学園教師:クリス・ローレンス④
善は急げ。
まあ、この場合絶対的な“善”だと言い切れるかは微妙なところだけれども。
とにかく、思い立ったらすぐに取り掛かるべきだ。
レベッカ先生がやる気になっている今がチャンスなのだ、クリス先生の呼び出しに失敗するわけにはいかない。
私は自身のコネを最大限に利用し、授業が終わって残務処理をしているであろうクリス先生を呼び出した。
つまり、私とレベッカ先生がいる個室にクリス先生を連れて来た。エルヴィス様が。
「婚約者同士、お二人で話し合われた方が良いのでは?」
どう考えても私はお邪魔だろうと思い、レベッカ先生にそう尋ねたところ、彼女は物凄い勢いで首を横に振った。
「今まで何度も伝えようと思ってきたけれど、二年間も無理だったの。お願いだから力を貸してちょうだい」
瞳を潤ませながら懇願するレベッカ先生は、私よりもずっと大人の女性なのに可愛らしい。
なるほど、これがギャップ萌えか。
そうこうしているうちに部屋にノックの音が響き、エルヴィス様が顔を覗かせる。
後ろに続くクリス先生は、いつも以上に青白い顔をしているように見えた。
いきなり第一王子に呼び出されたのだ、そうなっても不思議ではない。
「お仕事中にごめんなさい。エルヴィス王子殿下も、私どものためにお手を煩わせてしまいまして、大変申しわけございません」
そう言って頭を下げるレベッカ先生は、つい先程まで泣きそうになっていた女性と同一人物だとは思えない。
「いいえ、構いませんよ。学園内では、私はあなた方の生徒ですから」
そう言って微笑むエルヴィス様は、私が久しぶりに見る“第一王子の顔”をしていた。
「では私はこれで」と言って部屋を出るエルヴィス様は、私を見て何か言いたそうな顔をした。
おそらく、どうして私がこの場に残るのかと、疑問に思っているに違いない。
私だってできることならこの場から立ち去りたいのだけれど、レベッカ先生に懇願されれば仕方がない。
彼女をけしかけたのは私なのだから、頼まれた以上は最後まで見届ける義務があるのだ。
けれども、それをこの場で口にするわけにはいかない。
不安そうな視線を投げかけるエルヴィス様に、私は「大丈夫」の意を込めて、右手をヒラヒラと振る。
大丈夫、私は部屋に置いてある観葉植物のように、二人の邪魔はしませんから。
私のその気持ちが伝わったのだろうか。
そんな私を見て、エルヴィス様は軽く息を吐いて部屋を後にした。
ほんのりと頬が色づいていたので、ひょっとすると急いでクリス先生を呼びに行ってくれていたのかもしれない。
エルヴィス様の労力を無駄にしないためにも、私は私で頑張らないと。
「レベッカが私を呼んでいると、エルヴィス殿下からお聞きしたんだけれども、学園内で呼び出すなんて珍しいね」
そう言ってレベッカ先生に微笑みかけるクリス先生は、どこかぎこちない。
「でも、私も君に話したいことがあったんだ」
クリス先生の言葉に、部屋全体が静まり返る。
…さて、困った。
時計の針を見ると、最初のやりとり以降、二人が何も喋らないまま五分が経過した。
たった五分間だけれど、私にとっては永遠のように長い時間に感じられた。
これは一体なんの拷問なのか。
「あの…差し出がましいようですが、私が場を取り仕切っても…?」
本当に差し出がましい提案であることは、百も承知だ。
けれども、この静寂に耐えうるだけの精神力が、私にはない。
突如声をあげた私に驚きの表情を向けながらも、「どうぞどうぞ」と許可する二人は息ぴったりで、さすが婚約者同士だなと、変に感心してしまう。
「こほん、それでは」
そう口を開く私を、二人が凝視する。
観葉植物のように無益無害の存在であろうと決めていた私は、一体どこに行ってしまったのか。
「差し支えなければ、まずはレベッカ先生のお話をお聞きいただけますか?」
私のその言葉に、クリス先生は力強く頷いた。
私の言葉に促されて、レベッカ先生が顔を上げる。
「あなたが二年前の崖崩れに関して、今も責任を感じているのは知っているわ」
はっきりとした口調だけれども、身体の前で合わされた彼女の両手は微かに震えている。
「けれども私は、あなたに何もしてこなかった。私が何か言うことで、あなたをさらに追い詰めることになるんじゃないかと思うと怖くて。本当にごめんなさい」
そう言って頭を下げたレベッカ先生を見て、クリス先生が息を呑んだのがわかった。
「今はもう、あなたを悪く言う人間なんていないし、あの事故があなたのせいでないことも正式に認められているわ」
そこまで言うと、レベッカ先生の眼差しがぐっと強くなる。
「本当ならこの言葉は、事故発生の直後にきちんと伝えておくべきだった」
そう言いながらクリス先生を見つめる彼女に、先程までの弱さは一切感じられない。
彼女の視線からは、強い決意のようなものが感じられた。
レベッカ先生はそこで一度言葉を切ると、大きく息を吸い込んだ。
「たった一度の失敗で、あなたの功績全てが否定されていいわけがない。あなたは変わらず、偉大な土木工学者なのよ」
レベッカ先生のその言葉に、クリス先生が大きく目を見開く。
分野は違えど同じ“研究者”である彼女が発したその言葉は、有無を言わせぬ説得力があった。
クリス先生の頑張りをずっと近くで見て来た彼女が発したから、その言葉はずっしりとした重みを有していた。
「あなたは私の、自慢の婚約者よ」
そう言って美しく微笑むレベッカ先生を、クリス先生が呆然と見つめている。
―――『攻略』。
その言葉が、私の頭の中に浮かんだ。
ここはゲームの世界ではない。
けれども、【学園教師:クリス・ローレンス】が【婚約者:レベッカ・マイヤーズ】に攻略された瞬間だった。
「…ありがとう」
そう礼を告げるクリス先生の声は掠れていた。
「サラ嬢に言われて、あの後考えてみたんだ。私は“周囲から非難されている”と思ってきたが、“周囲”とは具体的に誰なのだろう、と」
研究室を出る際にクリス先生が浮かべていた表情は、怒りからくるものではなかったらしい。
「思いつかなかった。誰一人として、面と向かって私を非難する人間などいなかったのだよ」
そう言うクリス先生は弱々しい笑みを浮かべているけれども、同時にどこか晴れ晴れとした表情をしている。
「もちろん、私が開発責任を負う道路で事故が起こったことは、忘れてはならないものだ。しかし、それに囚われて今の自分の職務を疎かにするのは違うと、そう思わされた」
話を続けるクリス先生の態度は、堂々としたものだった。
「周囲から“天才”と持て囃されてきた私が、“天才”ではない自分自身に価値を見出せなくなってしまっていたんだ。私を非難しているのは周囲ではなく、私自身だったんだよ」
彼はそう言うと席を立ち、机を挟んで向かい合っていたレベッカ先生の元へと歩み寄った。
「レベッカ、結婚してくれないか」
クリス先生のその言葉を聞いて、レベッカ先生の目が大きく見開かれる。
「私自身すら信じることができなかった“私”を、ずっと信じ続けていてくれた君には心から感謝している。この先君が辛いときには、私が必ず力になるよ」
そう言ってレベッカ先生の前に跪くクリス先生は、おとぎ話に出てくる王子様のように煌めいている。
クリス先生の言葉に、首を縦に振り続けるレベッカ先生の瞳から、ぽろりと大粒の涙が零れた。
【学園教師:クリス・ローレンス】。
おそらくこれは、彼にとっての究極のハッピーエンド。
【ヒロイン:サラ・ベネット】の逆ハーレムを形成する一員になるよりも、ずっとずっと幸せな選択。
そろそろ私は必要ないかな。
そう思って席を立った私は、二人の邪魔にならないようにそっと部屋を後にする。
静かに扉を閉めた私は、人気のない廊下をスキップしながら進むのだった。