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月に半分以上も家に帰れない日々が延々と続き、家庭を顧みることができないまま、サフィニアとの関係も特に変化なく、それに加えて長い視察が間に挟まり、いつの間にか結婚から半年もの月日が流れていた。
養子の名前は使用人たちの会話から拾って知ることができたが、相変わらずその姿を見かけることはほとんどなかった。
そもそも子供が起きているような時間帯に帰れることがほぼないのだが、もしや部屋に監禁しているのではとそれとなく使用人たちに尋ねても、シリウスが屋敷に不在のときは普通にサフィニアと庭で遊んでいるらしく、事件性がないことにひとまず安堵したが、それがいっそう不気味でもあった。
サフィニアは多忙な夫に気を遣い過ぎて、どうやらシリウスから徹底的に子供を隠しているのだと気づいたときには、屋敷内で妙な憶測が飛び交いはじめていた。
シリウスが使用人たちの間でまことしやかに囁かれるその噂話を耳にしたのは、本当に偶然だった。
聞こえてきたのはこんな言葉だ。
「髪の色も瞳の色も同じなんて偶然、あると思う?」
二階のバルコニーにいたシリウスは、柵からわずかに身を乗り出して階下を見下ろした。どうやら庭先でメイドたちが、シリウスが上にいることにも気づかずおしゃべりに花を咲かせているらしい。
わりといつもの光景なので普段ならば特に気にしないものの、その言葉になんとなく引っかかるものを覚え、黙って耳を澄ませていると続きの会話が聞こえてきた。
「はじめの頃は気づかなかったけど、成長するにつれてお顔立ちも似てきたし」
「実は養子じゃなくて、隠し子だったりして!」
「じゃあ、隠し子だから隠して育てているってこと?」
「そうじゃないの? まぁ、かわいいからなんでもいいけどね」
「確かに。かわいいは正義だわ」
なにが愉快なのか、くすくす笑いながら去って行く彼女たちをシリウスは上から冷ややかな目で見送る。
さすがに外で吹聴することはないだろうが、憶測でものを言うにしてもそれはどうなのかと思いつつ、シリウスは今盗み聞いた話を反芻していた。
どうやら、妻と養子の容姿は似ているらしい。
(……隠し子?)
シリウスは即座に馬鹿馬鹿しいと吐き捨てた。
結婚にあたり、事前にサフィニアの簡単な素行調査も行なっている。
結果は白。異性関係どころか人づき合いもほとんどなく、出かける場所は教会くらいで、信心深いことしか出て来なかった。
だいたい隠し子のいる娘を王太子妃が選び抜き、王太子が直々に薦めて来るはずがないではないか。
おおかた娯楽の少ないメイドたちがおもしろおかしく話題にしていただけだろうと結論づけた。
(……だが)
ここに来てようやく、シリウスは、養子とは言え自分の娘の顔も知らないのは問題ではないかと自分でも思いはじめた。
自分の目で見て確認し、醜聞が広がる前に噂をどうにかせねば。
本当は娘との顔合わせはもう少し先、シリウスを見ても泣かないくらいに成長してからの方がよかったのだが、そうも言っていられない。
思い立ったが吉日とばかりに、結婚してからはじめて、サフィニアの私室へと足を向けた。
屋敷の東側に位置するその部屋は、元は客間だった部屋を改装したものであり、当然だが屋敷の女主人が暮らす部屋ではない。
彼女を冷遇しているわけではなく、爵位をいただいているのもどうせ数年のことだからと、シリウス自身も当主夫妻の部屋には移らず、子供の頃から使っていた自室を今でも使っていた。
そのシリウスの自室も、使用人である執事長の部屋の近くにあるという時点で、両親との殺伐とした関係は明白だろう。
うっかり両親のことを思い出して暗澹とした気持ちをどうにか振り払って廊下の先を進んで行くと、曲がり角から小さななにかが、とたとたたっ、と妙なリズムで踊り出て来て、思わず足を止めた。
それはシリウスに気づくことなく――もしくは、柱かなにかだと思ったのか、足にひしっとしがみついて来るではないか。
「……?」
疑問符を浮かべたのは果たしてどちらだったのか。
それ……いや、その幼い女の子は、自分がしがみついているものが無機物でないと気づいたのだろう、ゆっくりと不思議そうにシリウスを見上げた。
ふわふわとした髪にぱっちりとしたどんぐりまなこ。どちらも確かにサフィニアによく似た色合いをしていた。
不思議そうにこちらを見上げるまんまるな瞳に、薄く色づいた柔らかそうなほっぺた、小さな鼻とぽかんと間抜けなくらいに開いた唇。子供などみなかわいいものだが、それでも一般的に見てもかわいい部類だろう。愛らしい、という表現がよく似合う娘だ。
サフィニアの顔を思い浮かべながら、ひとつひとつのパーツをじっくりと眺めてみた。
(確かにサフィニアに似ている気もするが……)
お互いにじっと見合っていると、娘がいないことに気づいたのか、サフィニアが血相を変えて飛び出して来た。
「アナッ!!」
シリウスにしがみつく彼女を見つけるとひゅっと息を飲み、慌てて自分の腕に抱き込むようにして引き剥がした。
「申し訳ありません、旦那様! ちょっと目を離した隙に……」
「いや……気にするな」
気まずい沈黙が降りた。普段あいさつか、体調の心配か、特に意味のない天気の話しかしないため、こんなときになにを言えばいいのかわからない。
困り果てたシリウスは、とりあえず、たった今思いついたことをそのまま口にした。
「靴」
「え?」
「その靴、サイズが合っていないのではないか? さっき、歩き方がおかしかった」
抱っこされているアナはきょとんとした顔をしているが、物おじしない性格なのか、ほぼ初対面のシリウスに足を触られても嫌がるそぶりは見せなかった。
ここまで泣かれないのははじめてだ。内心身構えていただけに、拍子抜けする。
「ほら、見てみろ。幼少期からきちんと計測して足のサイズに合う靴を履かせなければ、将来足の形が崩れるぞ」
真面目に指摘すると、サフィニアは申し訳なそうに俯いた。
「そうなのですか……。すぐに成長するかと思い、少し大きめのものを買ったのですが……間違いだったのですね」
シリウスは思わず彼女の顔を見た。実は大雑把な性格なのだろうか。
「服ならまだしも……いや、この際服もきちんとサイズを測って仕立てるべきだな。なんだこの服は。古着か?」
サフィニアはますます恐縮した様子で、腕の中のアナをきゅっと抱きしめた。
「申し訳ありません……。わたしが……縫いました」
「縫……っ、そ、そうか……」
シリウスはアナに靴を履かせ直し、意図せず貶してしまったワンピースから目を逸らした。
沈黙を破るように、アナが気まずげなシリウスに臆せず問いかけてきた。
「おじちゃ、だあれ?」
(お、おじちゃん……)
まだ若い気でいた三十路男のやわな心が、無垢なひと言に容赦なく貫かれた。ショックを受けて絶句したシリウスの代わりに、サフィニアが慌ててアナへと言い聞かせた。
「だめよ、アナ。お兄さん、でしょう?」
(お兄さん……)
シリウスは眩暈を堪えるようにこめかみを押さえた。
これまで育児に関わって来なかったから仕方ないかもしれないが、シリウスは続柄としては父親なのだ。まるで他人のような呼び方をおかしいとも感じていないサフィニアへとすかさず訂正を入れた。
「お父様、だ」
「……え?」
「もしくは、父上と」
仮にも養子に迎えた娘だ。お兄さん、などと呼ばせていては周囲への示しがつかない。おかしな勘ぐりをされても困るので、早急に父親であることを認識させておかなければ。
「……よろしいのですか?」
「いいもなにも、きみの娘なら私の娘だろう。……夫婦なのだから」
「夫婦……」
「これまで育児に携わらなかった男がなにを今さらと、抵抗はあるかもしれないが……」
「いいえ、そんなことは……! 旦那様がお忙しいことは承知しておりますし、わたしたちがこうして暮らしていられるのもすべて、旦那様のおかげです。旦那様には、感謝しかしていません!」
一切混じり気のないきらきらとした瞳で尊敬の念を向けられると、非常にいたたまれない。
ここに来たのも使用人たちの噂を払拭するためであり、本当の意味で夫や父親になる覚悟もまだ持ち切れておらず、とりあえず形ばかりを整えようと打算で動いた結果である。
どうにもサフィニアと話していると、ついつい彼女に引きずられて毒気を抜かれてしまう。普段、腹黒い大臣たちと騙し合いの出し抜き合いをしているときとは別人のようだと自分でも自覚している。
「あの……よろしければ、抱っこしてみますか?」
「え? あ、ああ……」
いきなりアナを渡されて、慌ててその小さな体へと腕を回す。思ったよりもずっしりとしている。その細腕でよく軽々抱いていたなと感心する。
母親の腕から急にぎこちない男の腕へと移動させられたアナだが、恐怖心よりも好奇心が勝るのか、シリウスの顔をじっと無心で見上げていた。
基本的に子供に懐かれる要素はないシリウスなのだが、アナは興味深そうにこちらを見ている。
甥にも、ある程度の年齢になるまで顔が怖いと泣かれていたのを思い出して少しだけ傷心をぶり返したところで、アナがなにかしゃべろうと口を開いたのを目にしたシリウスは先んじて言った。
「お父様だ」
「お……?」
「お父様」
「お……しゃ……?」
どうやら口の動きが早くて追えないらしい。シリウスは口の形がわかるように、一字一句ゆっくりと発音した。
「お父様だ。お、と、う、さ、ま」
「お、う、ま、しゃ」
「馬ではない。お、と、う、さ、ま」
「お、う、しゃ、ま」
「……不敬だぞ」
子供にわかるはずもないだろうが、さすがに王様はまずい。謀反を疑われかねない。
やはりこの年頃の子供に、お父様と呼ばせるのは難しいのだろうか。世間の父親たちは娘になんと呼ばれているのだろう。
「父上ならどうだ?」
「どうだー」
「違う、そっちじゃない」
なぜそっちを真似した。そしてなぜそんなやり切った顔をする。自分はそんな間抜けな顔をしているのだろうか。シリウスは懲りずにもう一度繰り返す。
「父上だ。ち、ち、う、え」
アナはなにがおかしいのか、きゃっきゃと笑いはじめてしまい、げんなりとした。
どうやら自分には子供を教育する才能はないらしい。
(有能な家庭教師を雇おう……)
そんなシリウスのことを、サフィニアが微笑ましげに眺めていたことには気づかなかった。
アナ・バロウ(2) 『さ』の発音が苦手