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サフィニアの夜会用のドレスは結婚当初に何枚か準備してあったので気にもしていなかったが、王太子妃から当日の朝に新しいものが届いたことで、シリウスは自分の夫としての至らなさを痛感しながら反省していた。
女性は最新のドレスを身につけていなければ、それだけで嘲笑の的にされるらしい。そこまでとは考えていなかった。貴婦人たちの社会は男社会よりもずっと流行に厳しかった。
サフィニアとの馴れ初めと隠し子の件がすでに流布されており、それに加えて先の告発。その直後の夜会なので、シリウスとサフィニアが様々な意味合いで注目の的となるのは不可避であった。
妻がいじめ抜かれては困るので、王太子妃の用意したドレスをありがたく使わせてもらうことにしたが、次の機会があれば今度こそ自分で用意することを胸に刻みながら彼女の着替えが終わるのを待つ。
その間にも執事長は、シリウスのクラバットの位置を細かく調整したり、濃紺の上着の小さな皺すら許さず丁寧に伸ばしたり、髪を梳いて固めて整えたりと、とにかく忙しくしている。
さすがに髪紐は場にそぐわないということで、サフィニアと話し合って装飾品のように手首に巻いておくことで合意していたが、どうやっても袖の下に隠れてしまう。仕方なく髪紐は袖で覆うことにして、サフィニアの瞳の色に合わせたカフスを選びつけていると、アナがいつものように足にしがみついてきた。こちらへと顔を上げて、また誰に聞かれたら不敬罪になりそうな際どいことを訊いてくる。
「パパ、おうしゃま?」
「王様ではない。これは貴族の一般的な夜会用の正装で、むしろ地味な方だ」
クローゼットの奥にあった、必要最低限の礼儀だけは守ったシンプルな衣装だ。しかもサフィニアのドレスと唯一色が揃った、奇跡の一着だった。存在すら忘れていたが、執事長が管理していてくれたらしい。
シリウスは見た目が見た目なだけに、あまり派手に着飾ると悪目立ちして浮く。そうでなくても派手なものは好みではなかった。夜会用の正装とはいえ、個人的には普段とさほど変わらないつもりでいたが、それでも、アナにはいつもと違うことがはっきりとわかるらしく、シリウスの全身を眺めながらにこにこしている。
「パパ、かっこいー」
「そ、そうか?」
娘の忌憚ない賛辞が嬉しく、口元が緩むのを執事長に見られないようにさりげなく手で隠した。
これが他人からの言葉ならなにか思惑があるのではと勘繰り、むしろ煩わしく感じただろうが、アナは思ったことをさほど考えずに口に出してしまうのでお世辞ではないと逆に信用できた。
「あなもきるー」
「いや、アナには、ちょっと……」
似合わないと言ってしまってもいいのかわからず口ごもる。なぜこの娘はお姫様に憧れを持っているくせに、かっこよさまでもを追求しようとするのか。
かっこいいお姫様になりたいということなのだろうか。欲張りな娘だ。
「そういえば……今日はなぜそんな灰色の地味な服を着ている? いつもの、もこもこやふりふりの服はどうした?」
ジェノベーゼの収まったポシェットは身につけているものの、子供が着るにはいささか味気ない服だ。
指摘されたアナは、はっとしたような顔をすると、慌ててソファにぺちょりと顔を伏せて嘆く真似をしはじめた。
「あなも、ぶとーかい、いきたいのー。よよよー」
「よよよ? どうした急に。棒読みだぞ?」
「あなは、おそーじ……。ままははしゃんの、めーれーなのー……」
突然虐げられる令嬢ごっこがはじまった。
(いや、いじめられる令嬢ごっこか?)
「掃除はしなくていいから、絵でも描いて遊んでいなさい」
「おえかき…… ♪はたらーきーありしゃんのー、おしーごとーなのー、よよよー」
「どうした、なぜ急に歌い出した? それとその、よよよ、というのは、一体どういう意味なんだ」
シリウスが訊いても答えが返って来ることはない。完全に役に入ってしまっている。そのくせ棒読みの大根役者だ。演劇だけは向いていないことが判明した。
舞踏会に行きたいとごねられるのも困るが、その遊びはやはり不謹慎が過ぎる。
「執事長」
「ご安心ください。アナ様専用のはたきを用意したので、それで遊んでいただきます」
執事長がひらひらしたリボンがたくさんついた、おもちゃのような小さなはたきをアナに見せると、おもしろいくらいに食いついた。
「おそーじなのー!」
はたきを振るその姿は、掃除というよりもやはり遊びに近い。シリウスも足をぱたぱたされる。
「私のことは、はたかなくてよろしい。はたいても埃は出ない」
清廉潔白の身だ。どこかの公爵とはわけが違う。
アナの遊びにつき合っていると、準備を終えたサフィニアが戻ってきた。
「ママ、かわいー!」
アナがドレス姿のサフィニアに目を輝かせながら、ぴょこぴょこ跳ねる。
落ち着いた濃紺色のドレスには、きらきらしたパールがいくつも縫いつけられていて、まるで夜空のようだ。装いから彼女の信仰の深さが表されている。
流行りの型に則りデコルテこそ出ているが、銀のリボンで縁取った胸元の露出は控えめにされており、抱きしめたら折れそうな細い腰から緩やかに広がるスカートは動くと不規則にパールが煌めきとても目を引いた。
さすが王太子妃というべきか、ドレス選びのセンスが一流だ。
髪を結い上げたことで大人の女性らしさがぐっと増していて、シリウスはしばし自分の妻の美しさに見惚れた。
「ママ、おひめしゃま? おひめしゃまなの?」
「お姫様ではなく、私の妻で、アナのママだ」
綺麗だと素直に伝えると、サフィニアの頰が染まった。ますます魅力的となり、夜会に連れて行くのが億劫になった。会場中の男たちはみんな、美しい彼女に目を奪われるに違いない。その中にはシリウスよりも若くて、サフィニアにふさわしい青年がいるかもしれないのだ。その辺りのことを考えると気分が下がる。
「あなもー。これきるー」
アナがサフィニアのスカートを引っ張るのが見えたので、慌てて感傷を投げ捨てた。そのままアナを抱き上げて引き離す。行く前に破れでもしたら目も当てられない。
「これきるのー」
おねだりするアナに、サフィニアが困ったように笑った。
「アナが着る頃には流行遅れになっていそうだけど……大きくなったらね?」
「おっきく? おうましゃん?」
この娘はどれだけ成長する気なのか。
「ママくらいにしておきなさい。いっぱい食べて、よく寝て、しっかり淑女教育を受けたらすぐに大きくなる」
ちゃっかり淑女教育を入れるシリウスにサフィニアが苦笑しつつ、つけ足した。
「大きくなれるよう、いっぱい神様にお祈りしないとね」
今ここでサフィニアによる二世信者育成計画が遂行されてしまう前に、シリウスは話を切り替えた。
「そろそろ時間だな。執事長、アナのことを頼む」
アナを執事長に預ける。慣れた様子で抱っこされたアナは気ままにはたきをぱたぱた振っているが、執事長はどこか不安げな面持ちでこちらを見ていた。
「……本当に、ついていかなくても大丈夫でしょうか」
「殿下の近衛がこちらにも警戒を強めてくれているから大丈夫だろう。それよりも、執事長まで不在にしてはアナが心配だ」
ただでさえシリウスとサフィニアがふたり揃って留守にするのだ。アナがぐずったときにあやせる人が必要だ。サフィニアも執事長を信頼し、アナのことを頼んでいる。
「食事でごねたら、苺でつってみてください。それと、もしかすると、寝る時間になってもおとなしく寝ないかもしれません」
「ご安心ください。眠るまでたくさん遊んでいただくつもりですので」
どうやら寝落ちするまでとことん遊ばせる気らしい。今日はアナの好きに遊ばせておくのが正解か。
ジェノベーゼにもしっかりアナの相手を頼んでおくことも忘れない。キラッと煌めいたそのつぶらな瞳は、きっと了承の意だろう。
「では、行ってくる」
「ええ。くれぐれも、お気をつけて」
「行ってくるわね、アナ」
後ろ髪引かれる様子のサフィニアとは対照的に、めずらしく聞き分けのいいアナは、機嫌よくはたきを振った。
「ばいばいー」
どうやらこれがやりたかったらしい。
はたきで見送られ、微妙な気分のまま、シリウスは不安そうな面持ちのサフィニアを連れて屋敷を後にした。
お姫様は突然歌い出す




