原作の改変
エルヴィス殿下が何者なのかを、私はこの時になってようやく思い出した。
『亡くなった第一王子の分まで、私がしっかりせねば』
ハロルド王太子は、ゲーム中で確かにそう言っていた。
かつて視察の途中で崖崩れに遭い、命を落とした第一王子。
それがエルヴィス殿下だったのだ。
これでようやく納得がいった。
第二王子のハロルド殿下が、なぜ『カガヒメ』の中では王太子なのか。
家柄も美貌も兼ね揃えた第一王子のエルヴィス殿下が、なぜ『カガヒメ』の攻略対象者として登場しなかったのか。
ゲームの中でエルヴィス殿下は、今日、今まさにこの瞬間、命を落とすはずだった。
当初の予定を変更していなければ。
予定を変更する原因となった、図書館(仮)が存在しなければ。
そのことに思い至った途端に、自分の意思とは関係なく身体が震えだす。
エルヴィス殿下だけではない。
第一王子と共にこの地に視察に来ている、官僚や護衛の方々の命も、失われていたかもしれないのだ。
私は『カガヒメ』というゲームの世界に転生している。
けれども、この世界はゲームではなく、私達はこの世界で確かに生きているのだ。
死んでしまったからと言って、リセットはできない。
「すぐに被害の状況を確認するように。私も急いで城に戻ろう」
固い表情で周囲に指示を出すエルヴィス殿下は、先程まで笑顔で会話をしていた人とはまるで別人だ。
…この人が、今この場に存在しない可能性があったのか。
意図せずに原作を改変することになってしまったことに対して、戸惑いはある。
それが今後、どういった影響を及ぼすのかはわからない。
けれども今は、素直に「よかったな」と思う。
エルヴィス殿下が、ここにいるみんなが、無事でよかった。
それに、この世界が『カガヒメ』のシナリオ通りに進むわけではないこともわかった。
この世界に“強制力”のようなものが働くのであれば、エルヴィス殿下はここにはいなかったであろう。
「サラ嬢、このようなことになってしまって申し訳ありません。もっと話を聞いていたいところなのですが、私は今すぐ城に向かわねばなりません」
エルヴィス殿下はそう謝罪するけれど、当然の判断だ。
むしろこの状況でのんびりと本の話なんか続けられない。
「話の続きは、後日必ず」
そう言って微笑むエルヴィス殿下に、胸がちくりと痛む。
彼の対応はこんなときまで、“第一王子”として完璧だ。
貴族というのは、自身の心の内を読まれてはならないと教育されている。
国のトップである王族ともなれば、尚のことだ。
けれども前世の記憶がある私は、自分が死んでしまっていたかもしれないこの場面においてまで、心を覆い隠さないでほしいと思ってしまう。
「エルヴィス王子殿下、過分なお気遣いありがとうございます」
私はそう言って一度頭を下げたけれど、すぐに姿勢を正してエルヴィス殿下の目を正面から見据える。
不敬な物言いになってしまうかもしれない。
しかし、これだけはどうしても伝えたい。
「けれどもどうか、今はご自身の感情を大切になさってください」
私のその言葉を聞いて、エルヴィス殿下がほんの一瞬怪訝な表情を浮かべたのがわかった。
「それはどういうことでしょうか?」
エルヴィス殿下のその問いかけは、純粋な質問のように思われた。
「殿下にお怪我がなかったこと、私ですら嬉しく思っております」
私がエルヴィス殿下と顔を合わせたのは昨日が初めてで、親しい間柄と言うわけでは全くない。
そんな私ですら、エルヴィス殿下の生存を心から喜ばしく思っている。
それは、エルヴィス殿下が第一王子だからという理由ではない。
「王族の方々の気持ちを推しはかる不敬をお許しください。しかし、国王夫妻やハロルド王子殿下はより一層、子であり兄であるエルヴィス王子殿下の無事を、心からお喜びのことと思います」
本当に、罪に問われてもおかしくないくらいに失礼なことを言っているという自覚はある。
けれども、どんなときでも第一王子としての仮面を外さないエルヴィス殿下は、側から見ていてとても危うく感じられるのだ。
「“第一王子”ではなく、“エルヴィス様”が、ご無事で本当によかったです」
エルヴィス・ヘイワードという個人の無事を喜ぶ人間が多くいることを、ぜひともわかってほしい。
そして、“この国の第一王子が死を免れた”ことではなく、“自分自身が無事である”ことを、エルヴィス殿下本人にもきちんと喜んでほしい。
私の言葉を聞いたエルヴィス殿下の瞳が、僅かに揺れたのがわかった。
「あなたは、“個人である私”の無事を喜んでくれているのですか?」
エルヴィス殿下のその言葉で、私の言いたいことが正しく伝わったことがわかる。
しかし、そこには戸惑いも含まれているようだった。
「はい。私だけではなく、多くの人間が“個人であるエルヴィス様”を大切に思っているはずです」
あと一歩、本当の意味で彼に伝わってほしい。
「もちろん、第一王子としての立場を全うされるエルヴィス王子殿下を、私は心から尊敬いたします。けれども、エルヴィス殿下は第一王子である以前に、エルヴィス様という個人です」
できることなら、第一王子ではない自分の価値を、きちんと理解してほしい。
「どうかエルヴィス殿下ご自身も、“個人としてのエルヴィス様”を大切になさってください」
『カガヒメ』というゲームの中では命を落としてしまった彼だから、ゲームではないこの世界ではできるだけ多くの幸せを感じてほしい。
第一王子としてだけでなく、エルヴィス様として。
「…大変失礼な物言いをしてしまったこと、深くお詫び申しあげます」
私の言葉を聞いたエルヴィス殿下が真顔で黙り込んでしまったので、あまりの不敬に気を悪くさせてしまったのかもしれない。
けれども後悔はない。
自身の死を感じさせる状況にあっても、それを他人事のように捉えて淡々としている彼を、そのままにしておくことなどできなかった。
「サラ嬢、謝らないで。こちらを向いてください」
頭を下げ続ける私の肩に触れながら、エルヴィス殿下がそう促す。
その柔らかな声色から、エルヴィス殿下が怒っていないことを感じ取り、私は止めていた息をゆっくりと吐き出した。
顔を上げると、エルヴィス殿下が感情の読めない表情をしていた。
しかしその耳は、ほんのりと赤く色付いている。
「ありがとう」
そう言って向けられたエルヴィス様の笑顔は、今まで見た中で一番下手くそな笑顔だった。