学園教師:クリス・ローレンス②
クリス先生から呼び出されたのは、エルヴィス様とのお茶会の日からすぐのことだった。
「サラ・ベネット。放課後、私の研究室に来てください」
正直なところ、攻略対象者と二人きりになるのは避けたい。
けれども、今の私とクリス先生の関係はただの担任教師と生徒だ。
教師から呼び出しを受けることはよくあることだし、ここで断る方が不自然だろう。
「失礼いたします」
そう声をかけて入室したクリス先生の研究室は、想像以上に荒れていた。
辛うじて話をするスペースはあるものの、机の上だけでなく床にまで、なんらかの本や資料であろうものが積まれている。
「このような部屋に呼び出して申し訳ありません」
そう言うクリス先生は、この部屋の有り様を恥じているように見えた。
「いいえ、気になさらないでください。ところで何かありましたか?」
クリス先生の部屋の様子なんてどうでもいい。
とにかく私は一刻も早く用件を終わらせて、この部屋から出たい。
本に躓いた拍子に倒れ込み唇が触れ合って…みたいな、ベタな展開に巻き込まれる可能性も捨て切れないので、足元には細心の注意を払いながらそう問いかける。
「二年前の大規模な崖崩れを覚えているでしょう? あの道路の開発責任者は私だったのですよ」
そう言って、クリス先生は眉を下げる。
「あなたには心から感謝しています」
クリス先生は右手を自身の胸に添え、頭を軽く下げながら言った。
はて、私はなぜクリス先生に感謝されているのだろうか。
「クリス先生? 先生があの道路の調査と設計をなさったことは存じておりますが、私が先生にお礼を言われる理由に全く心当たりがないのですけれども」
教師であり天才博士であり伯爵令息でもあるクリス先生に頭を下げ続けられているこの状況は、居心地が悪いことこの上ない。
私の言葉を聞いて、クリス先生が笑みを漏らした。
「あなた自身が何かをしたわけではありません。それでも、あなたがつくった施設のおかげで、あの崖崩れによる死傷者が出なかったのです。私はあなたに、二年前からずっと礼を言いたいと思っていたのですよ」
…なんてこった。
私は彼を“担任教師”としてしか見ていないけれども、彼は私に対して“大勢いる生徒の一人”以上の感情を抱いているのか。
もちろん今のところ、それが恋愛に発展するかどうかは定かではない。
けれども、彼の人生におけるモブであろうという私の思いは、早くも打ち砕かれてしまった。
「本当にありがとうございます。あの事故に第一王子が巻き込まれていたら、私の状況はさらに悲惨なものとなっていたでしょう」
呆然としていた私だけれども、クリス先生のその言葉に違和感を抱く。
“さらに悲惨な状況”?
「クリス先生、あの事故はクリス先生のミスで発生したものではないと聞いております。それであっても、あの事故によってクリス先生の周囲に変化があったのでしょうか?」
つまりは、周りから批判されたりしているのかということ。
エルヴィス様はないと言っていたけれど、彼だって世の中の全てを把握しているわけではない。
私のその質問に、クリス先生は力なく微笑んだ。
「当然のことでしょう。第一王子が通過する予定だったということで、あの道に最も詳しい私は暗殺未遂の容疑も掛けられました」
エルヴィス様からは聞いていなかった内容に、そして想像以上に重い容疑がクリス先生に掛けられていたことに驚愕する。
「もちろん、神に誓ってそのようなことはしていませんし、すぐに容疑は晴れました。しかし、やっていないことの証明ほど難しいものはありません。いまだに私を疑わしく思っている人間がいても仕方がないことなのです」
クリス先生はそう言うけれど、私の頭の中には一つの疑問が浮かんだ。
「私は土木事業に関する知識は一切ありません。先生がおっしゃるように、日時を正確に指定して崖崩れを発生させるようなことは可能なのですか?」
前世に存在したような、大きな重機を何台も用いれば、あるいは可能なのかもしれない。
しかし、そのような機械がないこの世界で、そんなことができるとは思えない。
「専門家として言わせていただくなら、不可能です。けれども、私が何を言っても説得力はないでしょう。私を疑う者が無知であればあるほどにね」
そう言いながら疲れたような笑みを浮かべるクリス先生は、見ていて痛々しくなる。
けれども、やはり私は首を傾げる。
クリス先生が言う“先生を疑う者”とは、一体誰なのか。
エルヴィス様がないと言い切ったのだから、それは王子よりも博士に近しい人物なのだろうか。
官僚ではなく、同じ立場の博士や教師とか?
「…長々と居座ってしまって申し訳ありません。そろそろ失礼しますね」
唐突に話を切り上げた私に、クリス先生は柔らかな表情を浮かべる。
「いえいえ、こちらこそお時間を取らせましてすみませんでした」
クリス先生の返事を聞いて、私は扉に手を掛けたけれど、ふと思いついてクリス先生の方へと身体を向ける。
「先生。私は貴族社会に疎いうえに、学問の世界についてはほとんど何も知りません」
急にそんなことを言い出す私に、クリス先生はきょとんとした表情を見せる。
「しかし少なくとも、一番の被害者になりえた第一王子は、クリス先生に悪い感情を抱いてはいらっしゃいません。これだけは断言できます」
必要以上に自分を責めているように見えるクリス先生が、少しでも自信を取り戻せれば。
「先生を非難する人間とは誰なのか、その者が先生を非難する筋合いがあるのか、もう一度冷静にお考えください」
クリス先生には、無関係な人間の無責任な否定の言葉ではなく、先生を本当に大切に思う人間からの言葉に耳を傾けてほしい。
クリス先生と親密度を高めたいわけでは決してないけれど、できるだけ多くの人がより幸せに生きてほしいと思う私は、甘っちょろい人間なのかもしれない。
私のような小娘に偉そうなことを言われたからだろうか。
今まで柔和な雰囲気を纏っていたクリス先生が、眉間に皺を寄せて何かを考えこんでいるような表情を浮かべた。
「それでは、今度こそ失礼いたしますね」
そんなクリス先生を目にして焦った私は、彼の返事を待つこともなく研究室を後にしたのだった。