王太子:ハロルド・ヘイワード③
「エルヴィス様、お話があります」
そう言いに第三学年の教室に乗り込んだ私は、自分のクラスでの注目とは比にならないほどの視線を集めた。
「サラがわざわざ会いに来てくれるなんて、とても嬉しいよ」
エルヴィス様は周囲の視線など全く気にする様子もなく、いつものように振る舞うけれど、彼が私の髪に口づけを落とした時、声にならない悲鳴がクラス中から聞こえた気がした。
エルヴィス様の行動を目にして呆気にとられる私とは対照的に、エルヴィス様はあくまでもいつも通りだ。
「それで、一体なんの話だい?」
エルヴィス様にそう聞かれるけれど、みんなに注目されながら話すようなことではない。
たとえ誰に聞かれても良い雑談であったとしても、この空気の中話し始めることができる人間などいるのだろうか。
「できれば、他の人がいない所で話したいのですが…」
私がそう言うと、エルヴィス様はぱっと顔を輝かせる。
「二人きりでかい?」
周囲が色めき立つような表現を、どうしてわざと使うのか。
「もうっ! そういうのはいいんです! 行きますよ!」
そう言って生徒会室へと向かう私の後ろで、エルヴィス様は嬉しそうにしていた。
授業が終わってすぐに来たからか、生徒会室には誰もいなかった。
ダグラスには言っておいたので、彼がレイチェル様のことも引き止めてくれているのかもしれない。
私が生徒会室を施錠するガチャリという音を聞いて、エルヴィス様は少し驚いた顔をした。
「お茶を用意しましょうか? レイチェル様のように上手くは淹れられませんけど」
私達二人しかいない生徒会室は、息遣いが聞こえてしまいそうなくらいに静まり返っている。
「お願いしようかな」
そう言うエルヴィス様はとても優しい声をしているが、これからする話のことを思うと緊張して彼の顔も見れない。
考えごとをしながら淹れたお茶は、ダグラスのことを馬鹿にできないくらいに渋かった。
「無理して飲まなくてもいいですよ」と言ったのに、エルヴィス様は「サラが淹れてくれたお茶だからね」と、笑顔でカップに口をつける。
いつも通りの美しい笑顔で渋いお茶を飲み下すエルヴィス様を見て、胸が締めつけられる思いがする。
私と一緒にいるために、この人は笑顔の裏で苦渋の選択を強いられてきたのかもしれない。
聞くのが怖い。
しかし、このまま黙っているわけにもいかない。
「昨日、ハロルド殿下とお話をしました」
そう言った私の声は、思っていた以上に震えていた。
エルヴィス様がそのことに気がつかないはずがない。
「へえ、ハロルドと? どんな話をしたんだい?」
けれども、彼はそこには触れずに私の話の先を促した。
「…ハロルド殿下の婚約者にならないかと、お誘いを受けました」
がちゃり、と、エルヴィス様がカップをソーサーに置いた音が響いた。
「ごめん、続けて?」
なんでもないようにそう言ったエルヴィス様の視線が泳いでいるのを、私は見逃さなかった。
「ハロルド殿下が本気で私を婚約者にしたいとお考えだとは思っておりません。実際、殿下は私を『邪魔だ』とおっしゃいました」
私の話を聞いて、エルヴィス様が顔を顰める。
「…なぜハロルドがそのようなことを言い出したのか、正直なところ全くわからない。けれども、君には不快な思いをさせてしまったね」
ごめんね、と言うエルヴィス様は、とても辛そうな顔をしていた。
そんなエルヴィス様に安心してほしくて、私は首を振って彼に微笑みかける。
「いいえ、驚きましたけれど大丈夫です。話を続けてもいいでしょうか?」
エルヴィス様にとって、あまり聞きたい話ではないかもしれない。
しかし彼は「もちろんだ」と言って、口を固く引き結んだ。
「ハロルド殿下は私と婚約することよりも、アイリーン様との婚約を解消することを望まれているのかもしれません。エルヴィス様がアイリーン様と婚約を結べるように」
私のその言葉に、エルヴィス様が小さく「まさか」と呟いた。
「ハロルド殿下は、王太子妃として十分に教育を受けているアイリーン様も含めて、ご自身の地位をエルヴィス様に譲りたいとお考えなのではないかと、そう思ったのです」
私がそう言うと、エルヴィス様は俯いて自身の両手で顔を覆った。
それから、どれくらいの時間が経っただろうか。
思い返すと、このように負の感情を露わにするエルヴィス様を目にしたのは初めてだ。
時計の秒針の音が響く部屋の中で、私はエルヴィス様に話をしたことを後悔し始めていた。
「ありがとう」
不意に顔を上げたかと思うと、エルヴィス様はそう言った。
「何が、でしょうか?」
何に対してお礼を言われたのか、全くもって見当もつかない。
「話をしてくれて。言いづらいことだっただろう? 教えてくれてありがとう」
これで対策が立てられるよ、と言って力無く笑うエルヴィス様を見て、私は自身の瞳が潤むのを感じた。
本当なら、ここで話を終えるべきなのだろう。
これ以上は、余計に彼を傷つけることになるかもしれない。
けれども、弱い私はエルヴィス様に甘えてしまう。
辛い思いをさせることになったとしても、真実を教えてほしい。
「実はこの件に関して、先にダグラスに相談したのです。その中で、エルヴィス様ではなくハロルド殿下が王太子に選ばれた理由を知りました」
私のその言葉に、エルヴィス様が再び固まった。
「私が子爵家の子女だから、と」
自分で言い出したことなのだ、ここで泣くわけにはいかない。
そう思った私は、強く唇を噛み締める。
「私は、エルヴィス様の人生の邪魔をしているのでしょうか?」
私がそう言い切るのとほぼ同時に、エルヴィス様が弾かれたように立ち上がった。
そのまま私のすぐ横に腰掛けたエルヴィス様は、私の両手を自身の手で包み込む。
「そんなことはない。信じてほしい」
至近距離で見る彼の瞳には、強い光が宿っていた。
「酷いことを言うようだけれど、私はサラを利用させてもらったんだ」
思い出話でもするかような声色で、エルヴィス様が口を開く。
「私は最初から、王太子にはハロルドがなるべきだと思っていた。私のことを実の子のように育ててくれた王妃にとっても、その方が良いと考えたんだ」
エルヴィス様はそう言いながらも、どこか遠くを見ているようだ。
「王妃自身が私を王太子に推していようとも、王妃の生家はそれを望んではいないことを、子どもながらに感じていたからね」
そう言って微笑むエルヴィス様は、どこか寂しそうだった。
「もちろん、サラへの気持ちは本当だよ。けれど、水面下で動けば良いにもかかわらず、サラに対する私の気持ちを公にしていたのは、そういう理由もあったんだ。現行の王室法では、子爵家の人間は王妃にはなれないからね。巻き込んでしまってごめんね」
眉を下げながらそう謝るエルヴィス様に、私は首を横に振る。
私はもう、二年以上もエルヴィス様と共に過ごしている。
その中で伝えられてきた言葉が、行動が、偽りのものだとは思わない。
「巻き込まれただなんて、思っていません」
なぜ私に思いを寄せていることを、おおっぴらにしているのだろうとは思っていた。
子爵家の子女である私との婚約を望んでいると周囲に知らしめることで、ハロルド殿下に確実に王太子の座を譲ろうという魂胆だったのか。
「私がお役に立てたのであればよかったです。今までのエルヴィス様の見せつけるような行動に、ようやく合点がいきました」
恥ずかしい思いをしたこともあったけれど、それでエルヴィス様の思い通りに事が運んだのであれば、恥ずかしい思いをした甲斐もあったと言えよう。
そう思って頷く私の耳元に、エルヴィス様は口を寄せた。
「まあ、可愛いサラに変な男を寄せ付けないための牽制でもあったんだけどね」
耳のすぐ近くで発せられる、いつもより少し低いエルヴィス様のその声に、腰の辺りが痺れる。
間近に感じる彼の色気が凄まじくて、私は横を向くことができなくなってしまった。
顔を見ようともしない私に痺れを切らしたのか、エルヴィス様は私の前に移動して跪く。
「『“個人としての私”を大切にしてほしい』という君の言葉が、私の生き方を変えたことは事実だよ。人形のように生きていた私は、あの言葉によって意思を持つようになったんだ」
そう言って彼は、私の掌にそっと口づけを落とす。
「サラは、私にとっては恩人なんだよ」
エルヴィス様のその言葉に、私の心が震えたのがわかった。