次期宰相:ダグラス・モーガン⑤
「今日はすまなかった」
モーガン侯爵夫人との話が終わったのは、外がうっすらと暗くなる頃だった。
侯爵夫人が部屋から出ていくと、それまで部屋の中で空気と化していたダグラス・モーガンが、深々と頭を下げてそう言った。
正直なところ、私は少しびっくりはしたものの、そこまで迷惑を掛けられたわけではない。
彼が謝るべきはレイチェル様だ。
おそらくそんな私の思いが漏れ出てしまっていたのだろう。
ダグラス・モーガンは私の顔を見て苦笑いをすると、レイチェル様に身体ごと向き直る。
「特にレイチェルには、私の勘違いのせいで長い間辛い思いをさせてしまったことだろう。本当に申し訳ない」
彼の謝罪の言葉に、レイチェル様が小さく息を呑む音が聞こえた。
「二年程前にあの手紙を見つけて、仲が良いと思っていた両親に、別に心を寄せる相手がいるのだと思って、ショックを受けた。不貞を働いている母にも、そのことに気づいてもいなさそうな父にも、嫌悪感を抱いたんだ」
確かに、思春期の少年が母親に宛てられた恋文の存在を知ってしまったら、平常心ではいられないかもしれない。
「裏切られたと感じた私は、誰のことも信じられなくなってしまったんだ。そして君にも、あんな態度をとるようになってしまった。いずれ裏切られるのならば、最初から割り切った関係でいた方が楽だと考えたんだ」
ダグラス・モーガンの勘違いのせいで、レイチェル様が辛い思いをしなくてはならなかったことには、文句を言いたい。
けれども、そう語る彼の表情は苦しそうで、私は何も言うことができなくなってしまった。
「私の勝手な思い込みで、レイチェルには本当に酷いことをしてしまった。当然ながら、君にはなんの落ち度もない。ただただ、私が悪かったんだ」
ダグラス・モーガンの言葉を聞くレイチェル様は、じっと何かに耐えるような表情をしている。
もしかすると、彼女は相当怒っているのかもしれない。
自分に落ち度がないにもかかわらず、二年間も邪険に扱われてきたのだから、当然と言えば当然だ。
しかしダグラス・モーガンは、そんなレイチェル様に向かって必死に言葉を続ける。
「今すぐに許してほしいとは思っていない。君の怒りも当然だ。だからこそ、また今日から君との関係を築いていきたいんだ」
そう言って跪く彼は、客観的に見るとみっともなくも思えた。
しかし、そうまでして大切なものを守ろうとする姿勢に、私はほんの少しだけ好感を覚える。
そんなダグラス・モーガンに、レイチェル様が静かに声を掛けた。
「どうかお立ちになってくださいませ」
感情を押し殺したようなその言葉に、私は思わず息が止まる。
私の目の前には、今までに見たことのないレイチェル様がいた。
「お母様に対する誤解が解けてよかったですわね。あなたがご家族を大切になさっていることはわかっておりますから」
レイチェル様はそう言うけれど、淡々とした言い方と、取ってつけたような笑顔は、常の彼女の雰囲気とは大きくかけ離れている。
とても怒っていらっしゃる。
ひょっとすると“婚約解消”の言葉が、彼女の口から飛び出すかもしれない。
私だけでなく、おそらくダグラス・モーガンもそう思ったのだろう。
彼の喉がひゅっと音を立てたのを、私は聞き逃さなかった。
けれども、続くレイチェル様の言葉は、私達が予想したものとは違っていた。
「だからこそ、家族が壊れるのが怖くて言い出せなかったのでしょう? 家族が壊れるのが怖くて、調べることもできなかったのでしょう?」
彼女にそう言われて、ダグラス・モーガンがこくりと頷く。
それを見たレイチェル様は、ふわりと表情を和らげる。
「私は、そんなあなたと素敵な家庭を築きたいと思っております」
彼女の言葉を聞いて、ダグラス・モーガンの動きが止まった。
「私のことを、許してくれるのか?」
信じられないというようにそう呟く彼に、レイチェル様はにっこりと微笑む。
「そもそも怒ってなどおりませんでした。心配していただけです。ですから、今後はぜひとも私に悩みを共有してくださいませ? 私達は夫婦になるのですから」
そう言うレイチェル様の頬は、うっすらと色づいているように見える。
「…私は、また間違えてしまうかもしれない」
「私は何の心配もしていませんわよ? モーガン夫妻という素敵なお手本が身近にいらっしゃいますから」
躊躇うようにそう告げるダグラス・モーガンに、レイチェル様は即座に否定の言葉を返した。
しかしその美しい顔が、耐えきれないといった風に徐々に歪み出す。
「…ダグラス様に嫌われてしまったのではなくて、本当によかった」
レイチェル様は振り絞るようにそう言うと、大粒の涙を流し始めた。
そんな彼女に、ダグラス・モーガンはそっと手を差し伸べる。
そのままレイチェル様を抱き寄せた彼は、何かを決意したような、力強い目をしていた。
―――『攻略』。
今この瞬間、【次期宰相:ダグラス・モーガン】が【婚約者:レイチェル・クラーク】に攻略された。
当然のことだろう。
レイチェル様にこのようなことを言われて、陥落しない人間などいようか。
第三者である私すら、彼女に攻略されてしまうかと思うくらいに胸がときめいた。
本当ならば、今までのダグラス・モーガンの態度に対して、言いたいことが山ほどある。
けれども、当事者であるレイチェル様が全て許すと言っているのだ。
私がでしゃばる必要はない。
「レイチェル様、先に帰りますね」
私がそう言うと、レイチェル様は困ったように眉を下げながらも頷いた。
彼女の耳が真っ赤になっているのは、見なかったことにしておこう。
「サラ嬢も、すまなかった」
ダグラス・モーガンに謝られて、私はわざとらしく顔を顰める。
「本当に! 今回はレイチェル様に免じて許しますが、これは“貸し”ですよ!」
そう言うと、彼は愉快そうに笑った。
ダグラス・モーガンのことは相変わらずいけ好かないけれど、彼がそんな風に笑うのを見て、彼の横で幸せそうに微笑むレイチェル様を見て、私は喜びが湧き上がるのを感じたのだった。




