21
サフィニア視点
「ママ」
アナにそう呼ばれるたびに、サフィニアの心は浮き沈みが激しくなる。
そう呼ばれることへの喜びと、罪悪感。
本当にそう呼ばれるべき人がもうこの世にいないことを否応なしに突きつけられて、悲しくもなる。
アナの母親はサフィニアのふたごの姉だった。
いつもは決められた日時に教会に会いに来る姉が、その日は深夜に人目を盗んで訪れたので驚いたが、話を聞いてさらに驚いた。
子供ができたので、誰にも知られないよう産みたいからしばらく入れ替わってほしいと頼まれたのだ。
早ければ一年半ほどで子供の父親が迎えに来る。それまで両親に隠し通したいのだとサフィニアに縋りついた。
父親のことを詳しく聞く余裕もなかったが、相手の男性は姉が妊娠したことをまだ知らず、知らせる術もないので頼ることもできないと言われ、サフィニアはすぐに承諾した。そうしなければ間違いなく、姉の子は両親によって堕胎させられるだろうとわかっていたからだ。
それは罪だと訴えたところで聞き入れる親ならサフィニアを捨ててはいなかっただろう。だから内密にことを運ばなければならなかった。
もしこのことが露見したら、姉の将来も、まだ見ぬ甥か姪の将来も、失われる可能性がある。
普通の親ならば娘を切り捨てたりはしないのかもしれないが、幸か不幸かサフィニアはこの世にふたりいるのだ。未婚のまま出産した娘を、あの両親が認めるはずがない。今度捨てられるのは姉の方だ。捨てられるだけならまだしも、醜聞を恐れて口封じされる可能性まであった。
サフィニアが姉のふりをするのは意外と簡単なことだったが、その逆に関しては根回しが必要だった。
姉は教会で出産することになる。どうしても神父様に協力を仰がなねればならなかった。
事情を説明して、姉を置いてもらうことは認めてもらえたものの、姉がサフィニアのふりをするという点で神父様は難色を示した。
「いいや、それはだめだ、サフィニア。人に親切であれと教えたが、自分を犠牲にしろとは教えていない。それではおまえの将来のことが、まったくもって考慮されていないではないか」
「わたしの、将来……?」
「万一おまえが子供を産んだという話が広がれば当然修道女になる道は潰えるだろうし、もし誰かと恋に落ちて結婚しようにも、噂がつき纏い破談ということもありうる。職を探すにも不利だ。遠く離れた、エスターのいる王都でならば職を得られるかもしれないが……それは言うほど簡単なことではない。金は? 住む場所はどうする? エスターに相談すれば手を貸してくれるだろうが、あれはあれで大変な場所にいる。サフィニア。おまえはひとりで生活していける自信があるのか?」
ある、とは、言えなかった。
自分の後先をなにも考えていなかったことをサフィニアは恥じた。神父様に指摘されなければ、そんなことは思いつきもしなかっただろう。
「ですが、わたしが姉として暮らしている間、姉にもわたしのふりをしてもらう方がいいかと思って……」
「いいや、それは誤りだ。おまえが妊娠したなどと噂される方が、よほどまずいではないか。今度こそおまえのことを、子供もろとも処分しようとしかねない。おまえだと思って、姉も子供も始末されてしまうだろう。一度捨てた娘に、情をかける親だったか?」
「それは……」
サフィニアは言い淀んだ。捨てた方の娘など、きっと躊躇いもなく殺すだろう。そういう人たちだ。
自分の心を守るために、そして負の感情に飲み込まれそうな未熟な己を律するために、ネックレスを握りしめて心の中で神へと懺悔した。
「誰かに聞かれたら、サフィニアはエスターのいる王都にしばらく修行に出たことにでもしておこう。エスターにさえ簡単に事情を伝えておけば、誰も疑いようがないだろう。この僻地から王都に行く者などそうそうおるまい。それに、出て行ったら行ったきり、帰っては来ないものだ。……悲しいことにね」
エスターは上を目指して、すでにこの田舎を後にしていた。神父様の口添えもあり、今は王都に身を置いている。エスターならばどこでもうまくやっていけるだろう。
だがサフィニアには、知らない場所で一からはじめるような度胸はなかった。
エスターとは兄妹のように育ったので、その口利きで王都に修行に出ること自体は不自然な話ではなかった。意外と、コネがものを言う世界なのだ。
「ですがわたしと姉はうりふたつです。誰かに顔を見られたりしたら、おかしいと思われないでしょうか?」
「ここはどこだい、サフィニア? 小さくともれっきとした教会だよ。ここには俗世から逃げて来た者を隠す部屋くらい、いくらでもある。前にも、やんごとなきお方を匿ったことがあっただろう? ここには傷を負った人々を匿い続けて来た歴史があるのだよ。大丈夫、おまえの姉も、その子供も、ナスラ様がお守りくださることだろう」
元々人の少ない、教会通いをするのも同じ顔ぶれという土地だ。もし教会内で姉が見られても、サフィニアが帰郷していると神父様が言えば疑わずにそう信じるだろう。神父様の言うことを疑うような人は、そもそも教会になど訪れない。
神父様は念には念をと、姉にお腹が目立つようになってからは日中は外に出ないことを約束させ、姉はもちろん了承した。
サフィニアの方の入れ替わりも思った以上にすんなりといった。娘たちの交流を制限しなかったおかげで、サフィニアは姉の生活をよく知っていた。もともと容姿も見分けがつかないほどに似ていたせいもあり、日に一度か二度顔を合わせる程度の両親を欺くことは想像よりもずっと簡単なことだった。
そのとき否応なしに理解した。
この人たちは本当に自分の子供に興味がないのだな、と。
ずっと両親に捨てられたことを引きずっていたが、その瞬間、その気持ちが綺麗さっぱりとなくなった。
エスターが家族を捨てて出家したとき、こんな気持ちだったのだろうか。
両親や家族に対しての未練などない。
裕福な暮らしにも興味はない。
教会で神父様と神にお祈りしている方が、ずっと幸せだと改めて思い知った。
両親との生活は息苦しくもあったが、修行だと思えば耐えられた。
そうして半年ほど経ち、姉が早産だったが無事に娘――アナを産み落とした。産後の肥立も悪くなく、それでも念のためしばらく療養してその体調を戻し、アナが乳離れをしたのを機に、密かに元通り入れ替わった。
シスターに戻ってからはサフィニアが姉の代わりに神父様と一緒にアナの世話をしながら、約束の一年半が経とうとしていた頃。
姉が突然、血を吐いて倒れたのだ。
お医者様が駆けつけたときにはすでに息はなく、肺の病を得たのだろうと診断された。
だけどサフィニアにはわかっていた。
姉はきっと殺されたのだ。
確証などなにもない。本当に診断通りに、運悪く病で亡くなったのかもしれない。
ただひとつ確かなことは、姉は幼い娘をひとり残して旅立ってしまった、ということだけだった。
どれほど無念だったか。
人は死んだら神の御許へ行くと言うが、姉は無事にたどり着けたのだろうか。せめて姉の魂が健やかであることを願い、神へと祈った。
喪が明けるまで教会で祈りを捧げ続けるつもりだったサフィニアだが、現実は残酷なまでに冷たく、姉の死を悼む時間すらも与えられず、両親に無理やり実家へと連れ戻されることになる。
下級貴族令嬢のサフィニアではなく、シスターのサフィニアが死んだことに偽装するためにだ。
正直、最初は両親が姉を殺したのだと思っていたが、その慌てぶりを見ればさすがに違うとわかる。
姉と入れ替わった後に、今度は両親に入れ替えられてまた実家に戻って来るとは思っていなかった。もはや自分が何者なのかすらわからなくなりそうだった。
アナのことは気がかりだったが、下手に情報を得ようとすれば両親に気づかれる可能性がある。彼らだけには、アナの存在を知られるわけにはいかなかった。
あの人たちは孫だからと慈悲をかけるような生温い性格の人間ではない。
一度捨てた娘という体で、姉のことをお墓にすら入れてくれないような薄情な親だ。
死んだのは姉だったが、彼らにとっては捨てた方のサフィニアだった。
突き返されたその遺灰は、本来ならば自分が受けるべき仕打ちだった。
自分は弔ってもらうことも、お墓に入れてもらうことすらできないのか。
ふたごだったから。
(……違う)
自分は必要のない子だから。
そう思って苦しんで来たのに、結局彼らにとって、捨てる娘はどちらでもよかったのだ。
その瞬間から、サフィニアは彼らを両親だと思うことすらやめた。
サフィニアの血の繋がった家族は、もうアナだけだ。
まだ幼い、母親を亡くした、かわいそうな姪っ子。
あの子だけは守らなければ。
姉の代わりに。
だがもしここでアナを連れて逃げ出したとしても、すぐに捕まって連れ戻されるのが関の山だ。両親は下級とはいえあれでも貴族。逃げ切れると思えるほどサフィニアは楽観的な性格ではなかった。
前に教会に匿っていたご令嬢も、自称婚約者という身なりのいい貴族の青年に連れて行かれてしまった。貴族はお金も人脈もある。情報を得て、探しに来ることは想像に容易い。
サフィニアが教会に逃げ帰ることを懸念していたのか、家から出ることすら許されず、それでも拙い頭で考え続けていた。どうしたらアナを連れて逃げられるかを。
そんな折だった。サフィニアに結婚の話が舞い込んで来ていると知ったのは。まさしく青天の霹靂だった。
両親がサフィニアを逃がさないように閉じ込めるわけだ。なにせ相手はかなり格上の有名貴族であり、しかも王太子妃直々のご指名だという。
王太子妃になど会ったこともないサフィニアは戸惑ったが、きっと姉と親交があったのだろうと思い直した。
下級貴族の娘である姉が王族なんかと知り合う機会があったかは疑問ではあったが、王太子妃の指名ならば、この結婚からはどうがんばっても逃げられない。逃げたところで敵を増やすだけだ。
(……だけど本当は、ひとつだけ逃れられる道が残されてはいる)
どうにか教会へと戻り、正式に修道女となればいい。ナスラン聖教を信仰する王族が、たかがサフィニアひとりのために、その領域を冒すことはないだろう。
だがサフィニアがそれをしてしまったら、両親はまた身代わりを探すかもしれない。アナは自分たちに似過ぎている。もしアナが両親に見つかってしまったらと考えると怖い。
あの人たちは自分の血縁者であるかなど、きっとどうでもいい。ちょうどよかったとばかりに、自分たちの幸運を喜びながらアナを引き取るに違いない。
そして愛情ひとつかけてもらえず育ち、家の名誉のために最後には好きでもない相手に嫁がされる。結婚した相手が善人ならばいいが、そうでなければ……。
このまま神父様の元で育つ方がアナにとってはいい。絶対に。
願わくば、どこかの善良な夫婦の元で健やかに育ってほしい。
それ以上に望むことなどなにもなかった。
アナのためにも、自分が逃げることは許されない。
それなのにサフィニアは、どうしてもその一歩を踏み出し切れずにいた。お相手の酷い噂を耳にしてしまい、この期に及んで怖気づいていたのだ。
そんな娘の心情を察するどころか浮かれる彼らを見ては、月のネックレスをきつく握りしめる日々。
家から出ることは制限されていたが、神父様を招くことは許されていた。迷える自分に道を示して導いてほしかったのだが、神父様はそんなあまえた心の裡を見透かしていた。
「昔、教えただろう? 神がお与えになる試練には、必ず意味がある。乗り越えられない人には試練は与えないのだよ。だからそれがどれだけつらくて苦しく困難な道だとしても、自分が選んだ道が一番正しかったのだと、神の前で胸を張れる選択をしなさい。神を恨まず、人を妬まず、周りを尊ぶ心を忘れずに、そこで幸せになる努力さえすれば、いつか自分なりの幸せを見つけることができるだろう」
突き放されたような気もしたが、神父様の言うことはいつも正しい。これは自分の人生だ。昔は理解できなかった言葉が、今はすっと頭に入って来る。
自分の進むべき道は、人に決めてもらうものではない。自分自身で決めなければ、後できっとなにか起こる度に、誰かのせいにして責任を押しつけてしまう。
「……とはいえ、それは簡単なことではないね。だから迷ったときは、まずはどちらの道にも進んだ自分を想像してみるといい。そうしてその自分に問いかけるのだよ。その選択に後悔はないか、とね。どれだけ険しい道のりが見えていても、私ならばきっと、後悔の少ない方を選ぶだろうね」
考えるまでもなかった。
自分のためにアナを犠牲にした瞬間、どれだけ平穏な日々が保証されていても、自分の人生は後悔に満ちた苦難の道となる。
自分がつらいだけなら、きっと耐えられる。それに、親に捨てられたこと以上につらいことなど、あるはずがない。
決意したはいいが、ただ両親を喜ばせるのは業腹だった。
神に仕える修道女ならば、きっとこんな歪んだ感情など抱かない。結局サフィニアにはなり切れなかったのだ。
人間は完璧ではない。完璧なのは神だけだ。だからこそいくら同じ神を信仰しようとも、そこに集うのが人である以上、清廉なだけでは成り立たない場所だとも知っている。
サフィニアの兄弟子は、いつもサフィニアに綺麗なだけではない厳しい現実を教えてくれた。
エスターと町に出ると、服装のせいか、奇異の目で見られることがあった。孤児だと侮られて、ボールをぶつけられることもあった。神などいないと理不尽に大人から怒鳴られることもあった。
「よく聞け、サフィニア。人に尽くすことはいいことだが、ただ搾取されるだけの愚か者にはなるな。そういう相手は、おまえのことを人ではなく家畜としか思っていない。人と人は対等であると、神も言っているだろう? 賢くなれとは言わないけど、バカにだけはなるなよ」
エスターのことを思い出したのは必然だったのかもしれない。
だからサフィニアは取引をしたのだ。
だってサフィニアは、愚か者でも、家畜でもない。
結婚してもいい。だが、条件がある、と。
ひとつ、身元不明のシスターとして共同墓地に埋葬された“サフィニア”をきちんと弔い、実家の墓に入れること。
ひとつ、教会と孤児院の子供たちのために毎年必ず寄付をすること。
ひとつ、今後、二度と自分に接触して来ないこと。
その条件を受け入れてくれるのなら結婚すると、サフィニアは両親に誓わせた。
彼らはふたつ返事でうなずいた。家族の縁を切ることに、なんの躊躇いもなかったことに笑ってしまいそうだった。
でもだからこそ、サフィニアも安心して両親を切り捨てることができた。もうあの頃のような寂しさや悲しさはない。今度はサフィニアが捨てたのだ。両親を。
あの瞬間から、彼らとは血の繋がった赤の他人に成り果てた。
その代わりに、血が繋がらなくとも大切な家族を手に入れられたのなら、自分の選択はきっと間違っていなかったのだろう。
それでも。
今が幸せだからこそ、不安になる。
姉はどう思っているのだろうか。
考えてもせんないことなのに、どうしても考えてしまう。
姉はあの家から逃げようとしていた。
愛する人と、愛する娘と、三人で幸せな家庭を築けるのだと信じていたのに、その幸せを横取りしたような気がしてしまうのだ。
本当はここにいたのは姉なのに、と。
ママ、と呼ばれるべきは、姉だったはずなのに――……。
「いいか? ママは名前ではない。ママの名前は、サフィニアだ」
シリウスのはっきりと通るその声に、サフィニアは感傷の淵から現実へと引き戻された。
一度瞬いて、声のした方へと意識を向けた。どうやら夫が娘に、また言葉を教えているらしい。最近よく見られる光景だが、今度はサフィニアの名前に挑戦しているらしかった。
「ママは、サフィニアだ」
「た……ぴ?」
「全然違う。サ、フィ、ニ、ア」
「た、ぴ、お、か」
「なぜだ」
シリウスは知らないようだが、普段あまり表情が変わらない彼の愕然とした顔は、アナの大のお気に入りなのだ。
すっかり味を占めてしまったのか、お父様と呼ばせようとシリウスが奮闘しているのをよそに、アナはお馬さんだの王様だの言ってその反応を楽しんでいる節がある。
本当に言えないのかどうかは、サフィニアでも判断がつかなかった。
この調子だと、しばらくサフィニアのことをタピオカと言うだろう。
タピオカ。案外悪くない。
両親がつけたこの名前よりも、アナがつけてくれたタピオカの方がずっといい。
だってサフィニアという名は、サフィニアではなく、姉のものなのだ。
だから自分はタピオカくらいがちょうどいい。
「響きがかわいいので、わたしはタピオカでも平気ですよ」
のんびりとそう声をかけると、シリウスが露骨に顔を顰めた。
「タピオカという名の妻はさすがに嫌だ」
「娘から名前で呼ばれる機会なんてそんなにないでしょうし、もう少し成長するまで待つしか……」
「このままではいつまで経ってもママという名前の人だと思われ続けるぞ」
サフィニアはそれで構わないと思っている。
ママという名前の人と認識されている方が、本当のママだと思われているよりも、姉に対する罪悪感が少なくていい。
だけどそんなことを正直に言ってしまえば、優しい彼のことだ、いろいろと考え込んでしまうに決まっている。
せっかく楽しい雰囲気の今を自分の手で壊してしまいたくはなかった。
「わたしのことは旦那様の後で構いませんので、まずは旦那様のお名前を教えてあげてください」
「サフィニアよりはシリウスの方がまだ……」
簡単だろう、と続けようとしていたシリウスは、アナのきょとんとした顔を見て、考え直した様子で居住まいを正した。アナもつられたのか、膝の上に乗せていたジェノベーゼを前向きにした。
「いいか、アナ。私の名前はシリウスだ。シ、リ、ウ、ス」
「ぷり……?」
すでにだめな予感がひしひしとしている。
シリウスが顔を引き攣らせてから、ゆっくりと言い直した。
「違う。シ、リ、ウ、ス」
「ぷ、り、ん、す」
「……なぜだ」
とうとうシリウスが頭を抱えてしまった。彼は顔立ちのせいで勘違いされがちだが、気持ちが優しい人なのでアナを叱ることができず懇願している。
「お願いだから、不敬を疑われる言い間違いだけはやめてくれ」
「おうましゃん?」
アナがジェノベーゼを持ち上げた。つぶらな翠色の瞳としばらく見つめ合う姿は、まるで目で会話しているかのようで真剣そのものだ。
「まだ馬の方がいいが……」
結論が出たところでサフィニアもそれに便乗した。
「でしたらわたしもタピオカで」
シリウスはちらりとサフィニアの方を横目で見てから、諦めた。
「……わかった。しばらくはパパとママで妥協する。気長に成長を待とう」
サフィニアとしては、あまり駆け足で成長しないでほしいと思ってしまう。
いつかアナが自分の出生のことを知ったとき、今と同じように自分のことをママと呼んでくれるだろうか。
「ママ……?」
アナがジェノベーゼの鼻先でちょんちょんとつついてきたので、その小さな体を抱きしめてやわらかい髪に顔をうずめる。お日様と芝生と焼き菓子の匂い。幸せな匂い。
「どうした?」
怪訝そうなシリウスになんでもないのだと首を振る。
「今、とても幸せだな、と思って」
「……タピオカなのにか? タピオカだぞ?」
終わった話だと思っていたが、彼はまだその件を引きずっていたらしい。
「かわいいですよ、タピオカ」
プリンスは響きがイマイチなので、自分ばかりかわいい名前で申し訳なく思う。
シリウスは眉根をきゅっと寄せて、なにか苦いものでも飲んでしまったかのような顔をしている。
「きみは少し……感性が独特だな」
(感性が独特……?)
個性的ということだろうか。優しい彼のことだから、きっと褒め言葉だ。
「ありがとうございます」
サフィニアがそう言うと、シリウスは静かに一度瞑目して、やはりなにかを飲み込んでから、話を変えた。彼との会話ではよくあることなので、気に留めることはなかった。
「……明日は牧場だ。そろそろ寝よう」
「ぼくじょ!」
「待て、たった今寝ようと言ったばかりなのに、なぜ急に元気になる? おとなしく寝なさい」
「ぼくじょっ! ぼくじょっ!」
「こら、どたどた床を踏み鳴らすな」
ジェノベーゼと一緒にその場で足踏みをするアナに、シリウスが額を押さえて嘆息した。見慣れたいつもの光景だ。
サフィニアはふたりを見つめてそっと微笑んだ。
(こんなことは、きっと考えるべきではないのだろうけれど……)
サフィニアは自分の過去とアナにまつわる話をひと通りシリウスに話したが、ひとつだけ、言えていないことがある。
きゃっきゃっとはしゃぐアナにげんなりしながらも優しい手つきで抱き上げたシリウスから、そっと目を逸らすように瞼を伏せた。
姉はたぶん、殺された。
殺したのは、
アナの実の父親かもしれない。
「そういえば、まだ自分の名前は言えないのか?」
「あな、ばろー!」
「家名が使えて偉いな。名前の方はどうだ? アナスタシアはまだ難しいか?」
「あな……だったかしら?」
「違う。なぜ曖昧になる? アナスタシアだ」
「あな……?」
「ア、ナ、ス、タ、シ、ア」
「あ、な、と、らっ、と、り、あ」
「……いつ出店した? 名物はジェノベーゼか?」
(……え?)←ジェノベーゼ




