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敵の制圧が終わったと知らせを受けてから、ずぶ濡れだったことに今さら気づいたシリウスとサフィニアは手早く着替えを済ませると、捕虜のまとめられているエントランスへと急ぎ向かった。
手足を縄でぐるぐるにされてエントランスの中央に転がされている捕虜はかなりの人数だ。どう見ても使用人たちの数よりもはるかに多い。しかも見るからに屈強な男たちばかりだというのに、なぜ年配者や女性も多い我が家の使用人たちが勝てたのか。疑問は尽きない。
エントランスにはその使用人たちも集結していて、総出で負傷した仲間の救護に当たり、軽症の者にはぬり薬とジェノベーゼをバスケットに入れたアナが慰問に回っている。形から入るタイプの娘なので、白衣風の白いワンピースとナースキャップを着用していた。そんなもの、どこにあったのか。
アナはぬり薬を塗布した負傷者の患部に両手を添えてから、ばっ、とその手を天へと掲げてみせる。
「いたいの、いたいの、とんでけー!」
「まあ! アナ様のおかげですっかりよくなりました」
実際治ったかどうかは不明だが、褒められたアナは得意げだ。バスケットの中のジェノベーゼも誇らしげにしている。
「アナ様ー、こっちもよろしくお願いします!」
「うんー!」
使命感を得たらしいアナは呼ばれた方へ走って行っては、「いたいの、いたいの、とんでけー!」を繰り返す。
「すごい! アナ様のおかげで、もう痛くありませんよ!」
「アナ様ー!」
「うんー!」
「アナ様ー!」
「う、うんー!」
人気者のアナは大忙しだ。軽傷者はつい先ほどまでの戦闘などなかったかのように和気藹々としている。
重傷者の方ではサフィニアが手際よく応急処置をしながら真剣に祈っている。祈りが必要かはわからないが、アナの「いたいの、いたいの、とんでけー!」が、驚きの効果を発揮しているようなので、多少の励みにはなるだろう。そうでなくともサフィニアの処置はシスター時代に学んだものらしく、判断が早くて的確だった。処置が終わるともれなくアナの「いたいの、いたいの、とんでけー!」もついてくる手厚さだ。
怪我人自体は多いものの、医師が到着するまでに息絶えるような深刻な状態の者がいなかったことは幸いだった。ひとりでも欠けていようものなら、シリウスといえど冷静ではいられなかったに違いない。
捕虜たちの監視と周囲への警戒を続けていた執事長が、シリウスのそばへと寄り小さく囁いた。
「騎士団が到着したようです」
「……ようやくか」
とはいえ、急いでくれた方だろう。出迎えに行こうと踏み出したとき、馬の前脚で破壊された扉を潜るようにして先陣を切って飛び込んで来たのは、引き止める側近たちを引きずりながら剣を片手に完全武装した王太子だった。なぜ来た。
「大丈夫か、シリウス!」
側近たちを怨霊のように腰にぞろぞろとつけた王太子はしかし、エントランスをぐるりと見渡し状況を把握すると、来たときの勢いは一気に削がれてぽかんとした顔になった。続け様に乗り込んできた騎士たちもすでに事が終結していることに戸惑いを見せたが、さすがというべきか、すぐに意識を切り替えて捕縛してまとめてあった襲撃者たちを連行していった。
いつまでもその生ゴミの山をここに置いておくわけにはいかなかったので、早々に移送してもらえて助かった。人の家族に手を出そうとした彼らを、どのような事情を抱えていたとしても許す気はさらさらないので、シリウス自ら制裁を加えてしまう前に連行されたのは、互いのためにもよかったはずだ。生ゴミの処理の仕方など、燃やすか埋めるかしか思いつかない。
「全員無事か?」
「怪我人は多数いますが、ひとまず命を落とした者はいません」
「それならよかった」
王太子はそう言いながらも、半分以上意識を失い満身創痍で捕虜となっている襲撃者たちと、アナをからかって遊ぶ余裕のある我が家の使用人たちの様子を見比べて、首を捻っていた。気持ちはよくわかる。
「そちらはどうなりましたか? つつがなく?」
「ああ。無事終わった。陛下はあいつの言葉を聞き入れて、継承権の放棄には了承した。元々本人にその気がないこともわかっていただろうから、あっさりしたものだったよ」
「そうですか……よかった」
無事にことが済んでいたことに胸を撫で下ろしたところで、渦中のイザークが切迫した様子で夜会の衣装のまま飛び込んで来た。なぜ来た。
側近どころか近衛すら振り払う勢いで駆けつけた無謀な王太子とは違い、しっかりと周囲を護衛たちで固めてはいるが、彼こそ、今はこのような場所に来ている場合ではない人間だ。陛下に継承権の放棄を認められたと言っても現時点ではまだ口約束であり、しがらみから完全に解放されて自由になったわけではないのだ。むしろこれからが本当に大変なところなのではないか。
しかしシリウスの心配をよそに、イザークはそのまま人の集まるエントランスを焦りを含んだ目で見渡して、怪我人の間を忙しなく行き交うアナを見つけるとほっと表情を緩めた。そして間髪をいれず、今度は武装した兄へと標的を定めて厳しい顔つきで詰め寄った。
「兄上」
「なんだ、おまえも来たのか?」
「兄上と一緒にしないでください。僕はバロウ家の現在の状況確認と騎士の増員の検討のために足を運んだだけです。それと、王太子の自覚に欠ける兄上を引きずってでも連れ帰るために。王太子ともあろう方が武装して側近の家に乗り込むなど……前代未聞ですよ」
それっぽいことを言ってはいるが、飛び込んできたときの彼の様子を見る限り目的など明白だ。
「かっこよく登場して騎士団を指揮して襲撃者を討伐する予定だったんだよ。すでに終結していたから、滑稽なだけに終わったけどな」
イザークもすでに事態が収まっているとは思っていなかったらしく、しばし考えた末に、シリウスへとあらぬ疑惑が向けられた。
「バロウ家は私兵でも抱えているのでは?」
事実無根だ。ここで雇っているのはただの使用人……のはず。少なくても、シリウスはそう思っていた。ついさっきまでは。
いや、間違いなくただの使用人だ。身元も確かであり、経歴に怪しいところもなかった。
だが、出入りする騎士たちに気づかれる前に、鉛の仕込まれた掃除道具だけでも隠しておいた方がいいかもしれない。
「そういえばここの執事長、昔騎士だったらしいぞ。副団長まで上り詰めたのに、あっさり辞めたって騎士団長から聞いた」
王太子がちらりと執事長を見やる。執事長は意味ありげににこりと返した。
「なぜ元騎士が執事長に……?」
イザークのその疑問に答える術をシリウスは持っていなかった。
物心ついたときにはすでに我が家の執事であり、シリウスの親代わりだったのだ。詳しい事情など知らないし、本人の口から語られない限りは知る必要もないと思っている。たとえ執事長が、非合法な薬品を使った香を調合していようと、自作した武器を国の許可を得ずひそかに所持していようと、使用人たちを騎士基準で訓練して戦闘特化していようと、今さら崩れる信頼関係ではないのだ。
執事長がいなければ、今のシリウスもいない。
なので、執事長を庇うべく、それっぽいことを言って濁した。
「騎士に飽きて違う業種についてみたかっただけではないでしょうか?」
猜疑心のこもった視線を受け流していると、慰問がひと段落したアナがこちらへと駆けてきた。
「パパ、おくすりー」
アナはバスケットの中のぬり薬をシリウスへと差し出す。特に怪我というほどのことではないが、慣れない乗馬のせいで手のひらが擦りむけていることに今さらながら気づいてありがたく受け取ったが、それははじめて目にするぬり薬で、容器の蓋にはなぜか翠色の目をした馬の絵が描かれていた。
「このジェノベーゼ印のぬり薬はどうした? 作ったのか?」
蓋を開けるとふわりとハーブの匂いがした。中のクリームは白っぽく、指先につけると体温で溶けて透明になった。ものすごく、ベタベタする。
「これ、主成分は? なにで作った?」
「じぇのべーぜのせあぶらー」
「……」
シリウスはバスケットの中のジェノベーゼへと目を落とし……黙って蓋を閉めた。薬を塗るほど悪くはない。
アナはシリウスに薬を渡したことで満足したようだ。任務を終えてようやく、シリウスの隣に人がいることに気づいたらしく、王太子目がけてびしりと指を突きつけた。
「げぼくしゃん!」
イザークがぎょっとして、不興を買ったのではないかと王太子の反応をつぶさに窺っている。確かに本来なら不敬罪だろうが、王太子妃のお墨つきを得ているアナには不要な心配だった。
それでもシリウスは一応、側近として形だけでもアナを叱っておくことにした。
「人を指差すのはよろしくないと言っただろう?」
「いや、もっとほかに叱るところがあるだろう? おまえ本当に俺の側近なのか?」
「げぼくしゃん、やー!」
王太子妃の教育の成果を遺憾なく発揮するアナは、王太子に近寄らないように避けてイザークの前を通り過ぎかけたところで、ぴたりとその足を止めた。瞬時に全身をこわばらせたイザークだったが、アナは気ままにその顔を仰いで、なんと呼びかけていいかわからないという表情で、ことりと首を傾げた。
「……おなまえは?」
彼は逡巡し、一度瞑目してから、ふっと息を吐くと、アナと目線を合わせるように片膝をついて微笑んだ。
「イザークだよ」
「いざーく」
「そう。いい子だね」
優しく頭を撫でられたアナは、得意満面にシリウスを見た。はじめて人の名前を間違えずに言えたのだ。本来なら名前ではなく、パパ、と呼ぶはずだった人を……。
あり得たかもしれない光景が脳裏を掠めて、シリウスの胸を容赦なく突いた。
彼とサフィニアの姉と、アナ。
幸せになれるはずだった家族はバラバラになり、本来交わるはずのなかったシリウスとの縁が絡んで、新しい家族となった。誰かの不幸の上に成り立つ幸せを素直に喜べるほど、シリウスは精神的に強くはなかった。
「アナ、その方は――」
良心が耐えきれずに口をつきかけたシリウスを、イザークは鋭くにらみつけることで制して黙らせた。それから彼はわずかな感傷をそっと払うように、その小さな頭をもうひと撫でしてから手を下ろす。
自分が本当の父親かもしれないと名乗り出ることは、きっとこの先もないのだろう。それがアナのためであると理解しているからこそ、このまま“父親かもしれない”という状態のままうやむやにして、真実は隠し通すつもりなのだ。
くるりとこちらを振り向いたアナは、パパー、と嬉しそうにシリウスの足にしがみつく。
「だっこー」
シリウスは望まれるままにアナを抱き上げた。そこに応急処置をあらかた終えたサフィニアがやって来ると、アナは嬉しそうに褒められたことを伝え、ママにも褒めてもらって満点の笑顔だ。
そんな当たり前の光景を眺めて改めて思う。
(ふたりとも無事で、本当によかった……)
無意識に押さえ込んでいたらしい感情が、今ようやく実感とともに溢れてきた。
「パパ、なみだ?」
「違う。泣いてはいない」
「いたいの、いたいの、とんでけー!」
「……」
確かに、なにかがちょっとよくなった気がした。




