学園教師:クリス・ローレンス③
この王立学園は、貴族の子息令嬢が通う由緒ある学園だ。
だから、学園内に用意された個室がこれほどまでに豪華なのは、驚くべきことではないのかもしれない。
けれども、私が前世で通った学校とのあまりの違いに、最初に足を踏み入れた時には愕然とした。
ともあれ、私はそんな豪華な個室内で、とある女性と向かい合っている。
王立学園で古代文学を教えている、レベッカ・マイヤーズ先生。
この世界では短髪の女性は珍しいのだけれど、艶やかな黒髪を肩のあたりで切り揃えたレベッカ先生は、いかにも“できるオンナ”だ。
「エルヴィス殿下から聞いているとは思うけれど、私がクリス・ローレンスの婚約者よ」
そう、彼女が『カガヒメ』でクリス先生から婚約破棄を言い渡された、先生の婚約者。
この世界で私とクリス先生は特別な関係ではないものの、【ヒロイン:サラ・ベネット】が『カガヒメ』内で不幸にしてしまった人物を前にして、なんとなく申し訳ない気持ちになりながらも口を開く。
「お時間をいただきまして、ありがとうございます。クリス先生について、婚約者であるレベッカ先生にお尋ねしたいことがあるのです」
三日前、クリス先生の研究室を飛び出した私は、そのまま生徒会室へと向かった。
扉をノックし、中から返事が聞こえるや否や部屋に飛び込んだ私は、生徒会室にいたエルヴィス様とレイチェル様を大いに驚かせてしまった。
「突然申し訳ありません。クリス先生について、もう一度相談に乗っていただきたいのです」
息を弾ませながらそう言う私に、レイチェル様は紅茶を出してくれた。
「もちろん構わないよ、何かあったの?」
エルヴィス様はこの話題を嫌がるかもしれないと、心のどこかで思っていた自分を恥じる。
なんだかんだ言っても、エルヴィス様は私の行動を否定したり、制限したりするような人ではないのだ。
「実はつい先程、クリス先生に呼び出しを受けて研究室でお話をしたのですが」
「二人きりで? ちゃんと扉は開いていた?」
間髪入れずにそう尋ねるエルヴィス様は、相当焦った表情をしている。
…やっぱり、エルヴィス様は過保護だった。
「エルヴィス殿下、まずはサラの話を聞きましょう?」
エルヴィス様の発言を諫めたのは、レイチェル様だった。
この場に彼女がいてくれて、本当に助かった。
「話をする中で、クリス先生は“自分を非難する人間がいるのは当然だ”とおっしゃっていました。自分が開発責任を負う道路で大きな事故が発生したから、と」
私の言葉を聞いて、エルヴィス様だけでなくレイチェル様までもが、怪訝な表情を浮かべた。
「前も言ったけれど、私の知る限りではローレンス博士を悪く言う者はいないよ。臣下からそのような報告も上がってきていない」
エルヴィス様のその言葉に、レイチェル様も頷く。
「私も、そのような話は聞いたことがありません。彼に非がないということは公の場で認められていますし」
それなら、なぜ。
クリス先生は、一体誰からの非難に心を痛めているのだろう。
彼は、何に追い詰められているのだろう。
知らないうちに眉を顰めていた私に、エルヴィス様が声を掛ける。
「私達よりもローレンス博士や彼の周囲をよく知る人物に、話を聞いてみる?」
エルヴィス様からそう提案されて、私は目を見開いた。
「そんなことができるのですか? 一体どなたですか?」
私の言葉を聞いて、エルヴィス様が笑みを浮かべた。
「彼の婚約者である、レベッカ・マイヤーズ博士だよ。この学園の教師でもあるから、彼女の都合が合えばすぐにでも」
この場を用意してもらえたのは、エルヴィス様の力も大きかったはずだ。
私は心の中でエルヴィス様に感謝しつつ、目の前に座るレベッカ先生に視線を向け、さっそく本題を切り出す。
「先日、クリス先生とお話しする機会があったのですが…」
クリス先生に礼を言われたこと。
彼が“周囲から非難されている”と考えていること。
クリス先生との会話や、その中で私が感じたことを、レベッカ先生になるべく簡潔に説明する。
「エルヴィス王子殿下は、クリス先生を非難する人間はいないとおっしゃっていました。けれども、クリス先生はそうは思っていらっしゃらないようです」
そう伝えながらも、痛々しく笑うクリス先生の表情を思い出して胸がちくりとする。
「あの事故に関して、クリス先生に非はなかったと認められているはずです。それにもかかわらずクリス先生が攻撃されているのであれば対処したいと、エルヴィス王子殿下もおっしゃっています」
王族も関与するこの決定が軽んじられているのであれば、それなりの対応をしなくてはならないと、エルヴィス様は言っていた。
「何かご存知でしたら教えていただきたいのです」
【攻略対象者:クリス・ローレンス】ではなく、この世界に生きるクリス先生のために。
ヒロインと結ばれなくとも、彼が幸せに生きていけるように。
私から発せられる熱量に、レベッカ先生が僅かにたじろぐのを感じる。
しかし彼女はすぐに体勢を整えて、躊躇いがちに口を開いた。
「分野は全く違うけれども、私も研究者だから彼の周囲については第一王子殿下よりも知っているつもりよ。けれども、殿下がおっしゃっている通り、彼を非難する人間を私も見たことがないわ」
そう言うレベッカ先生の拳は、強く握りしめられている。
「そもそも、長らく用いられてきた計算方法自体に不備があったのだもの。むしろ、死者の出る事故が発生する前にわかってよかった、という空気だったし、私もそう思ってる」
そう断言するレベッカ先生の瞳には、強い光が宿っている。
でも、だったらなぜクリス先生を擁護するその意見は、彼の耳に届いていないのだろう。
「それは、レベッカ先生がそう伝えても、クリス先生は納得されていないということでしょうか?」
不思議に思ってそう問うと、途端にレベッカ先生は気まずそうな顔をした。
そして、「生徒にこんなことを言うべきではないんだろうけど」と前置きをして、ぽつりぽつりと話を続けた。
「私は、彼に何も伝えられていないの」
レベッカ先生の暗く沈んだその声は、まるで何かを懺悔するかのように響いた。
「事件後塞ぎ込む彼に、なんと声をかけていいのかわからないまま、二年が過ぎてしまった。もちろん婚約者として交流はしているわ。けれども、あの事故の話はタブーのような扱いになってしまっているのよ」
そう言って両手で顔を覆うレベッカ先生からは、後悔の気持ちが感じられる。
レベッカ先生の気持ちを軽くするためには、ここで「誰でもそうなりますよ」「仕方がないことですよ」と、優しく慰めるべきだろう。
しかし、それが果たして彼女の、彼女とクリス先生のためになるのだろうか。
「…言わなくても伝わるなんて、あまりにも傲慢な考えだと私は思っています。いくら相手を思っていても、伝わらなければ意味がないのでは?」
私のあまりに厳しい物言いに、レベッカ先生の瞳が揺れる。
けれども、私は彼女を責めたいわけではない。
「レベッカ先生も、自身の思いを二年間伝えずに過ごしてきたことを後悔していらっしゃるのではないですか?」
レベッカ先生は、「言わなくても汲み取って」と言うようなタイプの人間には思えない。
言葉で伝えることの大切さは、きっとわかっているはず。
だからこそ、それができていない自分を悔いているのだろう。
口を強く結んだレベッカ先生の両手を、自身の両手で包み込む。
「行動しましょう。今のレベッカ先生が、最善だと思うように」
私のその言葉に、レベッカ先生は静かに頷いた。