91.損な役割は承知の上です
「あぶぅ!」
いきなりイヴが叫んだ。拳を突きあげたポーズに、リリスがくすくすと笑う。
「どうしたの? その姿、かっこいいわね」
ぶぅ……不満そうな声を漏らしたイヴがきらきらと光り、リリスごと消えた。何が起きたのか理解できなかったベールは、同じく呆然とするヤンと目を合わせる。互いにしばらく見つめ合った後、ヤンが先に動いた。
「ベ、ベール大公閣下、姫が消え……え? 消えましたぞ!!」
混乱しまくりながらも事実を並べる。姫がどちらを指しているのか不明だが、問題はそこではなかった。イヴが消えたのもリリスがいなくなったのも、同様に魔王ルシファーの暴走を招く。我に返ったベールが、先に混乱したヤンを宥めるように言い聞かせた。
「私が後を……ですが城を留守にするのは……」
後を追いたいが、魔王城の留守番がいないのは困る。アスタロトが欠けた今、ベルゼビュートが付いて行ったことが悔やまれた。世界樹に詳しいベルゼビュート、分析能力に長けたルキフェル。どちらを呼び戻すか迷うベールに活を入れたのは、意外にもヤンだった。
「閣下! すぐに我が君にお知らせしましょう。我が君に姫を追っていただけば、すぐです!」
「わかりました」
声のみで状況を伝える通信を送り、ベールは巨大なフェンリルに近づいた。上位者に指示をしてしまったと恐縮する彼の耳や首を丁寧に掻く。
「助かりました。さすがは森の王です」
恐縮するヤンの後ろに現れたルシファーが、勢い込んで尋ねる。
「ベール、リリスはどこにいた?」
「ここです」
指さした場所に立ち、ヤンを手招きした。
「ヤン、来るか?」
「はい!」
大喜びで尻尾を振ったヤンが飛びつくと同時に、魔王ルシファーの純白の姿は揺らいで消えた。転移を終えた上司とフェンリルを見送ったベールは、溜め息を吐く。本当に、悪い人ではないのに騒がしい。もう少し魔王らしい落ち着きを手に入れてくれたら……いえ、その時点で陛下ではありませんね。
騒動に慣れる方が早い。いつもと同じ結論に至り、空を見上げた。いつも通り、空は美しく澄んで変化はない。だから魔王妃リリス様も娘イヴ様もご無事で、陛下が連れ帰ってくる。そう自らに言い聞かせ、留守番という立場のじれったさを飲み込んだ。
損な役割と表現したリリスの慈愛に満ちた表情を思い出す。早く帰ってくればいい。そう願いながら、ベールは長いローブを翻した。
「あらぁ」
リリスは思わぬ状況に目を見開いた。美しい光に満ちた世界が、徐々に黒くなっていく。それは燃える炎の形をしていた。イヴが「あぶ、ばぁ!」と手を振り回すたび、炎は遠ざけられる。どうやら消火を手伝っているらしい。
「ふふっ、ママも手伝うわね」
娘イヴが頑張っているのだから、母親である私がただ見ているわけにいかない。そう呟いたリリスが魔力を水に変えて広げた。触れた黒い炎が消えていく。実際の炎は黒ではないだろう。これは世界樹の内側だ。世界樹が見る景色を投影していた。
光に満ちた美しい世界を、炎が焼いていく。魔の森の娘と孫がそれを防ぐために力を振るう。まるで何かの符号のようだった。ルーシアがいたら上手だったでしょうね。そんな感想を抱きながら、リリスは彼女の持つ魔力のイメージを取り入れた。
ふわりと柔らかく、形を問わずに動きまわる。優しくて、でも厳しい。水を体現したような友人を思って作り上げた水の魔法は、世界樹の炎上を内側から食い止めた。
「リリス、イヴ! 無事か?」
飛び込んだルシファーが驚いた顔をした後、二人を大切そうに包み込む。その背に白い翼が4枚現れ、はらはらと散った。花びらのように舞う羽が黒い浸食を消し去る。
「っ、ルシファー?」
「陛下?!」
ルキフェルとベルゼビュートの声が聞こえ、いつの間にか世界樹の外へ弾き出されていたことに気づく。ヤンはやはり世界樹の内側に入れず、しょんぼりと項垂れた。
「今回は緊急事態だもの、入れる者が限られちゃったのよ」
慰めるリリスに、ヤンはくーんと鼻を鳴らす。見上げた巨木は、やや焦げたものの元気そうに葉を揺らした。




