49 番外編3 ジェノベーゼオリジナル
イザークによる絵画教室を受講するにあたり、アナが粗相をしないようにあらかじめ講義というものに慣れさせておこうと夫婦で話し合い、第一回アナのお勉強会が開催されることになった。
ソファにジェノベーゼと並んで座るアナは、わかっているのかいないのか、にこにこしている。
「いや、なぜここで?」
てっきり子供部屋で行うものだと思っていたのに、なぜ執務室。
その疑問に執事長がそっと答えをくれた。
「アナ様は執務室を、はたらきありしゃんのおへや、とおっしゃっておりました。仕事や勉強はこの部屋でするものだと覚えてしまったようです」
(はたらきありしゃんのおへや……)
その通りだが。
形容し難い表情をするシリウスをよそに、先生役のサフィニアがさくさくと点呼を取る。
「一番、アナスタシア・バロウさん」
「うんー!」
元気な返事ではあるが、さすがにそれではまずい。
「うん、じゃなくて、はい、だろう?」
「うんー!」
「だから、そうではなく……」
「二番、ジェノベーゼ・バロウさん」
「うんー!」
アナがジェノベーゼの代わりに返事をするのを見た辺りで、早々に突っ込むのはやめにした。これでは仕事が進まない。ひとまず激励だけしておいた。
「しっかりと励みなさい」
「あな、おべんきょ、すきよ?」
(本当か……?)
遊びながら楽しく学べるのならそれはそれでいいのだが。
「みなさん、ちゃんと朝ごはんは食べて来ましたか?」
「うんー! ほっぺぱーん!」
(コッペパンだ)
たっぷりのクリームと苺を挟んだパンが最近のアナのお気に入りだ。
この娘はとにかく、なんでもかんでも苺を入れたがる。パンやお菓子には当たり前として、精進潔斎のどろどろに苺が浮いているのを見たときの衝撃。夢にまで見た。
サフィニアは学院に通ってこそいないが、シスター時代に孤児院の子供たちに勉強を教えていたらしく、その姿はなかなか様になっている。
「では、今日はこのジェノベーゼを使って動物のお勉強をします」
サフィニアはジェノベーゼを持ち上げた。
ジェノベーゼは生徒なのか教材なのか、疑問は尽きない。
「まずは、ここ。ジェノベーゼのおしりに生えている、この細長くてふぁさっとした毛の生えている部分の名前はなんでしょう? アナスタシア・バロウさん」
「おうましゃんの、しっぽー!」
「正解です! では第二問。この首の後ろにあるふぁさふぁさした毛の部分をなんと言うでしょう? アナスタシア・バロウさん」
「おうましゃんの、たてがみー!」
「正解です! では第三問。これは難しいですよ? この足の裏の部分の名前はなんでしょう? アナスタシア・バロウさん」
「おうましゃんの、ひづめー!」
「正解です!」
さすがだなと思わずぽつりとつぶやく。
鬣や蹄を知る三歳児がどれだけいるだろうか。
やっぱり動物学者にすべきなのか。アナの将来は無限の可能性を秘めている。
「最終問題です。この背中に生えているものはなんでしょう? アナスタシア・バロウさん」
「おうましゃんの、おはねー!」
「正解です!」
「いや、待て!」
とうとう耐えきれずにシリウスは口を挟んだ。
百歩譲って羽であることは認めるが、それは馬の羽ではない。庭で拾った鳥の羽だ。
「馬には羽など生えていない」
「しってるのー」
「知っているのか? それならいいが……」
「じぇのべーぜはねー、じぇのべーぜおりじなるなのー」
「ジェノベーゼオリジナル」
謎のパワーワードに思考が一時停止したシリウスは、ただただ言葉を繰り返すだけの人形に成り果てた。
「じぇのべーぜはー、とくべつなおうましゃん」
アナはサフィニアに返してもらったジェノベーゼを走らせながら歌う。
「♪じぇのべーぜーはー、はしるよー、すいっ、すいっ、すいっ、すいっ」
なにやら新曲が生まれていた。
やはり音楽を極めさせた方がいいのだろうか。
サフィニアがいそいそと持ち出した子供用のおもちゃの鍵盤を鳴らして、アナの即興曲に音をつけていく。
「ピアノが弾けたのか?」
「必要にかられて覚えました。育った教会に古いパイプオルガンがあったのですが、誰も弾ける人がいなくていつも伴奏なしで歌っていたので」
讃美歌やら鎮魂歌やらを奏でているサフィニアの想像は容易にできた。
サフィニアが教会から去ってしまった今、また伴奏なしに戻ってしまったのだろうか。少し気になる。
「♪じぇのべーぜーはー、とーぶよー、すいっ、すいっ、すいー」
アナの歌はいつも陽気なものが多いなと思いながら、気を取り直して手元の仕事に意識を戻す。
帳簿の確認をしていると、不自然な数字を見つけて執事長へと指摘した。
「前月の収益だが、なぜこんなに増えている? 誰か売上を水増しして報告していないか?」
「いいえ、合っていますよ」
本当に領地の収益が先月よりも上がっているのならいいことなのだが、季節や気候や災害などによって農作物の収穫や売上に波があるのは仕方がないが、このように急激に売上を伸ばすような事例は過去になかっただけに不審さだけが際立つ。
「私の知らないところでなにか新商品でも売り出したのか?」
「ジェノベーゼオリジナルです」
「ジェノベーゼオリジナル」
さっき聞いたばかりのパワーワードとの早過ぎる邂逅に、またしても言葉を繰り返すだけとなったシリウスの前に、すっと差し出されたのは、いつぞやに見たジェノベーゼ印のぬり薬だった。
手に取り、検分し、無言のままひっくり返す。そこには国から販売の許可を得た商品にのみ記される刻印がなされていた。
「…………売ったのか」
「売りました」
「…………売れたのか」
「生産が追いつかないほど、売れました」
なぜだ。
どこに需要があった。
「じぇのべーぜのせあぶら、だいにんき?」
「ええ。大人気ですよ、アナ様。おかげでバロウ家は現在とても潤っております。これで領地経営の方も少しは楽になることでしょう」
サフィニアも、そういえば……、と頰に手を当てて言う。
「わたしも王太子妃様から何個か注文を受けました。貴婦人たちの間で話題になっているそうですね?」
水仕事をするメイドたちならまだしも、なぜぬり薬が貴婦人たちの間で話題になるのか。
「どうやら保湿効果があるそうで、女性の顧客が爆発的に増えております。最初は普通にぬり薬として売り出しましたが、今は美容液として使用される方が多いと聞いたので、現在のハーブの香りに加え、花の香りのものを発売したところそちらも売上好調だそうです。ただ今新しい香りを模索中です」
「美容液……」
香りつけしても成分はジェノベーゼの背脂、もとい、馬の油なのに。
「最近では、シリウス様のような肌になれるという噂が口コミで広がっているせいか、来月の売上は今月の倍は見込めそうです」
風評被害も甚だしいが、儲かっているせいで文句がつけられない。
「パパのおはだ、きれいきれいねー?」
「……」
「ららのおとうしゃまはー、おひげ! りっぱな、おひげ! あなのパパはー、すっきり! つるつるー!」
「……」
シリウスは震える手で手元にあったインクの瓶を掴んだ。すかさず執事長がその手を止めた。
「髭を描いたところで、後に残るのは虚しさだけです」
シリウスは説得されてインクから手を離した。
すっとジェノベーゼオリジナルが差し出される。
無言で突き返す。
今のシリウスに必要なのはジェノベーゼオリジナルではない。
心の傷に効くぬり薬だ。
↓ちなみにこんなのも考えてみた
アナがおもむろに、シリウスの鼻の下にジェノベーゼの横腹を押し当てた。
「おひげ!」
「だ、だめよ、アナ……、や、やめなさい」
「……」
見えないが、きっとジェノベーゼも自分と同じ真っ暗な目をしているはずだ。




