侯爵令嬢の憂い
「サラ嬢。このようなアイディアをくれたことを、心から感謝するよ」
クラーク侯爵にそう言われた私は、思わず満面の笑みを浮かべる。
初めてこの客間で侯爵と二人きりになってしまった時には、終始緊張で震えていた私だったけれども、今では優雅にお菓子をつまむ余裕すらある。
ただし、このソファーの柔らかさには、いつまで経っても慣れない。
しかし、今日はお菓子どころか紅茶の準備もされていない。
クラーク侯爵と私を挟むテーブルの上に置かれているのは、この世界で初めて目にするハードカバーの娯楽本。
モスグリーンの表紙にタイトルが箔押しされているそれは、うっとりするような美しさだ。
「ぜひ、手に取ってみてほしい」
私のその視線に気づいたのだろうか、クラーク侯爵がそう促す。
「サラ嬢が書き起こした歌劇のストーリーに加えて、巻末には演者のコメントを収録している。試作品として劇場で販売したところ、その日のうちに全て売れてしまったよ」
クラーク侯爵からそう聞いて、私は胸を撫で下ろす。
前世のパンフレットを想像して提案してみたものの、その金額は前世におけるそれの十倍以上になってしまったのだ。
全く売れなかったらどうしようと、軽く寝不足になるくらいには心配していた。
「こちらこそ、歌劇のストーリーを記した本を領民達に無料で公開することを認めてくださり、心から感謝しております」
そう、当初の目的は達成された。
私直筆の手作り本ではあるものの、この歌劇のストーリーが書き起こされた“本”は、少し前からベネット領の図書館(仮)の蔵書に加えられている。
すでに予約が殺到しており、実際に図書館(仮)に並ぶのはまだまだ先のことになりそうだ。
「歌劇に身近な方法で触れることができて、我がベネット領でも、お金を貯めて観劇に行くことを目標にする者も出てきております」
「目標や頑張る理由が増えることは生きる上で重要だ」と、前世の主治医も言っていた。
今まで歌劇とは縁のない生活を送ってきたであろう領民達が、新たな目標を持つようになったことを、私はとても嬉しく思っている。
私の言葉を聞いてにこりと笑ったクラーク侯爵は、すぐに口元を引き締めた。
「では、ここからはビジネスの話をしようかな」
そう言われて動揺した私は、柔らかなソファーの上でバランスを崩す。
だってそうだろう。
まさか侯爵と一対一でビジネスの話をすることになるなんて、一ミリたりとも予想していなかったのだから。
「クラーク侯爵。最初に申しあげましたように、書籍化することによって生まれた利益に、私は一切関与する気はありません」
何度も言うが、私は“歌劇作品の書籍化”ならびに“その本の蔵書化”が実現されただけで、十分に満足している。
それに加えて、自らの働きかけの結果として、ハードカバーの立派な娯楽本がこの世界に誕生したのだ。
これ以上を望めばバチが当たってしまうかもしれない。
しかしクラーク侯爵は、私の言葉を聞いて眉間の皺を深くした。
「サラ嬢、よく聞きなさい。無償で働くことが素晴らしいことだとは限らないのだよ」
クラーク侯爵は私の目を覗き込み、言い聞かせるように言葉を発する。
「私が、君のアイディアや君がこの事業にかけた時間を、搾取するような人間だと思わないでほしい。何よりも君自身が、自分が提供した労働を不当に評価してはならないのだよ」
クラーク侯爵のその言葉に、私ははっとさせられる。
前世でアルバイトすらしたことのなかった私は、自分の取り組みが“労働”として金銭的な評価を受けるものだとは思ってもいなかった。
けれども、ここで私が「無料でやります」と言ってしまうと、次に繋がらなくなってしまうのか。
「考えが足りませんでした。“歌劇ストーリーの書き起こし”が、雇用を生み出す可能性があるのですね」
歌劇作品はこの一作だけではないし、今後も生まれ続けるのだ。
膨大な量のそれの書き起こしを、私が一人で担うことなど不可能だろう。
「そうだ。君がここで受け取る額が、今後似たような仕事に対する賃金を決定する指標となるのだよ」
そう言うクラーク侯爵は、満足気に微笑んでいた。
「君の目標はこれでおしまいではないのだろう? 次のステップに進むためにも、きちんと備えておきなさい」
そう言って提示された金額は、私の想像を遥かに超える額だった。
しかし、ここで格上の侯爵に遠慮するのはかえって失礼だろう。
契約内容が記載された書類に署名する私の手は、かつてないほどに震えていた。
「ここからは私の独り言だから、聞き流してくれて構わない」
私が署名した契約書を執事に手渡すと、クラーク侯爵は途端に“父親”の顔になる。
「エルヴィス殿下が子爵令嬢を婚約者に望んでおられると聞いた時、私を始めとする多くの官僚が顔を顰めたものだ」
…ちょっと待って。
エルヴィス様が私に対する好意を隠していないことは知っている。
それでも、まさか引き受けてもいないその話が、大勢の人間に知られているなどとは考えてもみなかった。
それも官僚の方々に。
「言いふらしていらっしゃるわけではない。ただ、今回のお相手は子爵令嬢。前例のないことだからね、殿下も色々と策を講じていらっしゃるのだよ」
クラーク侯爵は、私を宥めるようにそう言う。
もちろん、私だってエルヴィス様が言いふらしているとは思っていない。
けれども、その情報はできることなら知りたくなかった。
官僚の方々とすれ違うことも多い王城に、私は今後どのような顔をして訪れればよいというのか。
呆然としている私を気にする素振りもなく、クラーク侯爵は話を続ける。
「その話が出て以降、エルヴィス殿下は目に見えて変わりなさった。これまで王子としては完璧に振る舞いながらも、どこか無気力に見えていたエルヴィス殿下が、近頃では精力的に活動なさっている。このことが我々臣下にとって、どれほど嬉しいことか」
そこで言葉を区切ったクラーク侯爵は、私に柔らかい笑みを向ける。
「サラ嬢の前向きな姿勢が、少なからず殿下に影響を及ぼしているのだろうね」
侯爵にそう言われて、私は顔に熱が集まるのを感じた。
「サラ、少し相談事があるの」
クラーク侯爵との話も終わり、さて帰ろうと客間を出てすぐのことだった。
いつもより顔色の悪いレイチェル様が私を呼び止めた。
「もちろんです。私でお役に立てるかはわかりませんが、ぜひ聞かせてください」
こんな状態のレイチェル様からの頼みを、断るなどという選択肢はない。
私の返答を聞いて微笑むレイチェル様だけれど、その疲れ切った表情を目にして、胸が張り裂けそうになる。
そのままレイチェル様に案内されたのは、なんと彼女の自室だった。
私のことを心から信頼してくれているのであろう。
レイチェル様は侍女に紅茶の用意を頼むと、その後は部屋を離れるように指示した。
レイチェル様と私だけが残された部屋で、時計の針の音がやけに大きく響く。
「サラ、ありがとう。相談というのは、実は私の婚約者のことなの」
伏せ目がちにそう告げるレイチェル様を見て、私は顔も知らない“レイチェル様の婚約者”に怒りを覚える。
レイチェル様に辛い顔をさせるなんて、どこのどいつだ。
「レイチェル様のご婚約者について話をお聞きするのは初めてなのですが、一体どなたなのでしょう」
精一杯丁寧な言葉で言い換えてレイチェル様に尋ねると、彼女は重々しく口を開いた。
「あなたと同じクラスの、モーガン侯爵家の御令息…ダグラス様よ」
レイチェル様のその言葉を聞いて、私は意識が遠のくのを感じた。
【次期宰相:ダグラス・モーガン】。
まさかレイチェル様の婚約者が、『カガヒメ』の攻略対象者だったなんて。