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エピローグ
エスター視点
エスターは荷馬車を降りると、運賃代わりに御者に祈りを授け、少々気乗りしない気持ちを隠して歩き出した。
思えば故郷を出てからはじめての帰郷だ。隣国の方が距離的には近い辺境にあるこの町は、王都からだと簡単に行き来できる場所にない。距離もさることながら、基本的には金銭的な面での問題が大きい。
だからみな、出て行ったきり帰って来ない。
帰って来る余裕などないのだ。
たいした収入があるわけでもない聖職者など、特に。
よほどの用がなければ誰も訪れないようなこの土地に、エスターだって望んで訪れたわけではなかった。
町の様子はあの頃となにひとつ変わっておらず、それどころか離れていた年月分、人が減って寂れた空気感が増していた。
これで楽しい思い出のひとつでもあればよかったのだが、エスターが思い出せるのは、嫌な記憶ばかり。ただ歩いているだけなのに億劫になる。
(郷愁なんてものはないが……)
正直帰って来たいと思う場所ではない。それでも、故郷と言われて思い浮かぶのもまたこの町だった。
目を瞑っていても、まだ体が覚えているのか足が勝手に目的地へ進んでいく。町外れへと。
小高い丘を登ってすぐ、木々の向こうに、風雨ですっかりと色褪せた屋根が見えてきた。
木漏れ日の降り注ぐ小道を抜け、たどり着いたのは静謐な佇まいの小さな教会だ。
この場所でエスターは数年間暮らした。おそらくあれが人生で一番平穏な時期だったように思う。
懐かしさを胸に抱いたまま踏み入った庭は、あの頃と変わらずよく手入れがなされていた。季節の花の中に野菜の花が紛れているのは、神父様の仕業だろう。よく見ると野生種の苺がところどころで赤い小さな実をつけていた。前はなかったはずなので、自分が去ってから植えたものだろう。
扉の前に立つと、一度外観を仰ぎ見た。歴史があると言えば聞こえはいいが、ようは改修工事もできないような、古びた建物というだけのこと。
押し開けようと触れた扉の下の方には、見覚えのないへこみがあった。これくらいの補修ならできるだろうにと思いながら、エスターはなんとも言えない気分のまま、ギィ、と音を軋ませる扉を押し開いた。
一歩足を踏み入れると肌で感じる。やはり空気の澄み具合が違う。大聖堂よりもよほど清浄さに満ちていることには苦笑するしかない。
目的の人物はエスターの思った通り、祭壇の前でナスラ神へと祈りを捧げていた。この時間は祈りの時間なのだ。毎日のルーティンを、おそらくエスターが一番よく知っている。この人の背中を見て育ったのだから、当然だ。
「神父様」
神父様は振り返り、エスターを目に映すと、白い眉を上げた。驚いているようにも見えるが、果たして本当に驚いているのかどうか。甚だ疑問だ。
「……エスターか? 連絡もなしに、どうした。故郷が恋しくなったのか?」
見た目は好々爺だが、厳しいところのある師父だった。今は冗談を言う気分らしい。否定するのも馬鹿らしいので、エスターは肩をすくめるに留めた。わさわざ訪ねて来た理由などすべてお見通しだろうに、本当に人が悪い。
エスターは前置きもなく、本題である恨み言を切り出した。
「神父様。いくらなんでも、酷過ぎませんか? 俺がどこに所属してるかわかってて黙ってたのなら、タチが悪すぎるでしょう」
「はて、なんの話やら……」
「しらを切り通すつもりならそれでもいいですけどね。だけどこれだけは言わせてもらいますよ。神父様のせいで、俺、じぃじって呼ばれたんですよ? この年で、じぃじ。あり得ないでしょう」
神父様は目を丸くして、それから、大口を開けて愉快そうに笑った。
「そうかそうか。あの子はまだ、じぃじのことを覚えていてくれたのか」
そう言われて、遅まきながらその特異性に気づく。一歳のときの記憶などエスターでもない。つくづく聖女は特別なのだと思い知らされた気分だった。
「……あ、そうだ。じぃじに会いたいってごねていたので、そのうちひょっこり顔を出すかもしれませんよ? サフィニアもですが、あの旦那は聖女様にあまいから」
シリウスはまるで実の娘、いや、それ以上に娘のことを大切にしているようにも見えた。
それに関しては聖女の特異性というよりも、シリウスの持って生まれた善良さゆえのことだろう。
エスターがシリウスを思い出すとき、最初に浮かぶのはその美しい顔や、冷ややかな表情などではない。彼の体の周りに薄く漂う、無数の星の煌めきだ。
エスターはそれをよく知っている。
一般的に、神の加護と呼ばれるものだ。
あんな風に神の加護を持つ人間が、悪人であるはずがない。それなのに人は目に見えるものでしか人を判断しないのだ。本質を見抜けない人間が多いのも困りものだと、彼に対する根も葉もない噂に苦笑する。
エスターは昔から、人よりも少しだけ多くのものが目に見えていた。
幼い頃は自分が見ているものを、当たり前のように周りの人も見ていると思っていた。
違うと気づいたのはわりと早い時期だったように思う。周囲に悟られることがないよう隠していたのは、あれ以上他人から奇異の目で見られたくなかったからだ。
男なのに女の名前で、女の格好をして、言葉遣いや仕草まで強制させられていた自分は、その歳ですでに自分を殺すことに慣れていた。
あの頃、自分のことを理解してくれたのは、目の前にいる神父様だけだった。
エスターと同じように、いや、それよりも多くを見て聞くことのできる神父様は、本来こんな田舎の寂れた教会にいるような人物ではないのだが、それが神の意思だと言われたら、エスターに言えることはなにもない。
神を敬わなければならないのは、神が畏怖すべき存在だからだ。
人は助けを求めて神に縋るが、神に人の願いを叶えてくれるような優しさがあるのなら、世界中の人々が笑って楽しく過ごしていることだろう。
その時点で神は基本的に人の理に介入しないか、できないのだと思っている。
神にできるのはおそらく、少しの加護を与えたり、小さな奇跡を起こしたりすることくらいだ。
それと、天罰。
これまでどれだけ汚いことに手を染めても罰を受けなかった者たちは、神の逆鱗には触れていなかったから見逃されていただけに過ぎない。
今のエスターは理解している。
神が唯一気にかけるのは、神の愛し子である聖女だけなのだと。
この世界は聖女のためだけに存在している。
きっとそう言っても過言ではないはずだ。
もちろん全部、エスターの勝手な想像ではあるが。
「グスタフ様と聖獣様を見たとき、本当に心臓が止まるかと思いましたよ。星の子はこれまでにもちらちらと見えることはありましたけど、聖獣様ははじめてです」
「おや。すでに聖獣様もいらっしゃるのか。それはよかった」
聖女の相棒であった聖獣がどのような動物であったのかは後世に伝わっていないが、今は馬のぬいぐるみの姿をしていると知ったら、さすがにこの飄々とした神父様も驚くことだろう。エスターはそれを想像して、自分になにもかもを隠匿していた件について、ちょっとだけ溜飲を下げた。
あのかわいらしい聖獣に懲らしめられた者たちを想像すると、ついつい笑ってしまいそうになる。
シリウスにかまをかけたときに反応を示したので、彼自身の犯行かと上にも報告をせずに口をつぐんでいたわけだが、まさか聖獣を庇っていたとは。まだまだ自分は未熟者のようだ。
聖女に手を出そうとした者たちが今でも無事でいられるのは、聖女自身が彼らの死を願っていないからだろう。そうでなければ聖獣どころかとっくに神から天罰を賜っていたはずだ。想像すると薄寒くなるが。
「サフィニアの様子はどうだ? 手紙ではいつも元気にしているとしか書いてこないが、あの子は物事を悪い方向に考え込む癖があるから、どうにも心配でね」
「あいつは元気ですよ。ま、幸せなんじゃないですか? ここにいた頃よりもずっと表情が明るくなっていますし、夫にも愛されているみたいですし?」
妹分と夫との夫婦仲の良さを見せられるのはむず痒いところがあるが、幸せになれたのならよかったと本心からそう思う。
親に捨てられた傷をずっと抱え続けていたサフィニアが、ああして家族を得られる日が来るとは思っていなかった。
しかも、神の加護を持った夫に、聖女の資質を持つ娘だ。
神の加護など普通与えられるものではない。それを聖職者でもなければ信者でもないシリウスが、おそらく生まれる前から当たり前のように享受していたことには驚いたが、今思えば、将来的に聖女を守る人間だからこそ神に与えられたものだとわかる。
神の加護など人には過ぎた祝福であり、下手したら呪いと大差ない。
どんな祝福を与えられたかはなんとなく想像がつくし、結果を見れば間違いなく呪いだが、神に選ばれたのが運の尽きだと思って諦めてもらうほかない。
しかし、だからこそ、サフィニアに加護が与えられていないことにも意味があるのだろう。
エスターは昔から不思議に思っていたことがあった。
エスターが出会った当初から、サフィニアは人の半分だった。
なにが半分かはうまく表現できないが、半分と言うのが一番しっくりと来る言い方だった。
それもサフィニアのふたごの片割れを見たときに、もとはひとつだったものがふたつになったから半分なのだなと理解した。
だからふたごの兄弟姉妹はみな、半分なのだと思っていた。……昔は。
世間のふたごがそうでないと知ったときにようやく、サフィニアたちがおかしいことに気づいたが、だからといって気に留めたりはしなかった。それでなにか不具合があるわけではなさそうだったからだ。
今ならわかる。
その存在自体が神のエゴによって生み出されたものなのだと。
本来サフィニアは生まれて来る予定のない子だったに違いない。
それを神が半分ずつにわけて、ふたごという形で生み出したのだろう。
聖女を産む娘と、育てる娘。
聖女を産む娘が早世することを神は知っていたのだ。
だからふたり必要だった。
そのために奇跡を起こしたのだとしたら……。
そのせいでサフィニアがどれだけ傷つき悩んだかを知るエスターからしてみたら、過ぎた奇跡もやはり呪いだと思わざるを得なかった。
これもエスターの勝手な想像ではあるが、すべて丸く収まったのなら、今さらどうでもいい話だ。
「おまえがここにいるということは、あちらはひと区切りついたということなのだろうね」
「一応は。公爵家があそこまで名を落とした以上、さすがにそこの娘を聖女として擁立しにくくなったでしょうし、これまでの悪事が暴かれて今や罪人ですからね。偽物であるという証明をする手間はいくらか省けましたよ。……まあ、完全にとはいきませんが」
公爵を追い詰めるためにシリウスが持っていた切り札こそ、神が彼に与えた加護の結果と見るのなら、やはりこの世界は聖女のためだけにあるのだと思ってしまうのは仕方のないことだ。
しかし公爵令嬢……いや、今は伯爵令嬢だが、その娘を聖女と信じて崇めている一派は確かにまだ存在している。
逆に公爵の失脚に伴い手のひらを返したのは、公爵家からの見返りを期待していた者たちだ。
欲にまみれた聖職者たちではあるが、後者の方が扱いやすくはある。
本物の聖女を連れて行くのが偽物を糾弾し排斥するには一番手っ取り早い方法なのだが、本人が嫌がっているのでその手段は取れない。下手に機嫌を損ねて、神ににらまれたくはなかった。
「その娘がどれだけ異質でも聖女の資質を持っているわけではありませんし、認定員として、偽物は認められません」
エスターはその娘のことを詳しくは知らないが、話に聞く限り、どうやら普通の娘ではないらしい。
本物の聖女と同い年らしいが、子供らしくない言動をし、未来を予言する能力を持っていると聞いている。
その話が事実ならば、それはもはや聖女などではなく、もっと別次元の“なにか”ではないだろうか。
たとえば、魔女、だとか。
それでも実家の凋落を予知できなかった辺り、予言自体に信憑性に乏しく周囲に担ぎ上げられているだけの子供という可能性もなくはない。
どちらにせよ、本物の聖女は、アナスタシア・バロウ。ただひとりだ。
サフィニアにそっくりのあの娘こそ、神が唯一愛しんだ異界の聖女の生まれ変わり。
そばにいる神の御使である星の子グスタフと聖獣ジェノベーゼがそれを証明している。
とはいえ当人は、どこにでもいるパパとママが大好きな普通の子供ではあるが。
「そういえば……聖女様の名前って、もしかして、神父様がつけましたか?」
「おや、なぜそれを?」
「サフィニアに名づけのセンスがあるとは思えませんし、それはきっと、ふたごの姉でも同じかと思ったので」
「聖女様らしい、よい名だろう?」
自慢げな神父様にちょっと呆れつつ、エスターは唐突に思い立って言った。
「せっかくここまで足を運んだので、あっちのサフィニアの墓参りでもして来ます」
「? 親しかったか?」
「いや、全然」
気持ち悪いくらいよく似たふたごだったが、言葉さえ交わせば見分けることは容易だった。
育った環境の違いが性格に影響したのか、あっちのサフィニアは少々夢見がちなところがあったのに対して、こっちのサフィニアは現実的な思考を持っていた。
それはきっと、エスターが兄貴風を吹かせて幼いサフィニアにあれこれ教え込んだせいだろう。血の繋がりこそないが、やはり一緒に暮らすうちに情はわくものだ。ただでさえ親に捨てられ、傷ついた子供。小さな頃は特に気にかけていたし、成長してからも、薄汚い大人に狙われないように神父様と一緒に守ってもいた。
だからエスターにとって、サフィニアはどちらかと問われたら、やはり妹分のサフィニアの方だと思ってしまうのだ。
墓地を歩き、日差しを程よく遮る木陰の下にようやく見つけた、サフィニアの実家の墓。つるりとした乳白色の墓石はよく磨かれていて、周囲に咲き誇る可憐な花々が優しく彩りを添えていた。
手入れをしているのは神父様だろうか。サフィニアのところの両親がそんな面倒なことをするとは思えないので、きっとそうだろう。
花もなにも用意していないが、向こうもどうせ、大して親しくもないエスターからの供物など必要としていないだろう。
彼女が一番に求めているもの。
エスターはそれを捧げることにした。
「おまえの娘、両親に恵まれて元気にすくすく育ってる。ちゃんと、幸せそうだったよ。食欲も旺盛で、友達もいて、ませてるのか、もう好きな男がいるみたいで、将来結婚するそうだ。お姫様みたいなドレスを着て、誕生日をお祝いされて……」
エスターは一度瞑目して、首元のネックレスに手を添えた。
「だから気にせず、安らかに眠れ」
刹那、応えるようにざわりと風が吹いた。
だがあいにく、エスターは霊的なものは見えないたちなので、風に流され空へと舞い上がった花びらを、ただ黙って目で追った。
人が生まれ変わるには聖女を見てもかなりの時間を要するらしいが、神の愛し子の産みの母だ。案外神の慈悲で、すぐにでも生まれ変わるかもしれない。
墓石の上へと、はらりと落ちた花びらを摘みながら、ふと思う。
もしかすると神は、どちらのサフィニアが聖女を身籠ってもいいと思っていたのかもしれない、と。
妹分のサフィニアが聖女を身籠り、早世する未来もあり得たのだろうか。
もしサフィニアが……と考えて、それこそ今さらかと思考を放棄した。
神が無数の選択肢の中からこの世界線を選んだのだ。きっとそのことに意味がある。
ここは聖女が幸せになるための世界。
聖女の幸せが確定しているのなら、きっとサフィニアの幸せも共にある。
(しかし、あのちっせーガキが今や母親とはな……)
エスターが聖女を差し出すよう迫ったとき、娘を守ろうとしたサフィニアの反応に、実は内心ほっとしていたのだ。
親に捨てられたサフィニアだ。神の教えに従い忠実に生きてきた彼女が、娘を捨てることもあり得るのではないか。そんな焦燥がなかったとは言えない。
聖女の答えなどはじめからわかりきっていた。
幼い子供が親と離れる道を選ぶはずがない。愛されて育っているのなら、なおさらだ。
だからエスターが真に見ていたのは、シリウスとサフィニアの反応だった。
彼らに失望せずに済んだことは重畳。
神もさぞ満足していることだろう。
「おまえには悪いけど……やっぱり俺は、おまえではなく、妹分のサフィニアが生きててくれたことを、神に感謝するよ」
ごめんの代わりに、心から彼女の冥福を祈った。
最後までお読みいただきありがとうございます!
最後の最後に一番書きにくかった子、エスターです。
当初はナスラ神視点を予定していましたが、神の介入がない世界線のアナがどのルートも悲惨過ぎてやめました。
本編はここで完結ですが、番外編を後4話用意してあるので、そちらもおつき合いいただけたら嬉しいです。
親子三人のほのぼのとした日常になっております。




