訪れなかった未来④ ※ハロルド視点
「娘が塞ぎ込んでいるから会ってやってほしい」と、ペレス侯爵に依頼されてやって来た私が耳にしたのは、異母兄の名を呼びながら涙する婚約者の声だった。
「エルヴィス様…エルヴィス様…」
部屋の中から聞こえるそのすすり泣く声に、全身の血液が凍ったかのような錯覚に陥る。
あの事故から半年以上経過しているというのに、彼女の悲しみが全く癒えていないということが、悲痛なその声からわかった。
最初のうちは、彼女の悲しみももっともだと思っていた。
初めて経験する親しい者との死別に気持ちの整理がつかないのだろうと、そう思っていた。
しかしいつの頃からか、私の中で違和感が生まれた。
婚約者の異母兄との死別が、半年以上にわたって日常生活に支障をきたすほどの衝撃を与えるのだろうか。
もちろん私も、兄の死による喪失感はいまだに抱えている。
悲しみの感じ方は人それぞれなのだから、その気持ちを疑うべきではない。
そう自分に言い聞かせながら、日々を送っていた。
事故の直後は、国内もかなり混乱した。
第一王子や宰相、その他多くの人間が急にいなくなってしまったのだから当然のことだろう。
けれども時の流れというのは残酷で、今ではもう“第一王子がいない状態”が通常になりつつある。
私は王太子になり、兄の死を悲しんでいる余裕もないほどに政務に忙殺される日々が続いた。
そんな中、国を挙げての慰霊祭が開催された。
兄が亡くなったあの事故の日からちょうど一年の、よく晴れた日だった。
私の婚約者として出席したアイリーンを見て、私は心の中で安堵したことを覚えている。
久しぶりに顔を合わせた彼女は、王太子の婚約者としての務めを全うした。
ようやく彼女も兄の死を受け入れられたのだと、そう思っていた。
しかし、彼女は式典の最中に過呼吸になって運ばれた。
一年が経過してもなお、彼女が兄の死から立ち直れていないというその事実に直面し、私は全身に冷水を浴びせられたかのような心地がした。
そして、王立学園への入学式前夜。
偶然兄の部屋の前を通りかかった私が目にしたのは、部屋の中でうずくまるアイリーンの姿だった。
「エルヴィス様、ごめんなさい…。こんなことなら…」
部屋の真ん中で泣きじゃくる彼女は、後悔の言葉を口にしていた。
その時になって、ようやく私の頭の中に一つの仮説が思い浮かんだ。
アイリーンは兄上を愛していたのではないか、と。
「こんなことなら」、どうしたというのか。
その先に続いたかもしれない彼女の言葉を考えるだけで、胃酸が逆流するのを感じた。
その日から私は、それまでなら聞き流せていた噂話に翻弄されることとなった。
「エルヴィス殿下が生きていれば、王太子の座につくのは彼だっただろう」
「アイリーン様は、故エルヴィス殿下のことをとても慕っていらっしゃったようだ」
誰が言い出したかもわからない、根拠もないような噂だったけれど、私はそれを真実だと思い込むようになった。
あの事故から二年が経ち、その頃にはアイリーンが私を避けているのにも気がついていた。
国の安寧のためにも、アイリーンとの仲を修正せねばならないことはわかっている。
けれども、私は彼女にどんな言葉をかけるべきなのか。
二度と会えない愛しい人の異母弟と結婚せざるを得ない彼女が、不憫で仕方がなかった。
そのようにアイリーンとの関係に悩みながら過ごす中で、私はある少女と親しくなった。
サラ・ベネット。
私と同じクラスの、子爵家の子女だった。
美しい容姿をしているものの、これと言った特徴がある子ではない。
学園内でなければ接点を持つことすらなかったであろう彼女になぜ目が留まったのか、今考えてもわからない。
しかし“彼女は特別なのだ”と、強くそう思ったことは覚えている。
彼女は多くの人間を惹きつける子だった。
高位貴族の令息や担任教師までもが彼女に好意を寄せているのは、傍から見ても明らかだった。
しかしその一方で、彼女の貴族らしからぬ言動を快く思っていない人間がいることもわかっていた。
「子爵家の人間が、必死に王太子に取り入ろうとしている」
私が彼女と仲良くなるにつれ、そのような言葉を耳にするようになった。
そんなはずがないとわかっていたにもかかわらず、彼女に対して酷い言葉を投げかけてしまったのは、ただひたすらに私が弱かったからだ。
「私は王太子だけれども、親しくなったからといって君にメリットはないよ」
その言葉を発してすぐに、私は自分自身を呪った。
しかし彼女は私のその言葉に泣くことも怒ることもなく、私の目を正面から覗き込んだ。
『…どうしてそのようなことをおっしゃるのですか?』
彼女のその言葉は、ただの質問だったのかもしれない。
けれども、彼女のその澄んだ瞳は私の弱さを見透かしているように思われた。
何も答えられずに黙り込む私に、彼女は言葉を続けた。
『私のことを見てください。人々の噂ではなく、ここにいる私を』
そう言って私の手に触れた彼女の右手は、ひんやりと冷たかった。
『ハロルド様が不安に思われるのであれば、何度でも言葉にして伝えましょう。私は“王太子”ではなく、“ハロルド・ヘイワード”と仲良くしているつもりです』
にっこりと微笑みながら告げられたその言葉は、私に大きな衝撃を与えた。
彼女のその言葉を聞いて、全てがどうでもよくなってしまった。
…サラと共に生きたい。
無責任な噂など耳に入らない場所で、彼女の言葉だけを聞いて過ごしたい。
彼女となら、真に愛し愛される関係を築くことができるかもしれない。
今の婚約を解消したら、アイリーンはどうなってしまうのだろうか。
愛する男の異母弟と結婚するよりは、遥かにマシな人生を送れるのではなかろうか。
王太子が職務を放棄したら、この国はどうなってしまうのだろうか。
兄がいなくなった時と同様に、私がいなくなってもなんとかなるのではなかろうか。
私の行動を「王太子として自覚に欠けた行いだ」と、周囲はそう非難するのだろう。
けれども、無責任な噂によって先に私を追い詰めたのは“周囲”なのだ。
どうして私が周囲を気にしなくてはならないのか。
ああ、あの時兄が死んでいなければ。
そうすれば、私達の未来はもう少し明るかったかもしれない。
40話を超えてしまいました、すみません。
残り2話の予定です。