王太子:ハロルド・ヘイワード⑤
重い沈黙を破ったのはアイリーン様だった。
「…どうしてそのように思われたのでしょう?」
表情一つ変えずに言葉を発する彼女からは、ハロルド殿下の発言に何を思ったのかが読み取れない。
怒りも悲しみもまるで感じられないその言葉は、ただ事実を明らかにするために発せられたもののように思われた。
アイリーン様の問いかけを受けて、ハロルド殿下が口を開く。
「はじめは些細なことだった。二年前の崖崩れの際、王城に戻って来た兄上に対して『無事でよかった』と言った君は、その目に涙を浮かべていた」
以前アイリーン様から、あの日崖崩れが発生したあの道をエルヴィス様が通る予定だったのは、彼女の提案があったからだと聞いた。
おそらく、エルヴィス様の無事を確認するまでは、自分のせいで彼の身に危険が及ぶことになったのだと、自責の念に駆られていたに違いない。
いくらアイリーン様であっても、そんな状況でエルヴィス様の無事を知り、思わず感情が高ぶってしまったのだろう。
けれども、ハロルド殿下はそのことを知らない。
普段感情を顕わにしないアイリーン様だからこそ、その時の彼女の様子がハロルド殿下に衝撃を与えたことは容易に想像がつく。
「そのうちに、君が兄上に思いを寄せているという噂が流れるようになった。君はその噂を肯定することもなかったが、否定もしなかった」
これについても、アイリーン様に聞いたことがある。
入学式初日にアイリーン様に声を掛けられた際、クラスが異様な雰囲気に包まれていたのは、その噂が原因だったらしい。
“エルヴィス殿下の恋人に、アイリーン様が宣戦布告をしている”と見られていたのだろうと、アイリーン様は私に言った。
否定しないのかと尋ねた私に、「よけいに拗れるだけですから」と返したアイリーン様の言葉は、少し寂し気に感じられた。
そんなことを思い出していた私の耳に入ってきたのは、平坦なアイリーン様の声だった。
「…左様でございますか。もし私達の婚約解消について国王陛下が認めていらっしゃるのならば、私はその決定に従うまでです」
それは、私がアイリーン様にハロルド殿下の言動を伝えた時に返ってきたものと、同じ言葉だった。
「ハロルド様と私の婚約解消について、国王陛下が認めていらっしゃるのであれば、私はその決定に従うまでです」
ハロルド殿下との話し合いの場についてきてほしいと頼みに行った際、アイリーン様はそう言った。
エルヴィス様を王太子にするためならばアイリーン様との婚約解消もやむを得ない、とハロルド様が考えている可能性があると伝えた時だった。
「私には逆らう理由がありません」と、アイリーン様は続けた。
なんでもないように言い切るアイリーン様に、感情的になってしまったのは私の方だった。
「アイリーン様は、それで良いのですか?」
悲鳴にも近いその言葉は、完全なる八つ当たりだった。
しかし、アイリーン様は私のそのような態度を咎めることはなかった。
「良い、悪い、の話ではありません。国にとって最善だと考えられた結果なのであれば、私は侯爵家の子女としてその決定に従う義務があります」
そう言うアイリーン様は、お茶会で「ハロルド様をお慕いしている」と言っていた人物だとは思えなかった。
おそらくこの反応は、アイリーン様の長年の王太子妃教育の賜物なのだろう。
いついかなる状況においても、心を乱されることなく、相手に感情を悟られてはならない。
そういう教育が施されてきたと、アイリーン様本人が言っていたのだから。
けれども私は、王太子妃であるアイリーン様と話をしに来たのではない。
「…私は今日、クラスメイトであるハロルド・ヘイワードに会いに行きます。その場に、アイリーン様も来ていただきたいのです。ペレス侯爵家の御令嬢としてではなく、“アイリーン様”として」
彼女の人生なのだから、部外者である私があまり首を突っ込んではいけないと思う。
けれどもどうしても、これだけは伝えておきたい。
「“どうするべきか”ではなく、“どうしたいか”を、お伝えいただけないでしょうか?」
そう言う私の顔を、アイリーン様は感情の読めない表情でじっと見つめていた。
そう、あの時と同じ言葉。
「私は侯爵家の子女として、この国をより良く導くための国王の決定に、従う義務がありますから」
そう言うアイリーン様からは、王太子妃としての矜持が感じられた。
しかしハロルド殿下が言葉を発する前に、再びアイリーン様が口を開く。
「ですが、この婚約解消の申し出について、私から申しあげたいことがごさいます」
そう告げる彼女の表情に変化はないけれど、その言葉は僅かに怒気を孕んでいるように思われた。
アイリーン様はそこで深く息を吸い、ハロルド殿下の目を正面から見据える。
「さきほどからハロルド様は、王太子としてではなく“ハロルド・ヘイワード”個人としてお話しされているように思います。ですから私も王太子妃としてではなく、“アイリーン・ペレス”としてお伝えさせていただきます」
常とは違うアイリーン様の雰囲気に、ハロルド殿下が息を呑むのがわかった。
「確かに、ハロルド様の婚約者に内定してから、私の人生はガラリと変わりました。時には辛い思いもしました」
勝手に期待され、勝手に失望され、常に一挙手一投足にまで注目される生活の過酷さは、経験したことのない者には想像もつかない。
アイリーン様の言葉にハロルド殿下が眉を下げたのは、彼自身がその息苦しさを身をもって知っているからだろう。
「私が“王太子妃”そして未来の“王妃”になることを目標としていたのならば、途中で投げ出してしまっていたかもしれません」
アイリーン様はそこで言葉を区切ると、決意に満ちた目をハロルド殿下に向けた。
「ですが、私の目標は“ハロルド様の妻”になることです。あなたに相応しくあろうと、今日まで頑張ってきたのです」
その目は、うっすらと涙の膜で覆われているように見えた。
「私のことを見てください。人々の噂ではなく、ここにいる私を」
…初めて、王太子妃ではないアイリーン様を見た気がした。
唇を噛みしめて涙をこらえるアイリーン様は、私と同じ十五歳の少女だった。
ハロルド殿下も、私と同じように思ったのだろう。
大きく見開かれたその瞳には、驚愕の色が浮かんでいる。
そんなハロルド殿下に言い聞かせるように、アイリーン様はさらに言葉を重ねる。
「私がわかりにくい人間であることは、十分に理解しております。ですから、何度でも言葉にして伝えましょう。私はハロルド様のことだけを、ずっとお慕いしております」
そう告げたアイリーン様の瞳から、大粒の涙が一滴零れ落ちた。
「ハロルド様の想像の中の私を見て、判断をしないでください。ここにいる私が、本当の私なのです」
アイリーン様のその言葉に、誰も何も言い返すことができなかった。
空気の音が聞こえそうなほどに静まり返った部屋の中で、時計の秒針の音だけが響き渡っていた。