450.悪いことばかりではなかったので
お茶会を終えたアスタロトは、妻アデーレと漆黒城に戻った。娘モルガーナの顔合わせも終わっている。あんな話の後でのんびり書類処理もないだろう。
好奇心旺盛なリリスはあれこれ尋ねたいようだが、聞きたいなら魔の森リリンの方が詳しいはずだ。そう突き放して帰ってきた。
「疲れましたか?」
「それは私が掛ける言葉です。ゆっくり休んでください、アデーレ。モルガーナも」
何もなかったように振る舞う夫をじっと眺め、アデーレは小さく頷いた。妻としては甘えて弱さを見せて欲しいが、アスタロトにその気はない。ましてや待望の娘が生まれたばかりで、頼れる父親を目指しているのだから。
察して引くのも甘やかしのひとつね。アデーレは挨拶をしてアスタロトの頬に手を当てる。ゆっくり撫でて、穏やかな仕草で一礼して踵を返した。思わしげな態度に出たのは、彼が鈍いから。
魔族は長寿な者ほど性格が苛烈で幼い。精神面は寿命と真逆で、成長速度が反比例した。あの幼さでは、アスタロトの寿命はまだ尽きそうにない。一緒に逝きたいと思った頃もあったけれど、今になれば悪くないとアデーレは考えていた。
「相談できる人なら、呪いを飲んだりしなかったでしょうね。あなたのお父様は意地っ張りなのよ」
ふふっと笑って、モルガーナをベビーベッドに寝かせる。久しぶりの外出で怠い体を横たえた。見上げた天井に小声で何かを呟き、目を閉じる。眠りはすぐにアデーレを包んだ。
「……あれでよかったと、思っています」
足元で跳ね回る子犬を捕まえ、膝の上に置く。大人しくなったアスモデウスの頭に手を置き、撫でるでもなく溜め息を吐いた。
後悔はしていない。もしあの場で呪いを逃したら、ルシファーが犠牲になった可能性が高い。包容力がある彼のことだ。苦しむ呪いの声が聞こえたら、受け入れようとするはずだった。
黒いモヤのような影を飲んだことで、この身は変化した。吸血種の特徴である吸血衝動が薄れる。それに伴い、影を自由に操れるようになった。これは同族である吸血鬼に見られない能力だ。
恨みを晴らす器を欲しがったくせに、呪いは体内で暴れなかった。過去にも暴走したのは数回だけ。どれも宿主であるアスタロトの危機に反応した形だった。押さえつける力が弱まると動き出す、そう考えていたが……もしかしたら逆かも知れない。
ようやく落ち着ける場所を見出した呪いは、外に出たくない。だから宿主を長生きさせようと試みた。にも関わらず危機に陥ると、アスタロトを救うために外へ出てくる。その状態が、凶化だとしたら。
「ずっと共存すればいい。ただそれだけのことです」
不意打ちを食らわねばいい。大公や魔王と戦わなければ、呪いは穏やかに眠り続ける。この世界を創り上げた魔の森の意思ならば、従うのも悪くないでしょう。
窓の外で、ざわりと葉の揺れる音がした。城の周囲は森だが、葉擦れの音が聞こえるほど近くに木々はないはず。芝の丘に建つ漆黒城は、森にぽっかり開いた穴の中央に位置していた。
「おや……何かありましたか」
窓辺に一本の木が立っていた。突然生えてきたのだろう。急成長した木は、細くて長い。魔の森リリンの分身だと思い、丁寧に挨拶をする。近づいて木に触れると……ざわりと肌が粟立った。
「っ!」
引こうとした指先を包むように木が枝を伸ばす。アスタロトに触れる葉はすぐに黒くなり、枯れて落ちた。
「……薄く?」
呪いが薄まっている。驚きに目を見開くアスタロトの目の前で、木は枯れて朽ちた。まるで最初から生えていなかったように。それは魔の森がアスタロトに齎した、ひとつの奇跡だった。




