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「これは政略結婚だが、兄の子――つまり本来の後継である甥がいる以上、私たちの間に子供は必要ないと思っている。できる限りは妻として尊重するし、散財と不貞以外ならば自由に行動してくれても構わないが、子供だけは諦めてほしい」
初夜の寝所で、シリウスは顔色ひとつ変えずにそう言い切った。
このバロウ侯爵家の当主だった兄が亡くなったのは、ちょうど一年ほど前のこと。残された兄の息子である甥が爵位を継げる年齢になるまでの五年間という期間限定で、当主の座という厄介なお鉢が回って来てしまったのはシリウスにとってはまさに青天の霹靂だった。
城で王太子の補佐として働いているシリウスは齢二十九、プラチナの髪にブルーシルバーの瞳を持つ冷たい相貌の美丈夫だ。
幼い頃から容姿が整っていたせいで、とにかく男にも女にも悲惨な目に遭わされた経験しかなく、大多数の人間に不信感を持ったままこの年まで来てしまったせいか、誰もが一生独身を貫くだろうと思っていた矢先のことでもあった。
期間限定とはいえ爵位を継ぐのにお飾りであっても妻は必要で、早く嫁を娶れとせっつく王太子に根負けしたシリウスは、嫁探しに協力してくれる彼に、最低限の要望だけを伝えた。
ひとつ、騒音のような声で騒ぎ立てる姦しい女でないこと。
ひとつ、爵位に固執せず野心がないこと。
ひとつ、財産を食い潰すような散財をせず、慎ましやかであること。
ひとつ、こちらの仕事に干渉しないというルールを守れること。
ひとつ、結婚後はよそに男を作らず貞淑であること。
そして最後に、自分の容姿に惚れない女であること。
わがまま過ぎると王太子は頭を抱えたが、シリウスの知ったことではない。探せるものなら探してみろとたかを括っていた数ヶ月後、彼は妻候補を見つけて来た。
サフィニア・バロウ。
旧姓サフィニア・ルッツ。
ライト伯爵家縁の下級貴族であるルッツ家のひとり娘で、シリウスとの結婚にあたり家格を合わせるために一度伯爵家と養子縁組をした、もうすぐ二十歳になる女性。
そう、今シリウスの目の前で、寝台に控えめに座る彼女のことだ。
緩やかに波打つストロベリーブロンドの髪は、今日のために手入れをされたのか艶めいている。少し長めの前髪の下で伏せられた瞳からは感情は読めないが、まつ毛はわずかに震えているようにも見えた。
使用人たちはこの結婚の意味を知っている。彼女が初夜に不向きな一般的な夜着を着ているのは、シリウスが初夜を遂行しないと判断してのことだろう。
しかしどれほど露出の少ない夜着でも、夜着は夜着。その薄い布地一枚では、彼女の女性らしい体の曲線は隠し切ることはできなかったらしい。むしろ禁欲的だからこその悩ましさを内包している。
普通の貴族の妻ならば、家のために子供を産むことを求められるが、シリウスが妻に求めることはただひとつ。
「きみはただ、私の妻としてここにいてくれるだけでいい。それだけで助かる」
シリウスは視線を逸らして、手近にあったガウンをその華奢な肩にかけてやると、彼女ははっとしたように顔を上げた。
「ありがとうございます」
はじめてこちらへと向けられた月のような瞳は清廉で、思わず見惚れるほどに美しかった。
まだ若くて器量もいいのだ、もっとまともな縁談だってあっただろうに、王太子の推薦となればほぼ王命。下級貴族の娘である彼女には断る余地すらなかっただろう。シリウスの元になど嫁いで来たばかりに、本来得るべき幸せの多くを取りこぼしてしまったのだと思うと、目の前の娘が不憫に思えてきた。
「もし……なにか望むことがあるのなら、我慢せず言いなさい。できる範囲でなら、叶えよう」
気づくとそう口にしていたのは、罪悪感からか。
自分らしくない発言にシリウス自身驚いている間に、彼女は一度息を飲んでから、とんでもない望みを口にした。
「それなら……養子を迎えても、よろしいでしょうか……?」
シリウスはゆっくりと目を瞬いた。予想外の要求すぎて、子供のようにきょとんとしてしまったことを恥じるように、咳払いをして仕切り直す。
「……私の話を聞いていたか?」
子供はいらないと言ったばかりなのに、なぜ養子という発想に飛んだのか理解できない。
頭の悪くない女という要望もつけ足しておけばよかったかと後悔していると、彼女は華奢な鎖のネックレスを握りしめながら慌てて言い繕った。
「それは、はい。もちろん、聞いておりました。わたしたちの間に子供がいると、困る、と」
「そうだ」
そこはしっかりわかっているらしい。
よく見ると、彼女が握っているのは装飾品のネックレスではなく、この国の信仰の主流である、ナスラン聖教の唯一神ナスラのシンボルである、月をモチーフにしたネックレスだった。
もしかして、神に縋りたくなるほどシリウスが恐ろしいのだろうか。あり得る話だ。よく相手をする役人たちも、シリウスが予算の申請をつき返したり、ちょっと書類の不備を指摘しただけでも、その後なにを言っても震えるようになるのだ。
(望みを叶えてやると言った以上、頭ごなしにはねつけはしないが……)
「とりあえず、理由を聞かないことには」
なるべく詰問口調にならないよう心がけて問いかけると、彼女はようやくネックレスから手を離してくれた。ただひと通り祈り終わっただけなのかもしれないが、神に縋るのをやめてくれただけでも収穫だ。
彼女はうつむきがちだった顔を上げると、なぜかふわりと微笑んだ。
「旦那様は、とてもお優しい方ですね」
「……は?」
質問の答えになっていない。またしても想定外の言葉が出てきて困惑する。
優しいなど、皮肉以外で言われたことなどないシリウスは正直耳を疑った。嫌味かと思ったが、サフィニアは本心からそう言っているようだったので余計に戸惑う。
「ガウンをかけたからか? それとも、養子に関してすぐに却下せずに話し合いの姿勢を見せたからなのか? だがそれは、あくまで人として当然のことで……」
「もちろんそれもですが、甥御さんにつつがなく爵位を譲るためにという建前で、初夜に怯えていたわたしを気遣ってくれましたし……」
最後の方は尻すぼみでよく聞き取れなかったが、シリウスはややたじろぎながらも否定する。
「いや、あれはそういうわけでは……」
シリウスの妻の座に収まった彼女が自分の子に爵位をと、余計な野心を抱かないよう、あえて告げた言葉だったのだが、なぜだかいいように受け取られてしまっている。
「ですが……わたしはあまり詳しくないのですが、子供ができないように夫婦の営みをすることもできるそうですし、気に入らない妻に暴力を振るう方もいると聞いております」
「それは……」
男色でもない限り、普通の男ならば妻の味見くらいは当然するだろうし、夫に嗜虐趣味でもあれば悲惨だ、と考えて、ふと彼女の立場になって考えてみた。
お互いを知る前に結婚したのだ。シリウスは条件を出した方なので、ある程度どういった人物が妻になるかの想像はつくが、彼女はシリウスのことなどなにも知らないのだ。
しかも勝手に怯える役人たちのせいで、とんでもない冷血漢であるという噂まである。
つらい結婚生活を送ることを、彼女が想定していてもおかしくはない。
彼女の家はかなり格下なので、非道の限りを尽くされたところで実家からの助けも期待できないのが世知辛い貴族の階級社会だ。
もしかすると彼女は、結婚が決まってからずっと、乱暴にされるかもしれないと恐怖を抱いていたのだろうか。
彼女の両親は娘が期間限定でも爵位を持つ貴族に嫁ぐことを諸手を挙げて喜んだと聞いているが、どうやら彼女自身は、この婚姻に乗り気だったわけではないらしい。それどころか逃げることもできずにこうしてひとり怯えていた。結婚前に少しでも話す時間があればもっと気遣ってやれたのだが、仕事に忙殺されてそんな時間も取れずに初夜だ。
シリウスは政略結婚など、旧時代の悪習だと思っている。
今日顔を合わせたばかりの人間と肌を合わせるなど、男の自分でもぞっとする。
そうとわかれば、それまで張り詰めていた警戒心と緊張感を解かざるを得なかった。どうやら彼女と自分は、似た者同士のようだ。周りが勝手に話を進め、当人たちの心情は置いてきぼり。
なるほど。最悪の想像をしていたからこそ、多少の親切でも感動したのだ。人の警告を曲解するくらいには、彼女の精神状態がまともでないとも言えるのだが。
シリウスは相手が誰であれ結婚した以上、どうしても譲れない部分以外は、うまく関係を築いていきたいという気持ちを持っていた。
せっかくこちらに好意的な誤解をしてくれているのだから、あえてそれを否定することもないかと、静かに言葉を飲み込み受け入れた。
自分は優しい人間なのだ。
とりあえず今はそう思い込むことに決めた。
「旦那様が子供を残さないことを決められているのなら、わたしたちは今後も、同衾することはないということでしょうか?」
「まあ、そうなるな。私は、すぐそばに人の気配があるとどうにも寝つけない」
「まあ……それは困りますね」
まるで自分のことのように本当に困ったような顔をするサフィニアに苦笑しながら、シリウスは妻になったばかりの女性ならば普通は怒りそうなことを、気負うことなく口にしていた。
「だからできれば、寝室は別にしたい」
「わかりました。旦那様の安眠を損なわせるわけにはまいりませんもの」
「理解してくれて助かる」
サフィニアはふんわりと微笑む。優しく包み込むような穏やかさの、純朴な娘だ。これまでに接したことのないタイプの女性であり、ちょっとだけ調子が狂うが、こうしてまともに会話ができるだけで貴重な存在だ。
彼女のおっとりとした話口調に流されて、つい本題を忘れてほのぼのとしかけたシリウスは、内心慌てながら表面上は冷静さを保ち軌道修正を図った。
「それで、養子の件だが」
「はい。旦那様は……孤児院などに足をお運びになったことがございますか?」
「ああ、視察で何度か」
王太子の視察に随行したシリウスの感想は、どこもいっぱいいっぱいだな、ということだった。
単純に親がいない子供が多いこともあるが、なにより人手が足りていないことが問題だ。ナスラン聖教では、子供は等しく尊いものとして子供を大切にする教えがあるため、この国では孤児院は教会に併設されていることが多い。そうなると必然的にシスターが子供たちの面倒を見ることが多くなるのだが、そもそも俗世から離れて神に仕えるシスターの数が少なかった。
シリウスは家名義と個人名義の両方で寄付をしているが、それは具体的な対策もなく、お金を出して根本的な問題解決を先延ばしにしているだけなので、誇れることではないと自覚している。寄付をしただけでなにかをやったつもりになっているほかの貴族と一緒にされたくない気持ちはあるが、結果だけ見れば同じことだ。恥じ入るばかりである。
「それでしたら、現状をよくおわかりになっているかと存じます。子供は増えていくのに、人手が足りず、里親が見つかる子供は全体のわずか一割程度です」
ほとんどの子供が孤児院で成長し、そこから巣立っていくことになるのだろう。そう考えると実に多くの子供たちが親の愛情を知らずに育つわけだが、たとえ親がいたとしても、愛情などかけられたことのない子供だって世の中には少なくないのだ。
(……私のように、な)
そっと目を伏せて自嘲する。
シリウスはいわゆる、兄のスペアだった。兄になにかあったときに代わりができるようにと教育こそ施されたが、あくまでもスペアはスペア。甥が産まれたときにお役御免となったはずだったのだが、運命とは残酷なもので、結局しがらみからは逃れきれなかった。
サフィニアは思い切ったように、ネックレスを手のひらに握りしめて言った。
「元々わたしは、結婚するつもりも、子供を産むつもりもありませんでした。その点では旦那様のご希望に添えると思います。ですが……本当に不躾なお願いだと重々承知していますが、子供を育てることへのお許しをいただきたいのです」
「寄付ではなく、孤児院への貢献をしたいと?」
真面目な顔で訊き返すと、彼女は慌てたように首を振ってから、うなだれた。
「い、いいえ、そのような高尚な考えではなく……。ひとりだけでいいのです。わたしがこの手で、精一杯愛情を注いで、育ててあげたいのです」
「しかし、いくら私の血を引いていないと言っても、子供を迎えるとなるといい顔をしない連中もいるからな……」
「旦那様の懸念も理解できます。ですが、わたしが養子として引き取りたいのは、女の子なのです」
女の子。
この国では女性に爵位の継承権はない。もし直系に女子のみで男子がいない場合はよそから婿を迎え入れることもあるが、多くは親類縁者から男子の養子を取り後継に据えるのが普通だ。
「わたしのわがままなので、旦那様にご迷惑をおかけしないよう、細心の注意を払って子育てをいたします」
犬猫を拾って育てるのとはわけが違う。
だが、サフィニアの目は真剣だった。
忙しいシリウスが妻を構えない分、その子供が代わりに彼女の寂しさを癒して、慰めてくれるというのなら、案外いい申し出かもしれない。
先ほどシリウスの提示した最低限の約束さえ守ってくれていたら、自由に過ごしてもらって構わないと思っていたのだ。子供ひとり養うくらいの甲斐性はある。
「わかった。女の子をひとりだけなら、認めよう」
サフィニアは、ぱっと花が綻ぶように笑った。
何度も心からの感謝を捧げてくる彼女に、さすがにいたたまれなくなったシリウスは、逃げるように寝室を後にした。
シリウス・バロウ(29) 美貌の過重労働者
サフィニア・バロウ(19) 熱心なナスラン聖教信者