ。しかもお転婆のようで、いつも走ったり転んだりしているようだし、相変わらずよくわからないポイントで笑ったり盛大に泣いたりする。こんな調子でまともな嫁ぎ先があるのか不安になる。
いや、顔がかわいいから大丈夫か。使用人たちが言うには、かわいいは正義らしい。かわいければなにをしても許されるという、とんでも理論だ。
「申し訳ありません、ほかの人の足にはしがみついたりしないのですが……」
シリウスがそばに控えていた執事長をちらりと窺うと、深々とうなずかれた。どうやら本当のことらしい。
「きっと旦那様の足が長過ぎて、アナの目線からは胴から上が見えないのだと思います」
人によっては嫌味のように聞こえる物言いだが、サフィニアは含みもなく、ただ事実を口にしただけのようだった。
むしろちょっと羨ましげにシリウスの足を見てから、自分の足を見下ろし落胆していた。別に短くはないだろうに、彼女は一体なにを求めているのか。
成長するにつれ消える癖というのなら、成長を待てばいい。アナとて、大きくなってからもしがみついて来るなんてことはまずないだろう。
父親など、そのうち娘に見向きもされなくなる悲しい存在だ。構われるうちが花なのだと思うことにした。
「私にだけなら構わないが、躾はしっかりとするように」
サフィニアと執事長にいってらっしゃいませと見送られて、踵を返し玄関を出ようとしたとき、アナが両手をぱっと掲げて下手くそに振った。
「ばいばいー」
バイバイしか言えないことはぎりぎり許容するとしても、せめて挙げるのは片手にしなさいという小言をどうにか飲み込んで、行ってくる、と短く告げて屋敷を後にした。
シリウスは地方からの嘆願書やら役人からの稟議書やら大臣たちからのくだらない予算の申請書など、あらゆる書類に一度目を通してから優先順位別に振り分けて、最優先課題から王太子の執務机に次々と積んでいくと、わかりやすく嫌な顔をされたがこれが仕事なのだから不満をぶつけられても困る。
(まったく……。周りが側近たちのみだからいいが、仮にも王太子が、そうやすやすと感情を表に出すべきではないというのに)
こっちはさっきまで、くだらない用件で王太子への取次を願う大臣や役人たちと直接面会し、二度と同じ内容での面会申請ができないよう心をへし折り、冷血漢だの綺麗な皮をかぶった悪魔だの、散々な暴言を吐かれて来た後なのだ。うんざりしたいのはシリウスの方だ。
王太子にどれだけ嫌な顔をされようと、シリウスは一度置いた書類を引き下げはしない。この執務室がうまく回っていなければ、ここぞとばかりに第二王子派の筆頭である公爵家から厄介な介入がされるのは間違いないのだ。
王太子が王太子でいるためには、異母弟の第二王子が遊んでいる今のうちに、その力量の差を見せつけておかなければならなかった。
最近では公爵がナスラン聖教の関係者に極秘裏に接触しているという情報もあるし、なにを企んでいるのかは不明だが、このまま悠長に構えていては足をすくわれかねないのだ。
どんな些細な事実でもすべて把握し、常に周囲に警戒を怠らず、実際はどうであれ表面上だけは完璧な王太子を演じておくべきだというのに、当の本人は黙々と書類にサインすることに飽きたのか頬杖をついて雑談をはじめる始末だ。
「そういえば子供とはどうなった? 仲良くなったか?」
シリウスはため息をひとつつき、気分転換も必要かと、その雑談につき合うことにした。
「ひとまず認識はされるようになりました」
「認識……って、その段階なのか……」
初対面で柱扱いされた事実は当然胸に秘めた。
今でも半分は柱だと思っていることも秘匿し、多少ではあるが距離を詰めたことをアピールしておく。
「私のことは、パパ、と呼ぶようになりました」
「「パ、パパパパパパパパパパ!?」」
(パが多い)
王太子と側近たちが驚愕を隠すことなくシリウスへと向けてきたが、アナがそれ以外覚えられないのだから仕方がない。地頭がよくなくても伸び代はあるだろう。今後に期待だ。
「どんな顔してパパなんて呼ばせてるんだ」
「こんな顔ですが、なにか?」
底冷えする眼光に射抜かれた王太子は慣れ親しんだシリウスの顔などものともせず、くつくつと笑い出す。
「それはぜひ見てみたいものだな。よし、今度屋敷にお邪魔しよう」
「遠慮してください」
「そこは、畏れ多いので遠慮します、って低姿勢で言うところだろう。なんで拒絶されてるんだ? 俺は王太子だぞ」
「そんなお暇があるのならば、ご自分のご家族に時間を割けばいいでしょう」
シリウス同様、この場にいるのは家族にかける時間が極端に少ない仕事人間たちばかりだ。人の家に押しかける暇があれば、自分の家族との時間を大切にすべきだ。愛想を尽かされてからでは遅いのだから。
「それもそうか。……うんうん。お忍びでシリウスの家に行くよりは、嫁とお忍びで街を散策する方が楽しいな」
愉快な妄想に浸りはじめた王太子に、シリウスは白けた目を向ける。
(まったく、はた迷惑なお人だ)
お忍びで街の散策などされた日には、警護関係がてんやわんやになるどころか、シリウスたち側近も変装して後をつけて行かなければならず、普段以上に大変なことになるのが目に見えている。
そもそも王太子夫妻の顔は国中に広まっているのだ。まったく忍べないことを考慮して、デートプランを考えてほしい。人払いをするのにもどれだけの労力が必要か。
考えるだけでげんなりとしたところで、ふと、シリウスは重大な事実に気づいてしまった。
これまでは独身で、家庭を顧みない周囲に冷めた目を向けていた側だが、今は違う。むしろシリウスこそ、家庭を顧みない筆頭だということに。
よくよく考えてみても、仮にも妻であるサフィニアをデートどころか、気晴らしに街へと連れて行ったことさえないのだ。これは由々しき事態だ。
もちろん街に行きたいと頼まれていたら、予定を調整してでも連れて行った。一応は新婚なのでそれくらいの許可は下りると信じたい。信じるくらいは許されるだろう。
それにシリウスとて息抜きは必要だ。できれば誰も自分のことを知らない場所に行きたいと常々思いながら仕事をしている。
屋敷と城の往復しかほとんど外出しないシリウスですら息が詰まっているというのに、サフィニアのあの様子だと、信じられないことだが嫁いで来てからまだ一度も、近所の教会に行く以外で屋敷の外に出たことがないのではないだろうか。
本音を言えば外を出歩くのは危険なので閉じこもっていてくれた方が安心ではあるが、このままだとシリウスは、妻を軟禁する束縛系狭量夫だと世間から謗られかねない。
(一度外に連れ出すか……)
しかし生まれてこの方、女性をデートに誘ったこともない朴念仁だ。計画段階から不安しかない。
学院に通っていたときに何度か街に出かけたことがあるが、その度に突然見知らぬ女性にデートだと無理やり腕を組まれて、街を散々練り歩かされた挙句連れ込み宿へと連れ込まれかけた。あれはたぶん、デートではなく誘拐だった。
助けに来てくれた執事長がいなければ、最悪既成事実を作らされていただろう。
街は危険だ。もう少し落ち着いた場所でなければ。
「デート……か」
深刻な表情で落としたつぶやきは、意外と大きく室内に響いたせいで、王太子の興味を引いてしまった。
「デート? あの女嫌いのシリウスが、デート?」
「気色悪い目で見ないでください。それと、王太子たるもの男女差別はいけません。私は私に、あらゆる欲を剥き出しに迫って来る人間の皮をかぶった醜悪な悪魔どもを嫌悪しているだけで、女だから嫌いというわけではありませんし、場合によっては男も嫌いです」
同性だから大丈夫だなんて、そんなわけがない。こっちは少年好きの変態に襲われかけたこともあるのだ。子供の頃の敵はむしろ男の方が多かった。
「だが、うちの嫁のことも嫌いだろう」
「同族嫌悪で苦手なだけです」
どちらかと言えば王太子妃の方が、シリウスを含めた側近たちのことを毛嫌いしているだけで。なんなら王太子のことも嫌っている。
自分のことを嫌いだとわかっている人間に好意を抱くわけでもないのだ。嫌われているとわかっているのに、好きになるはずがない。どんな変態だ。そんな異常者、王太子だけで十分だ。
「それでも、大多数の女が嫌いなことに違いはないんだろう? ……まぁ、妻は別みたいだが?」
王太子のからかいを相手にせず、むしろ肯定してみせた。
「当然です。彼女はナスラン聖教の熱心な信者なので、醜悪な悪魔に魅入られるはずがありません」
シリウスが澄まし顔でそう言うと、王太子は露骨に顔を顰めた。
「あんな戒律の厳しい宗教の熱心な信者って……考えただけでもぞっとする」
「妻は新月の日の精進潔斎で、離乳食の劣化版みたいな危険物を神に感謝しながら食べています」
王太子だけでなく、側近たちも、苦いものでも飲んだかのような顔をした。普通はそうなる。わざわざまずそうなものを食べる意味がわからない。
それに加えてサフィニアは普段から肉類を口にしないので、最近は食卓に魚料理や野菜が多くなったが、元々シリウスも脂っこいものよりはあっさりしたものを好んでいるので食生活の変化に関しては異論はない。精進潔斎のあのどろどろだけが問題なのだ。
「……そういえば、やらかしたご令嬢たちが勘当同然に北部の修道院に送られることもあるが、そこに行くと気が狂うか信仰に染まるかのどちらかになるらしいぞ」
極寒の修道院でどろどろの危険物を食べる想像でもしたのか、王太子が身震いした。
信仰に染まることは悪いことではない。むしろ本人のためにはその方がいいのではないか。
気が狂った者は……いや、考えるのはよそう。
サフィニアならば戒律の厳しい北の修道院に行っても平気そうだ。もちろんそんな不名誉なところに行かせる気はないし、できれば新月の日も、こちらの食欲まで失せるのでもっとおいしそうなものを食べてほしいと思っている。
「……ですが、よほどのことがない限り、北部の修道院に送られたりはしないでしょう。ある程度は親が揉み消すでしょうし、領地に隠れてほとぼりが冷めた頃になに食わぬ顔で戻って来るのが普通では?」
「まぁ、ご令嬢同士の諍いくらいならば、かわいいものだよな。さすがに格上のご令嬢を破落戸に襲わせようとした元令嬢は修道院に送られたらしいが。後は……婚約者がいながらほかの男との間に子供を作って托卵させようと企んでいたご令嬢とか?」
シリウスは一瞬動揺しかけた己を律した。
もし万が一、サフィニアがアナを産んでそれを黙っているのだとしても、彼女の出産時にまだシリウスとの結婚話は上がってもいなかったのだ。
過去に男がいても、それを咎めるのはお門違いだ。
それにアナの実の父親が彼女の元恋人ならまだいいが(もやっとはするが)、もしサフィニアが望まぬ妊娠をしたのなら、また話は変わってくる。
ナスラン聖教では堕胎は罪のひとつだ。どうしようもなかった可能性だって、十分にある。
そうなるとアナがサフィニアによく似ていることは、むしろよかったと思うべきことなのではないか。
もしかするとあまり外に出ないのも、外の世界に恐怖心を抱いてのことかもしれない。シリウスが無理矢理連れ出しては、心労を増やしかねないのではないだろうか。
たとえば目的地まで馬車で行って、寄り道をせずに帰るだけにするとか、とにかくそういった気遣いが必要だ。
そうまでして彼女が行って喜びそうな場所など、もはやひとつしか思い当たらない。
デートとはすなわち、相手が喜ぶ場所へ連れて行くこと。相手を喜ばせることに意味があるのだ。
(なるほど、そう考えると、デートの計画など災害復興の計画案を練るよりもはるかに造作のないことではないか)
シリウスは没になった大臣のくだらない予算の申請書の裏面を利用して、デートの予定を組み立てはじめた。
王太子(25) シリウスの主人で上司 妻への愛が偏執的で重い