向けられた敵意
「私は、何かサラを怒らせるようなことをしてしまったのかな?」
目の前に座るエルヴィス様が、悲しみの表情を浮かべてそう尋ねる。
「いいえ、なにも」
彼は何も悪くないと心の底から思っているにもかかわらず、私が発した声は想像以上に冷たかった。
生徒会室でエルヴィス様と顔を合わせた日から今日まで、私はエルヴィス様を避け続けた。
そうしてわかったのは、私が会おうと思わなければ、彼には出会えないということ。
レイチェル様は「部室の周りを見て回っていた」などと言っていたけれど、基本的にエルヴィス様は多忙なのだ。
少し距離を置いたら私の気持ちも落ち着くだろうと思っていたのだが、改めてそのことに気づかされて、かえって心にダメージを負うこととなった。
私のそっけない返事のせいで、温室内には気まずい沈黙が流れる。
月に一度エルヴィス様と二人でお茶を飲むのは、私にとってはすっかり楽しい行事になっている。
今日だって、緊張はしていたものの浮き立つ気持ちでやって来たのに。
「ごめんなさい。怒っているわけではないのです。エルヴィス様は何も悪くありません」
私がそう言うと、エルヴィス様が安堵したのがわかった。
「私が、自分自身の感情に振り回されているだけなのです」
まるで幼い子どものようで、自分で言っておきながら惨めな気持ちになる。
しかしエルヴィス様はそんな私を笑うでもなく、私の右手をとると手の甲をするりと撫でた。
「それがサラ自身が解決しなくてはならないことであるなら、私は見守りに徹するよ。けれども、もしも助けが必要な時には遠慮なく言ってほしい」
そう言って目元を和らげるエルヴィス様は優しい表情をしているが、彼の骨ばった大きな手は紛れもなく男性のそれだった。
なんとなく恥ずかしくなってしまった私は、とっさに話題を変える。
「ところで、今日はなにかあるのですか? いつもより使用人の数が多いようですが」
私のその言葉を聞いて、エルヴィス様が眉を下げる。
「伝えるのが遅くなってしまって申し訳ない。実はこの後、どうしても君と話がしたいという人物を呼んでいるんだ」
温室内の空気が変わったのは、エルヴィス様がそう言った瞬間だった。
「本日はお招きいただきありがとうございます」
扉の向こうから現れた女性がお手本のような礼をするのを見て、私は呆気にとられた。
「…アイリーン様?」
そこには、ハロルド王太子の婚約者であるアイリーン様がいた。
エルヴィス様とのお茶会に、どうして彼女が?
エルヴィス様に促されて席についたアイリーン様は、すぐさま私に身体を向けた。
「サラに、まずは私から謝罪をさせてくださいませ」
アイリーン様はそう言うけれども、彼女に謝られるような心当たりは全くない。
入学式の日に言葉を交わして以来、話をするのは今日が初めてなのだから。
頭の中に疑問符を浮かべる私を気に留めることなく、アイリーン様は言葉を続ける。
「学園内で、私とエルヴィス様の仲が噂されているようです。私は気にしておりませんが、サラに嫌な思いをさせているのではないかと心配しておりました」
その言葉を聞いて、私は胸が脈打つのを感じる。
私がずっと気にしないようにしていたことを、急に突き付けられた気がした。
「私は、何も気にしてなどいません。そもそも、口を挟めるような立場でもありませんし」
そう言ってはみたものの、震える声のせいでそれが強がりであることは明白だろう。
俯く私の頭の上で、アイリーン様が細く息を吐くのを感じた。
「嘘をおっしゃいな。確かに、私とエルヴィス様は旧知の仲です。けれどもそれは、ハロルド様を介した関係にすぎません」
アイリーン様はそう言うと、私の顔を覗き込んだ。
「エルヴィス様はあなたを、私はハロルド様をお慕いしているのですから、二人の間に特別な感情など生まれません」
そう言い切ったアイリーン様は相変わらず無表情だけれど、耳はほんのりと色づいていた。
そんなアイリーン様を見て、エルヴィス様が声をあげて笑った。
「アイリーンはね、この通り感情が読みづらいだろう? 周りから誤解されることも多くてね。でも君には、本当の彼女を知ってほしい」
家族になるかもしれないからね、と続けられた言葉のせいで、今度は私の顔に熱が集まる。
「では、以前エルヴィス様が『会う時には私も同席させてほしい』とおっしゃったのは…」
「それぞれをよく知る私がいた方が、円滑に話が進むと思ったからね」
私の問いに即座に返されたその言葉に、私は納得することしかできない。
確かに、エルヴィス様がいなければ、私は彼女を誤解していただろう。
「そしてもう一つ」
アイリーン様の声は、決して大きいわけではない。
けれども、彼女の声はこの広い温室であってもよく響く。
「二年前、あなたの作った施設のおかげでエルヴィス様は死を免れました。実はあの時、マーレイ領に立ち寄ることを提案したのは私だったのです」
エルヴィス様からも語られたことのなかったその事実を知り、私は目を大きく見開いた。
「マーレイ領の特産品である果物を、ハロルド様が気に入ってらしたのです。お土産にしてはどうかと、私がエルヴィス様にお伝えしていたのです」
淡々と告げられるアイリーン様の言葉からは、なんの感情も読み取れない。
「もしもあの時、エルヴィス様が予定通りにあの道を通ってらしたなら。私は今もなお罪の意識に苛まれていたことでしょう」
けれども、それが彼女の本心であろうことは十分に理解できた。
「本当に、ありがとう」
アイリーン様のその言葉に、目の奥が熱くなるのを感じた。
エルヴィス様が生きていることで救われた人間が、こんなところにもいるのか。
「最後に私から、どうしてもサラに伝えておかなければならないことがあるんだ」
私の感情が落ち着くのを見計らったかのように、エルヴィス様が口を開く。
その真剣な眼差しとに、自分の背筋が自然と伸びたのがわかった。
「ハロルドが、少し前から君のことを調べているみたいなんだ」
エルヴィス様からそう告げられ、私の頭の中にはまたもや疑問が溢れる。
「ハロルド殿下が? どうして?」
彼とはクラスメイトなので、お互いに顔見知りではある。
けれども、ハロルド殿下と個人的な会話をしたことは今までに一度もない。
王城内で何度かすれ違ったこともあるけれど、その際も会釈をし合う程度の関係性だ。
「彼が善良な人間であることは、私が保証いたします。けれども、同時にとてもお兄さん思いの方なのです」
アイリーン様のその言葉を聞いて、背筋に冷たいものが伝った。
とてつもなく嫌な予感がする。
「官僚の間でも、家格の釣り合いからエルヴィス様とサラの婚約に反対する方々がいると聞いております。そんな中で、この件に関してハロルド様がどのようにお考えなのか、私にもわからないのです」
私の反応を見てなのか、アイリーン様は直接的な表現を避けた言い方をした。
けれども、ハロルド殿下が私によくない感情を抱いている可能性があると、エルヴィス様とアイリーン様は伝えたいのだろう。
「つまりハロルド殿下が、私に何かしらのアクションを起こしてくる可能性があるということでしょうか?」
私がそう言うと、アイリーン様の口元が僅かに動いたような気がした。
「申し上げるべきかどうか、私もとても悩んだのです。けれども、エルヴィス様が伝えるようにと」
アイリーン様はそう言って、エルヴィス様に視線を送る。
「君は守られているだけのお姫様じゃないだろう? きちんと状況を知らせておく方がよいと思ってね」
そう言うと、エルヴィス様は私に向かって柔らかく微笑んだ。
そんな彼に、私は笑顔で礼を言う。
彼の両手がテーブルの上で固く握りしめられていることには、気がつかないふりをした。