【書籍化記念SS】なんでもない日
本日から、本作を改題&改稿しました『逆ハーエンドに興味はないので、本づくりに励んでいたところ、死ぬはずの王子に溺愛されました』が、ミーティアノベルス様より電子書籍で配信されています!
今回電子書籍化することができたのも、本作をお読みくださり、応援してくださった皆様のおかげです。本当にありがとうございます!
詳細については活動報告に記載しておりますので、ご覧いただければ嬉しいです。
その日は、朝から少し違和感があった。
二ヶ月前に結婚し、共に暮らしているサラは、その日も変わらず愛らしかった。
見送りに来たサラから「帰りは何時くらいになりそう?」と聞かれるのは毎日のことであるし、「それほど遅くはならないと思うよ」という私の返事を聞いてぱあっと顔を輝かせるサラの顔を見て、後ろ髪を引かれる思いで屋敷を出るのもいつも通りのこと。
しかし周囲の人間から早く帰るよう促されることなど、サラと結婚して以来初めてのことで、私は内心で首を傾げる。
我が家に仕える執事長が、職場に向かう私に「なるべく早くお帰りください」と真剣な表情で言ってきたのみならず、部下からは職場に着くなり「今日は早くお帰りになれるよう、急ぎの案件のみまとめておきました」という言葉で迎えられた。
普段とは異なる彼らの様子に、何かあっただろうかと頭の中でスケジュールを確認するが、これといった予定はない。
ならば、ここ最近帰宅が遅くなってしまっている私に対して、たまたま同じタイミングで似たような進言をする者がいただけに違いないと、その時は自分を無理矢理に納得させることにした。
しかし、常とは違う動きを見せたのは彼らだけではなかった。
「朝早くに失礼いたします。こちら、本日エルヴィス閣下にご確認いただきたい資料です」
そう言いながら私の執務室に訪れたのは、スコット騎士団長だった。
騎士団は午前中に演習を行う都合から、いつもは夕方にならないと顔を見せない騎士団長が、朝一番に私の元に訪れることなど今まで一度もなかったことで、私はひそかに身構える。
けれども、早期解決が求められるような案件なのかと思って目を通した書類は、これといって緊急性が高い訳でもなければ、とりわけ重要な内容でもない。
「今日は随分と早くにお越しなんですね。演習は休みなのですか?」
思わず私がそう尋ねると、騎士団長からは「いえ、少し抜けて参りました」という答えが返ってきた。
実践を重視し、騎士達の指導に力を入れている彼が、理由もなく演習を抜けてくるとは思えず、頭の中に疑問符が浮かぶ。
「……いいのですか? 急ぎの案件には思えないのですが」
しかし私がそう尋ねると、スコット騎士団長は満面の笑みを浮かべてこう言ったのだ。
「私のせいでエルヴィス閣下のご帰宅の時間を遅らせる訳にはいきませんから」
◇◇◇
「モーガン宰相。今日は、何か特別な日なのでしょうか?」
朝から感じていた違和感について、さすがにこれ以上自分を誤魔化し続けることはできないと、目の前のモーガン宰相問い掛ける。
私からの突然の質問に、モーガン宰相は僅かに目を見張るが、実は彼からも、つい先程「エルヴィス閣下は本日早くにご帰宅されるでしょうから」と言われたばかりなのだ。
「……と、おっしゃいますと?」
「皆にやたらと早い帰宅を勧められるのです。けれど、その理由に心当たりがないもので」
素直にそう伝えると、モーガン宰相は「ふむ……」と呟いた後で、何かを考えるような素振りをした。
「サラ様は、何かおっしゃっていましたか?」
「いえ。いつも通り帰宅時間を聞かれただけです」
なぜここでサラの名前が出てくるのかと疑問に思ったものの、彼女だけは普段通りに可憐な私の妻だった。
モーガン宰相にもそう答えたところ、彼は悪戯げに片側の口角を上げると、「左様ですか。サラ様が何もおっしゃっていないのであれば、私からは何も言えませんね」と言い放った。
ちなみに今日は私も早く帰宅します、と続けられた言葉に、私はいよいよ混乱するしかない。
当然ながら、今日は私の誕生日でもサラの誕生日でもない。念のために、サラの両親であるベネット子爵夫妻の誕生日も調べたが、違った。国を挙げての祭日となる私の両親……つまりは国王夫妻の誕生日も、まだまだ先のことだ。
二ヶ月前に結婚したばかりの私達の結婚記念日であるはずもなく、その他サラとの細々とした記念日を思い返してみても、そのどれもが今日ではない。
……ならば今日は、一体なんの日だというのだ。
頭を抱える私を意味ありげな表情で見つめているモーガン宰相は、おそらく答えを教えてはくれないだろう。
「……私は、何を忘れているのだろう。念のため、何かプレゼントを用意しておくべきでしょうか?」
せめてヒントでも聞き出せないだろうかとそう尋ねてみるが、モーガン宰相から手掛かりになりそうな言葉を引き出すことはできなかった。
「必要ないと思いますよ。今日は早めに、そして元気なお姿で帰られるだけで十分かと」
そう言ってに微笑むモーガン宰相は、いつも通りポーカーフェイスを崩すことはなかったが、長年付き合いのある私の目から見ると、どことなく瞳に優しげな色を浮かべているように感じられたのだった。
◇◇◇
「おかえりなさい! まさかこんなに早くに帰って来られるとは思っていませんでした」
まだ外も明るい時間に帰宅した私を、サラはそんな言葉で出迎えた。
ほんのりと頬を上気させながら、花が綻ぶかのように笑う彼女を目にするだけで、一日の仕事の疲れが吹き飛ぶようだ。
私が帰宅するだけで、こうして全身で喜びをあらわにする人間がいるということが、そしてそれが最愛の女性であるということが、幸福すぎていまだに夢を見ているような心地すらする。
「少し早いですが、夕飯を準備してもいいですか? 食べられそうですか?」
「ああ。昼食は軽めに済ませたから、すっかり空腹だよ」
私の返事を聞いて、サラはぱあっと顔を輝かせると、「では、私はキッチンに声を掛けてきます!」と言った。
「エルヴィス様はお着替えが済まれたら、ダイニングに来てください。先に行って待っていますね!」
サラの言葉に従って、ゆったりとした服装に着替えた私がダイニングへと足を踏み入れると、テーブルの上にずらりと並んだごちそうが目に飛び込んできた。
元々倹約家なサラは、公爵夫人となってからも変わらず、なんでもない日に贅沢をするようなタイプではない。
しかし今テーブルに並んでいる料理は、二人で食べ切るのは難しいだろうと思われるような量であり、食材もいつもより良い物が使われていることが見て取れる。
そんな料理を目の前にして、「私も少しお手伝いしたの」と頬を染めてはにかむサラは可愛らしく、本来ならばすぐにでも抱きしめたい衝動をぐっと堪えるのに苦労することだろう。
けれども今日に限っては、背中に冷たい汗が伝うのを感じる。
本当に、今日は一体なんの日なんだ!?
目の前で幸福そうに微笑むサラの表情を、曇らせるようなことはしたくない。しかし、そんな彼女に対して当たり障りのない対応をするのも、違うような気がする。
そう考えた私は、心の中で覚悟を決める。
「……サラ、すまない」
そう言って頭を下げる私の頭上で、サラが「え!?」という困惑の声を上げるのが聞こえる。
「どうしたのですか!? 頭を上げてください!」
サラに促されて顔を上げると、慌てた様子のサラと目が合った。
「今日は何か特別な日だっただろうか? 私は、サラとの思い出を何か忘れてしまっているのだろうか?」
その声は、切迫詰まった自身の気持ちがそのまま現れたような色を帯びており、傍から見るとおそらくみっともなく感じられるだろう。
しかし、そんなことはどうでもよい。サラの前では格好をつけていたいという気持ちもあるけれど、それよりもサラに対して誠実でいたいという思いが優っている今、他者からの視線を気にして行動を変えるという選択肢はない。
「サラの怒りを受け止めるだけの覚悟はあるから、遠慮なく言ってくれて構わない。ただ言っておきたいのは、サラへの愛情が薄れたという訳ではないんだよ。言い訳だと思われるかもしれないけれど、どうかそれだけは信じてほしい」
私からサラへの変わらぬ想いが伝わるようにと、彼女の両手を自身の両手で包み込みながらそう言うと、サラはぽかんとした表情を浮かべた後、すぐに「ふふふ」と優しげに笑って「エルヴィス様からの愛情を疑うことなどありませんよ」と答えた。
その言葉は真っ直ぐで、私を気遣っているようにも、無理をしているようにも感じられない。
「では、どうして? 今日は一体なんの日なんだい?」
私のその質問に対して、サラはもう一度笑い声を溢すと、「今日は私にとっては大切な日なんです」と言った。そのまま彼女が私に抱きついてくるものだから、香水とは違う彼女の香りがふわりと漂ってくる。
「でも、特別な日ではありません。私は、今日が特別な日でないことが、とっても嬉しいんです」
「……どういうこと?」
「今日は、あの崖崩れが発生した日なんですよ」
サラはそう言うと、私の背中に腕を回したまま顔だけを上げ、にっこりと微笑んだ。
「もしもあの日、第一王子であるエルヴィス様が崖崩れに巻き込まれていたら、今日は国民にとって忘れられない特別な日になっていたでしょう? もちろん、悪い意味で。だから、今日が特別な日ではないことを、私は心から嬉しく思っているんです」
サラのその言葉を聞いて、モーガン宰相やスコット騎士団長が今日という日を特別視していたことに、ようやく合点がいく。
モーガン宰相と、そしてスコット騎士団長の息子であるアレクシスも、数年前の今日を生き延びた人物なのだから。
そんなことを考える私の腕の中で、サラが「崖崩れが起こった日をお祝いするのもあれなのですが」と呟くように言葉を発する。
「私にとっては、エルヴィス様が難を逃れた大切な日なので。『生きていてくれてありがとう』の気持ちを込めた、ささやかなお祝いです」
おそらく、照れているのだろう。俯いた状態のサラが今どんな顔をしているのかを、私の位置から見ることはできない。
けれども、蜂蜜色の髪から覗く小さな耳が真っ赤に染まっているのを見て、愛おしさと共に悪戯心が顔を出す。
まるで誘われるように、私は熱を孕んだサラの耳に顔を寄せる。そのままいつもより少し低い声で「なるほど」と呟いてみたところ、サラの肩がびくりと震えるのがわかった。
「あの崖崩れが今日だというのなら、今日は私にとっても大切な日だよ」
私の言葉を聞いて、サラが不思議そうな表情を浮かべてこちらに顔を向ける。
彼女の耳だけではなく頬までもが、じんわりと赤らんでいることに気がついて、あの日あの時と同じような高揚感が湧き上がる。
「私はあの日、初めて恋に落ちたんだからね」
そう言いながら覗き込んだサラのピンク色の瞳は、僅かに潤んでいるように思われた。そしてそこには、蕩けそうな笑みを浮かべる自分の姿が映っているのだった。