481.目を疑う不思議な消え方
アスタロトが動かないなら、緊急性はないはずよね。ベルゼビュートはそう判断した。犯人を見つけるまで邪魔をせず、見失わないよう着いていけばいい。
魔の森は精霊女王にとって庭のようなもの。生い茂る木々や草も、長く伸びた蔓も邪魔をしない。けれど、獣人には歩きづらい環境のはずだった。ルーサルカは半獣人で、人族の血が入っている。だから獣化は出来なかった。
獣化した獣人は、魔獣と同じように森を自由に歩き回れる。しかし人の形をしたままなら……木々の枝は行手を遮り、足元の草や蔓は絡みつく。躓いたり手で払う様子もなく、ルーサルカは歩き続けた。
「あの子、操られてるのかしら」
あまりに普段と違う足音や姿勢に、ベルゼビュートは眉を寄せた。あんなに猫背な子ではない。なにより、足音がまったく違った。
アスタロト大公夫人アデーレの教育を受けて育ったルーサルカは、その姿勢の良さや美しい立ち姿で有名だ。獣人系はこんなに足音を立てない。不審が募る一方、ベルゼビュートは首を傾げた。
アスタロトはまだ動かないの?
犯人が見つかるまで我慢する気だとしても、珍しいわね。この時点で怒って魔力を手繰りそう……そこでベルゼビュートは目を凝らす。違和感の正体に気づいた。
「……魔力がない?」
操る魔力が感じられないだけでなく、ルーサルカの魔力も感じ取れない。これは見失ったら終わりだと、冷や汗が背を濡らした。
アスタロトが影に潜んだのは正解ね。逸れる心配がない上、尾行に気づかれないわ。影に潜んだアスタロトは異次元にいるため、魔力が漏れ出すことはなかった。
突然、ぴたりと足を止めるルーサルカ。ベルゼビュートは足元の茂みに蹲った。ピンクの髪は目立つので、代わりに小さな精霊と視界をリンクさせる。ふわふわと漂う精霊は、しっかり目撃していた。
「っ! うそぉ!!」
魔力も魔法陣もなく、ルーサルカが消えた。転移のように一瞬でいなくなり、魔力の痕跡もない。思わず叫んで立ち上がり、駆け寄った。彼女が立っていた場所は、踏みしめた跡がある。しかし穴もなければ、魔法の痕跡も感じられなかった。
「消えちゃったわ」
呟いた後、大急ぎでルシファーへ念話を送る。ついでに自分が見た映像も添付した。これで状況が分かるといいけれど。
「ベルゼ、お前……寝てたのか?」
「起きてますわよ!!」
転移してきたルシファーに、夢でも見たのかと言われ、むっとして反論する。指差した足跡の前で、ルシファーが屈んだ。リリスは周囲を見回し、耳を澄ませるような仕草をする。手を耳に当てて、遠くの音を聞こうとするような……。
「転移のように消えたんだったな」
「ええ、一瞬でしたわ。それに加えて歩き方も姿勢もおかしかったですし。おそらく意識を乗っ取られていたと思いますの」
魔王と女大公の話を聞かず、リリスは森の声に耳を傾けた。木々が知る情報を探り、親友の気配を追う。目を閉じてじっと動かずにいたリリスは、足元を指差した。
「……地下水脈があるわ」
魔の森にとって血管のような存在だ。地下水脈は、地脈とは別だった。大切な栄養素を運ぶ水が血管なら、魔力を流す地脈は神経のようなもの。どちらが欠けても、森は機能しない。
「地下水脈を通ったのか?」
ルシファーの頭の中に、過去の事例が浮かんでは消える。魔族で水に属する種族はいくつか思い浮かぶが、水脈を利用した事件は覚えがなかった。
「この水脈、流れがおかしいの。まっすぐ海に通じてるわ」
魔の森の娘は、確信を持って指摘した。この水脈の先に海があり、犯人も拐われた人もそこにいる――と。




