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結局、シリウスの呼び方は『パパ』で落ち着いた。
あれほど苦戦していたお父様呼びとは打って変わり、パパ呼びは一度で覚えたからだ。やむをえない。やはり文字数の壁は高かった。
そしておそらくだが、アナはパパという存在がなんであるかを理解していない。父親業をなにひとつしていなかったつけが回ってきたのか、呼ばれる度に、そういう名前の人だと思われているのをひしひしと感じている。
間違いを間違いとしておけない面倒なたちのシリウスは、とうとうサフィニアの目を盗んで子供部屋に侵入し、生温い眼差しの使用人たちを無言の圧で黙らせてから、ぺたんと座ってつみき遊びをしていたアナと密かに対峙した。
「いいか? パパとは、父親のことだ」
「? パパ」
アナはシリウスに人差し指を突きつける。
「そうだ。だが、人に指を向けるのはよろしくない」
アナの手を下ろさせて、代わりに用意した賄賂――柔らかいボールを持たせた。
アナは自分の顔くらいあるボールをしげしげと見てから足の間に置くと、こちらへと顔を上げた。ボール遊びは未経験だったのか、用途がわかっていなさそうな表情をしている。
これだけ幼いのだから、知らないことばかりなのは当然だ。大人として、父親として、ひとつひとつ根気強く教えていかなければとシリウスは意気込んだ。
「ちなみに私の名前はシリウスだ」
「?」
「……ママはわかるな?」
こっくりうなずくアナの頭がぽろりと首から取れないか心配になる。なぜ幼児は頭部がこれほど重そうなのか。
「ママの名前はわかるか?」
「ママ!」
「違う。サフィニアだ」
「マーマ!」
「だからそうではなく……」
結局、いくら説明しても理解しないアナに精魂尽き果てたシリウスは、どうやらサフィニアのこともママという名前の人だと思っていることが判明したあたりで、諦めた。
思いがけない挫折を味わったシリウスだったが、それ以来、屋敷の中でアナを見かけることが多くなったので、歩み寄ったこと自体は正解だったと気持ちを持ち直した。
やはりサフィニアは多忙なシリウスを煩わせないよう、なるべくアナを遠ざけるように過ごしていたらしい。
確かにアナと接すれば接するほど頭痛が増えていく。会話が通じないとは、これほど不便なことなのかと身をもって実感している今日この頃だ。
とはいえ、窮屈な暮らしをさせていたのだろうかと気になり執事長にも訊いてみたが、サフィニアは特になんの不満も感じず、慎ましやかに暮らしていたという。
シリウスはさすがに薄々気づきはじめている。サフィニアが少し……いや、かなり浮世離れしているということを。
先日も偶然食事をともにする機会を得たが、遅れて着いた食事の席で、サフィニアの前に並べられた料理のあまりの粗末さにシリウスは目を剥いた。
青菜を茹でただけのものに、根菜を炒っただけのもの、さらにはどろどろの白い液状化しかけた謎の物体などなど。
「な……なんだ、これは……? なんの嫌がらせだ!」
給仕係を叱責するシリウスの間に慌てて止めに入ったのは、サフィニア本人だった。
「違います違います! 今日は精進潔斎の日なのです!」
「精進、潔斎……?」
「ええ。本日は新月でしょう? 月がお隠れになる新月の日は、ナスラ様がお隠れになるとされており、穢れが増すので動物性の食事はしていけないとされているのです」
「それは知っているが……」
今どきそれを忠実に守り続けている者などいないだろう。聖職者か、よほど熱心な信者くらいなものだ。
(……いや、ここにいるのはその、よほど熱心な信者だったか)
シリウスは給仕係に詫びて、仕事に戻らせた。とんだとばっちりだったことだろう。申し訳ないので後でなにか補填をしておくことにした。
「わたしが無理にとお願いしたので、みなさんを怒らないでください」
怒るどころか、よく誰もなんの疑問も持たずにサフィニアに従ったな、と感心する。案外、口にして言わないだけで、信仰心を大切にしている者は多いのだろうか。
「そのどろどろとした危険物はなんだ。食べられるのか?」
リゾットと言うにはどろどろ過ぎるし、スープと呼ぶにも、やはりどろどろ過ぎた。
昔甥が使っていた子供用椅子にちんまりと座るアナが食べている離乳食の方が、まだしも彩りが豊かで固形っぽい。まるで離乳食の劣化版だ。
「これはお米をくたくたに煮たもので……。ご安心ください。ちゃんと、食用です」
なぜくたくたになるまで煮る必要があるのかは不明だが、一応こういう形態の料理というのなら、もうそれでいい気がした。
食べる前からどっと疲れて席につくと、思ったよりも近くにいたアナが、ずいっと小さなスプーンで掬った離乳食を差し出してきた。
「パーパ、あーん」
シリウスは眉根を寄せる。
「それはきみの食事だろう」
スプーンを引ったくって離乳食を口に入れてやると、アナはきょとんと目を丸くして、もちゃもちゃ口を動かしてから、泣いた。なぜだ。
「なぜ泣く? そんなにまずいのか?」
サフィニアが食べている危険物よりはずいぶんましに見えるが、おいしそうには見えない。
見当違いなことを言うシリウスに、サフィニアは困り顔で控えめに告げた。
「たぶんですが、旦那様に食べてほしかったのだと……」
ぎゃんぎゃん泣くアナを、サフィニアが必死にあやすのを横目に食事を進められるほど能天気ではないシリウスは、ため息をついて泣き止むのを待った。
シリウスはアナが泣こうが喚こうが、離乳食を食べる気はない。
だから妥協案を提示した。
「わかった、こうしよう」
ひと口サイズの苺を刺したフォークを、アナの小さ過ぎる手に握らせ、口を開けて待った。
「これなら、食べられるぞ」
まだ涙の残る赤い目で、フォークの先に突き刺さる苺をじっと見ていたアナは、なぜかそれを自分の口へと入れた。
「なぜ自分で食べる?」
シリウスに食べさせたかったのではなかったのか。
本当に子供の思考は理解不能だ。その小さい頭の中には宇宙でも詰まっているのだろうか。
「アナは苺が好きみたいです」
「……それなら、もっと食べればいい」
苺をもうひとつ入れてやると、さっきまで泣いていたことなどまるでなかったかのように笑顔になった。
(……子供は感情の機微もまったくわからない)
だが機嫌が直ったのならいい。もうひとつ苺を食べさせようとしたが、それはサフィニアに止められた。
「それ以上は、お腹を壊してしまいます」
「そうか……」
確かにひと口サイズに切ってあるが、あくまでも大人のひと口サイズだ。
しかし一度フォークに刺してしまったものを戻すのも問題なので、代わりにサフィニアの口に押しつけた。
「これは動物性の食べ物ではないだろう」
目を白黒とさせながらも口をもぐもぐと動かすサフィニアの仕草はアナと似ている。
なにも知らない者が見れば、親子だと疑いすら持たないかもしれない。
こうして少ないが時間を一緒に過ごすようになったおかげで、隠し子ゆえにシリウスの目に触れないようにしている、という噂のひとつは、どうにか打ち消すことができたのだが、根本的な隠し子説はどうにも鎮火せずに相変わらず燻り続けている。
多少乳母に頼っているとはいえ、ほとんどサフィニア自身が育てているので、仕草などが似て来るのは当然なのだが、髪と瞳という、同じ色を持っていることはやはり原因としては大きく、ありきたりな色ならまだしも、どちらもわりとめずらしい色合いなのが問題だった。
ふたりの性格が似ていないからこそあくまで噂程度で留まっているが、アナがおとなしくしてさえいれば、サフィニアのミニチュア版といった具合なのだ。
仕事中プライベート問わずシリウスは噂を打ち消す有効な手を模索し続け、あるひとつの結論に至った。
(……アナの本当の母親を探そう)
もちろんアナを母親に返すというわけでない。どんな理由であれ、子供を手放す親だ。執事長や使用人たちに育てられたシリウスとしては、血は水よりも濃いなどと綺麗事を抜かす気はさらさらない。実の親より、執事長を信頼している。
とにかくアナの本当の母親がどこの誰かさえ判明していれば、サフィニアの隠し子でないことが明白となるのだ。
(確か、サフィニアの実家近くの孤児院から引き取った、と言っていたな……)
孤児院の方に問い合わせてみるかとペンを取る。
またひとつ余計な仕事を増やして睡眠時間が削られる運びとなったが、家庭を維持するためには必要な犠牲だとシリウスはあまんじて受け入れた。
どろどろの危険物 おかゆさん