訪れなかった未来② ※ダグラス視点
またか。
母の寝所に入って行く男を見かけて、俺は心の中で溜め息をつく。
あの大規模な崖崩れが発生して、半年が経った。
この国の第一王子であるエルヴィス殿下が亡くなられたということで、当時は大きな騒ぎとなったし、今でもまだ国政には混乱が見られる。
被害者の名前としてエルヴィス王子殿下の名が挙げられることがほとんどだが、あの事故で犠牲になったのはもちろん殿下だけではない。
年若い第一王子を補佐するために、殿下の視察に同行した私の父もまた、あの崖崩れによって帰らぬ人となったのだ。
その知らせを受けた時、母は大いに取り乱した。
貴族の中でも屈指のおしどり夫婦として知られていた二人なのだ、母の嘆きも当然だと思った。
しかし、その日から一ヶ月程寝込んだ母の元に、とある男が訪ねて来た。
俺よりも十歳位年上の、艶かしい男だった。
誰かに似ている気がすると思ったが、それが誰なのかその時はわからなかった。
この家に古くから仕える執事長が、その男を見て一瞬顔を顰めた。
侯爵家で執事長になるほどの人間がそのような顔をしたことに、俺は驚きを隠せなかった。
執事長は男を客間ではなく、そのまま母の寝所へと案内した。
それほどまでに親しい男なのだろうか。
おそらく親戚か何かだろうと思ったその時の俺を、蹴飛ばしてやりたい。
寝所に案内されたその男に対して、母はこう言った。
「ああ、グレッグ。帰って来てくれたのね」と。
ショックを受ける俺に、執事長は悲しげな目を向けた。
「逃げることが必要な時もあるのです。今の奥様にとって、現実はあまりにも辛すぎるのでしょう」
執事長のその言葉が、俺に重くのしかかった。
それから母の元には、数日おきに男が通うようになった。
毎回別の人物だが、訪れる男に共通点があることに、俺はすぐに気がついた。
父と同じ瞳の色、父と同じ髪の色持つ、父と同じくらいの背丈の男ばかりだった。
なんとなく父と似た男達が、母と寝所で何をしているのか。
考えるのも悍ましいが、考えずにはいられなかった。
母は父を心から愛しているのだと思っていたが、父と似た人物であればそれで良いのかと、絶望さえした。
俺達がどんな状況であろうと、時は流れる。
俺が王立学園に入学する年齢になっても、母は相変わらずだった。
家では自室に籠りきりになり、学園では授業にも出ず中庭で時間を潰す俺に、婚約者からは何度も手紙が寄越された。
便箋に書かれた見本のように美しい字を見て、婚約者を思い浮かべる。
“非の打ち所がない淑女”と言われるそいつは、本当に信頼できる人間なのか。
あいつも、俺に似た人物であればそれで良いのではないか。
そう思うともう、手紙に返事を書く気など起こるはずもなかった。
ところがある日、家でも学園でも腫れ物扱いされる俺に声を掛けてきた女がいた。
サラ・ベネット。
俺と同じクラスの生徒だと言うその女は、子爵家の娘だった。
整った容姿をしているものの、これと言った特徴がある女ではない。
容姿だけなら、俺の婚約者の方が美しいと言えるだろう。
けれど、初めは鬱陶しいだけだったその女から、次第に目が離せなくなっていた。
くるくると表情を変えるその様は、貴族の御令嬢として褒められたものではないだろう。
しかし彼女の素直な反応は、俺にとっては新鮮だった。
“完璧な侯爵夫人”であった母や、“非の打ち所がない淑女”である婚約者に不信感を抱いていた俺は、そんな彼女に興味を持つようになった。
お気楽なこの女に、モーガン侯爵家の悲惨な状況を伝えたら、どんな顔をするのだろうか。
「母親が男娼で寂しさを埋めているんだ。相手は俺の父親に似た男ばかり。笑っちまうだろ」
モーガン侯爵家の恥部とも言えるその情報を伝えたのは、どうすることもできない自分に代わって怒ったり泣いたりしてほしかったからかもしれない。
“男娼”という言葉を発した自分の膝が、ガクガクと震えていることに気がついた。
母とあの男達がそういう関係だと、とうとう口に出してしまった。
『ダグラス様?』
自分の言葉に狼狽える俺に、サラがそっと寄り添う。
香水ではない良い香りが、俺の鼻を掠めた。
「最初におかしいと気づいた時に、やめさせればよかったんだ。あの時“逃げることも必要だ”と言われたけれど、目を背けているうちに、今ではもう母が手の届かないくらいに遠くに行ってしまった。俺がずっと信じていた“幸せな家族”は、一体なんだったんだ」
今までの後悔を吐き出すようにそう叫ぶ俺の背に、サラがそっと手を添える。
『ダグラス様はご家族を大切になさっているのですね。家族が壊れるのが怖くて言い出せなかったのでしょう? 』
俺の家族のことなど何一つ知らないであろうが、サラのその言葉は俺の罪悪感を軽くした。
母が男娼に溺れていると認めてしまえば、本当に家族が壊れてしまうと思って身動きがとれなくなっていた自分を、サラだけがわかってくれた。
『ダグラス様のことがただただ心配です。悩みがあるなら、ぜひとも私に教えてください』
そう言ってサラが流す大粒の涙は、宝石のように美しい。
何を信じれば良いかわからなくなっていた俺にとって、その涙は唯一信じられるもののように思われた。
何も解決していない。
母はこれからも寝所に男娼を連れ込み続けるだろうし、婚約者のことは一ミリも信頼できていない。
けれども一つだけ、信じられるものができた。
サラが、俺の心を軽くしてくれた。
…サラのそばにいたい。
結婚が全てではないことを、俺は知ってしまっている。
どんな形でもいいからこいつと共に生きることが、俺にとっての幸せだ。
執事長に言わせれば、これもただの“逃げ”なのだろう。
けれども、今の俺には逃げる必要があるのだ。
今の俺にとって、現実はあまりにも辛すぎる。
周囲のことを気にする余裕など、もはや俺には残されていないのだ。
「ダグラス様、レイチェル様がお見えでございます」
執事長のその声で、俺は現実世界へと引き戻される。
昨夜なかなか寝付けなかったからか、部屋のソファーでうたた寝をしてしまっていたようだ。
何か夢を見ていたが、全く思い出せない。
クソみたいな世界で見つけた僅かな光に縋りつこうとする、そんな夢だった気がする。
「ああ、入っていいよ」
髪の乱れを軽く整えてそう言うと、扉を開けてレイチェルが顔を出した。
「ダグラス様? もしもお疲れでしたら日を改めますが…」
私が直前まで眠っていたことに気づいたのであろうレイチェルが、遠慮がちにそう言う。
「疲れてなんていないよ。レイチェルに会えて本当に嬉しい」
そう言って優しく抱きしめると、腕の中で彼女が真っ赤な顔をするのがわかった。
“非の打ち所がない淑女”と呼ばれるレイチェルだが、俺の前ではこのようにただの女の子のような顔をする。
それが可愛くて可愛くて堪らない。
「私も、ダグラス様とお会いしたかったです」
レイチェルのその呟きを聞いて、なぜだか鼻の奥がツンとする。
ああ、なんて幸せなんだ。
「ダグラス様? 泣いていらっしゃるのですか?」
レイチェルは揶揄うような口調でそう言ったが、少しも不快感はない。
「いいや、気のせいだろう」
彼女は強がる俺の頬に手を当て、親指で目元を拭いながらにっこりと微笑んだ。
その姿はまるで女神のように輝いて見えた。