王太子:ハロルド・ヘイワード①
「私の婚約者になってくれないか?」
ハロルド殿下からそう言われたのは、お茶会の日から数日後のことだった。
『カガヒメ』の攻略者の最後の一人、【王太子:ハロルド・ヘイワード】。
ゲーム内の彼については正直全く覚えていないが、クラスメイトである彼は優等生そのものだ。
品行方正、成績優秀、まさに乙女ゲームの王子様。
そんな彼からの突然の申し出に、私は狼狽えるしかなかった。
兄のことで相談があると言われて連れてこられた個室には、今は彼と私の二人きり。
ハロルド殿下は、そんな冗談を言うために人払いをしたのだろうか。
「…冗談であったとしても、アイリーン様に失礼では?」
彼と話をするのは初めてだというのに、私の言葉はとげとげしい。
しかしハロルド殿下は、私の言葉など聞こえないかのように話を続ける。
「君にとって、悪い話ではないと思うよ。子爵家の君が王族と縁を結べるのだから」
そう言いながら彼が浮かべる笑みは、完璧で美しいにもかかわらず、今の私には恐ろしいものに感じられる。
「王太子の正妃になれるのは、伯爵家の子女までだからね。君が頷いてくれるのならば、私は王太子の座を降りよう」
軽い口調で発せられたその言葉は、私の度肝を抜いた。
「は?」
怒りを込めてそう言うけれど、それでもハロルド殿下はその涼しげな表情を崩さない。
「兄にその座を譲ればいい。元々、第一王子である兄にこそ相応しい座だったのだ」
下位貴族である私は、王族の取り決めについて詳しいわけではない。
しかしそれが、ハロルド殿下の言うように簡単なことだとは思えない。
もちろん、婚約者を変更することに関しても。
「そのようなことが可能なのですか?」
質問の形をとりながらも、私のその言葉にはハロルド殿下に対する非難が籠っていた。
そのことはハロルド殿下も気づいているだろう。
けれども、彼はそれを気にする様子もなく答える。
「できないことはないだろう。私が王太子にふさわしくないとなれば、次にその座につくのは兄なのだから」
ハロルド殿下の言うこと全てを、はったりだと笑い飛ばすこともできない。
エルヴィス様がいまだ王位継承権を放棄していない以上、王太子であるハロルド殿下に次いで王位継承権を有するのは彼なのだ。
「そうなった場合、おそらく私は公爵位を賜ることになるだろう。君は公爵夫人になれるんだよ?」
私の意見などまるで聞こうともせず、ハロルド殿下はどんどん話を飛躍させる。
「勝手なことを言わないでください」
王太子に対してかなり攻めた発言であることはわかっているけれど、当事者であるはずの私を置いてけぼりにしたハロルド殿下の言葉に、私も冷静ではいられなかったのだ。
「王太子妃でないことが不満かい? けれども、子爵家の子女をその地位に据えるには、王室法の改正が必要だからね」
それを待っていたら何十年かかるかわからないよ、と続けるハロルド殿下は、依然として私の話など微塵も聞いていない。
「公爵夫人でも、君にとっては十分に高い地位なはずだよ? 王妃、王太子妃に次いで、この国の女性の中では三番目に貴い身分だ」
先ほどの私の発言の意図など汲み取ろうともせず、ハロルド殿下の勝手な解釈によって諭される。
この人は、私のことをどんな人間だと思っているのだろうか。
このままではいけない。
私までもが冷静さを欠いてしまえば、収拾がつかなくなってしまう。
そう思って自分を落ち着かせるために右手を胸に添えると、そこから全力疾走をしたかのような鼓動が伝わってくる。
「どうして私なのでしょう? ハロルド殿下とは、お話しするのも今日が初めてだと記憶しておりますが?」
できるだけゆっくりとそう言うと、ハロルド殿下は微笑んだ。
その表情はスチルのように美しいが、同時に胡散臭さも醸し出している。
「一目惚れだよ。君を見た瞬間から、私は恋に落ちてしまったんだ」
そう言ったハロルド殿下のガラス玉のような青い瞳からは、なんの感情も感じ取れない。
「…さすがに、それは無理がありますよ。率直に申し上げますが、さきほどから殿下は私を軽んじていらっしゃいますよね?」
私に対して、本来ならば王族の婚約者に選ばれるような身分ではないという思いが、彼の言葉の端々から感じ取れる。
ハロルド殿下が私のことを下に見て発言していることは明らかだ。
私のその言葉を聞いて、ハロルド殿下の顔から表情が消えた。
怒っているのではなく、全くの“無”。
普段にこやかな人間の“無”が、これほど恐ろしいものだとは。
「兄上が、君に思いを寄せていることは聞いているよ」
ハロルド殿下のその言葉を聞いて、「やっときた」と思った。
今までの言動は、おそらく私をエルヴィス様から遠ざけるためのものだろう。
彼だって、本気で私と婚約したいとは思っていないはずだ。
ハロルド殿下に靡いた私を、エルヴィス様には相応しくないと糾弾しようという魂胆なのだろうか。
彼の真意はわからない。
けれども、エルヴィス様が“たかが子爵家の子女”に思いを寄せていることを、兄想いのハロルド殿下は良く思っていないらしい。
私を否定する言葉が飛び出てくるかもしれない。
なるべく傷つけられないようにと、私はひっそり身構える。
けれども、続くハロルド殿下の言葉は予想外のものだった。
「今は君に熱を上げていようとも、アイリーンと共に過ごせば彼女の素晴らしさがわかるはずだ」
…なぜここでアイリーン様が出てくるのか。
しかしそれを聞くことができるような雰囲気ではない。
もはやハロルド殿下は、私に対する敵意を隠そうともしていなかった。
「君が邪魔なんだよ」
あまりにも率直なその物言いは、私が思い描いていた“優等生のハロルド殿下”のイメージからはかけ離れていた。
大声で怒鳴られたわけでも、罵られたわけでもない。
けれども、今まで向けられた敵意よりも何よりも、その言葉は私を身体の奥から震え上がらせた。