460.食べるなら生か焼くか
バターの焦げる香りに誘われ、ルシファーの喉がゴクリと鳴る。魔王城の料理長を務めるだけあり、料理の腕は自他ともに認める強者だ。さらに彼は火の精魂族なので、火加減も完璧だった。
「うん、これも美味い」
ほろりと崩れる絶妙な火加減、バターの香ばしさ、ハーブの味わいが見事だ。満足するルシファーの様子に、別の料理が差し出された。皿の持ち主はアンナである。
「アベルに任せたのが失敗だったわ。私ならこれを出すのに」
文句を言う割に、出てきた料理は赤身魚が生のまま。アベルと大差ない気がする。だが上に黒い醤油ではなく、オリーヴオイルがかかっていた。ハーブが色とりどりに散らされ、食べられる花も載っている。見た目は完璧だった。
「これは……」
「カルパッチョ。私は白身魚の方が好きだけど、あっちがバターなんて卑怯技を使うなら、差し替えるわ」
「卑怯だと!?」
「ええ。香りのいい食材で、魚の風味を台無しにしたじゃない」
むっとした口調で言い返すアンナの後ろで、双子がウォームアップしている。母に何かあれば、魔王チャレンジ強者が乱入する予定のようだ。これはマズイ。料理は美味いが、非常に危険だ。
「お二人とも、オリーブオイルとバター、どちらも許可しますので味で勝負してください。勝っても負けても、この場限りですよ」
アスタロトがさっと介入する。彼に逆らう気はないようで、二人は頷いて背を向けた。出された生魚は、臭みがない。口に入れてもオリーヴオイルが香った。ハーブもいいアクセントで、砕いた胡椒がぴりりと味を引き締める。
作った二人もそれぞれに味わった。微妙に「してやられた」顔をしているが、言葉にせず唇を噛み締める。
「では投票しましょう」
完全に仕切ったアスタロトの号令で、それぞれが筆を滑らせる。文字で書くのは半数ほど、ヤンや人魚は料理の皿の色で投票した。魔獣は文字を読めるが、あの手で書くことは不可能だ。人魚は単純に文字を知らなかった。
魔族の投票では無記名はあり得ない。今回は投票する内容を書いた紙を、本人が掲げる形になった。強さを尊ぶ魔族にとって、無記名投票は弱さの象徴なのだ。実際は全く強さと無関係なのだが、そう簡単に慣習は変わらない。
最初にルキフェルが「カルパッチョ」と記入した。刺身の段階から、生魚に喜んでいたっけ。ドラゴン種は味覚が近いようで、レライエも同じ答えだった。ただ、紙に書いたのは料理人であるアンナの名前だ。意味は通じるので、有効票とする。
というより、うっかり無効票を作ったら奇数にした意味がない。
「私はこちらの方が」
サタナキア将軍はバターの風味に釣られて、イフリートに一票を投じた。彼に続いたのは、魔王ルシファーだ。どうしても食べ慣れた味に引っ張られた。
「どうも食べ慣れない味は投票しづらい」
もっともな意見とアンナも納得する。ここから意外な展開となった。
人魚はもちろん生魚……と思いきや、ここにきて裏切りのバター焼き! なんでもバターは初めての味覚で、仲間にも勧めたいと力説された。イフリート有利と思われた状況で、ヤンが生魚派として手を挙げる。
「魚肉も生が一番ですぞ」
刺身もカルパッチョも好きだと言い放った。ここで半々なのだが、残ったのはドワーフの親方のみ。彼は長いこと唸って考え、カルパッチョを選んだ。その理由が、いかにも彼らしい。
「酒を飲んで出される料理は、すべて濃いめの味付けでバターや塩が強い。これはさっぱり食べられるのに、酒と合う!」
いつの間に取り出したのか、麦酒のグラスを傾けながら力説した。その後ろから羨ましがる同族の声と、後でしばき倒すと息巻く奥方の睨みが飛んでくる。
最終的に4対3で、アンナの勝利となった。
「……刺身の立場が……」
嘆くアベルだが、刺身を広めるのは別の機会になりそうだった。




