物語は収束へ
もうすぐ春がやってくる。
冬の終わりを告げる暖かな陽射しを受けながら、エルヴィス様とのお茶の時間を満喫していると、どこかからジンチョウゲの甘い香りが漂ってくるのを感じた。
「あの後、ハロルド殿下とアイリーン様はどうなったのですか?」
アイリーン様が思いを告げた後、その場は沈黙のままに解散することとなった。
その後を知りたいと思うものの、二人に直接尋ねることもできずにモヤモヤしていたのだ。
私の言葉に、エルヴィス様はカップに口をつけたまま微笑んだ。
「ああ、上手くいっているみたいだよ」
エルヴィス様がそう言うのを聞いて、私は自身の身体の力が抜けたのに気がついた。
“二人のことだから口出しすべきじゃない”とは思っていたものの、やはり円満に解決したことは嬉しい。
「もとより、二人はお互いを思い合っていたんだ。それが相手に伝わっていなかっただけで」
エルヴィス様はなんでもないことのようにそう言うけれど、自分の思いを相手に伝えることほど難しいものはない。
自分の本心を伝えることも、相手の本心を聞くことも、それらはとても勇気がいることなのだ。
相手が大切な人であればあるほどに。
本当に、アイリーン様の思いがきちんと届いてよかった。
『カガヒメ』の逆ハーレムルートで、【王太子:ハロルド・ヘイワード】が主人公を選んだことを知っているからこそ、余計にそう思うのだろう。
「サラ、顔が緩んでいるよ」
おかしそうにそう指摘するエルヴィス様に、私はにっこりと笑みを返す。
「嬉しいですから、仕方がないです」
私のその言葉を聞いて、エルヴィス様は目を見開く。
「アイリーン様が、見事ハロルド殿下を攻略なさったことが」
私が冗談めかしてそう言うと、エルヴィス様は愉快そうに笑った。
「ハロルドは、父上にたいそう叱られていたよ。まあ、王太子であるにもかかわらず、あれほど感情的に動いて周囲を混乱させたのだからね」
エルヴィス様はひとしきり笑った後でそう言った。
まあ、当然の結果だろう。
ハロルド殿下が大々的に行動していたら、国王からの叱責だけでは済まなかったはずだ。
彼の暴走を早めに止めることができて本当に良かった。
私がいまさらながらに安堵していると、ふいにエルヴィス様が立ち上がった。
彼はそのままこちらに向かってくると、私が座るソファーに横並びで腰掛ける。
「アイリーンを私の婚約者にすると聞いて、サラはどう思った?」
エルヴィス様の唇が耳に触れてしまいそうなほどの至近距離でそう囁かれて、私は思わず固まってしまう。
しかしエルヴィス様は、そんな私の反応を気にも留めていないように言葉を続ける。
「私はその話を聞いて、腸が煮え繰り返る気がしたよ」
エルヴィス様はそう言って、私の髪を一筋掬った。
彼がそれに口づけを落とすのを、私は今度こそ素直に受け入れる。
「アイリーンが嫌なのではない、サラがいいんだ」
掠れた声でそう呟くエルヴィス様は、今にも泣きだしそうな顔をしていた。
思わずエルヴィス様の髪を撫でた私に、エルヴィス様が真剣な表情を向ける。
「ねえ、サラ? 以前私が『なんとしてでも好きになってもらう』と言ったことを覚えているかい?」
そう問われて、私は間髪入れずに頷く。
第一王子からの愛の告白を、忘れることなどできるわけがないだろう。
私のその反応を見て、エルヴィス様は口の端を僅かに引き上げた。
「私は第一王子だから、権力も人脈もある。『娯楽のための本を作る』という君の願いを叶えるために己の力を存分に発揮することで、君の気を引こうと考えていたんだよ」
そう言うエルヴィス様は、まるで悪戯が見つかった子どものような表情をしている。
「けれども君は、自分の力で道を切り開いていった。歌劇本も文学部も絵本も、自らの力でそれらを作り出していった。そんな君のことを、私の方がますます好きになってしまったよ」
エルヴィス様が本心からそう言っていることはわかっている。
けれども私は、その言葉に気持ちが沈むのを感じた。
「…私の力など微々たるものです。周囲の人々の協力がなければ、決して成しえなかったでしょう」
意を決して口を開くけれども、その声は想像以上に掠れていた。
だってそうだろう。
歌劇本はクラーク侯爵家とモーガン侯爵家の財力と権力が、文学部はレベッカ先生と部員の存在が、そして絵本はローナの絵心が、それらがなければ完成していないのだ。
エルヴィス様が評価してくれている功績は、私のものではない。
周囲の人々の協力すら、ヒロインとしてのスキルである【庇護欲扇動】能力のおかげで得られたもの。
それを思うと、不正を働いているような気持ちになってしまう。
「頼りない私を、皆様が助けてくださったからできたことなのです」
私がそう言うと、エルヴィス様が私の両肩を強く掴んだ。
真正面から見るエルヴィス様の表情は、怒りを含んでいるようにも見える。
「サラは何か思い違いをしているようだ。君のことを頼りないと思っている人間など、いないのではないだろうか?」
エルヴィス様のその言葉は、私に衝撃を与えた。
「君は自分の功績を“目に見えない何か”のおかげだと思い込んでいる節がある。けれども、協力したいと思われるのも、サラの力の一つなんだ」
私の瞳を覗き込みながらそう言うエルヴィス様の目は、とても力強かった。
「皆が協力を申し出るのは、君が頼りないからではない。ひたむきに努力する君の姿勢に感銘を受けたからなんだ」
エルヴィス様のその言葉に、私の中の固定観念が覆されるのを感じた。
「この世界はゲームではない」と言いながらも、私はヒロインとしてのチート能力を有していると信じて疑わなかった。
けれども、そうじゃなかったら。
そう考えるだけで、全身が泡立つのを感じる。
「私はサラのことを、心から尊敬しているよ」
エルヴィス様のその言葉は、私に自信の種を与えてくれた。
私はよほど強張った顔をしていたのだろう。
エルヴィス様は私の頬を親指で優しく撫でると、目元を緩めてこう言った。
「実は私は、ハロルドがサラに求婚したことをまだ許していない」
軽い口調で告げられたその言葉が、エルヴィス様の本音であることはわかっている。
「ハロルド殿下は私に好意など抱いていらっしゃいませんよ?」
そう言う私の声など、彼の耳には届いていないようだった。
「もっと言うと、君と研究室で二人きりで話したローレンス博士も、君のことを泣かせたダグラス君も、私より先に君と出掛けたレナード君も、みんな許していない」
一年近くも前の話を蒸し返すエルヴィス様に、私は思わず笑ってしまった。
「愛が重いです」
とても重い。
けれども、その重さを心地よく思ってしまっている私がいる。
「こんな私は嫌かい?」
「嫌じゃないですよ」
「じゃあ、好きかい?」
「…その聞き方は、ずるいです」
私のその返事を聞いて、エルヴィス様は満足気な顔をした。
そしてそのまま、おもむろに私の前に跪いた。
「公爵夫人という地位が、君にとって荷が重いものだということはわかっている。けれども私は、君にその責任を丸投げする気など全くない」
そう言うエルヴィス様は、物語に出てくる王子様のようだけれど、私の右手に添えられた彼の手は小刻みに震えていた。
そのことに気づいて、私は彼を抱きしめたい気持ちになる。
「これは命令ではなくて提案だ。だから、君には断る権利がある」
そう言ってエルヴィス様は、私の掌に口づけを落とした。
長く祈るような口づけを終えてようやく顔を上げたエルヴィス様の手は、もう震えてはいなかった。
「サラ、私の婚約者になってはもらえないだろうか?」
エルヴィス様から聞く二度目のその言葉に、私は頬に涙が伝うのを感じた。
「はい」
私がそう答えると、エルヴィス様は強く私のことを抱き締めた。
耳元で聞こえる彼の鼓動は、全力疾走をしたかのような早さだった。
「もう一度聞くよ。私のこと、好きかい?」
そう聞きながら私を見据えるエルヴィス様の瞳が潤んでいるのを見て、彼への愛しさが湧き上がる。
「…好きです。心の底から」
私のその言葉を聞いたエルヴィス様は、今まで見た中で一番素敵な笑みを浮かべた。