398.姫に手出しはさせぬ
もふもふでふかふか、ヤンの背中にしがみ付いたイヴはご機嫌だった。いつもより速いし、勢いもある。大興奮しながら、目を見開いた。
ヤンはすっかり忘れている。背中に幼児が乗っており、その子が大切な主君のお嬢様だという事実を……。全力で走り、薬草がありそうな草原まで抜けた。途中でイヴを落とさなかったのは、単に運が良かっただけ。
背に誰か乗せていれば、高さや幅などを考慮して走る場所を選ぶ。ぶつけて落としてはいけないし、振り落とさないよう速度も調整した。それがまったくない状態で、イヴは躍動する獣の走りを堪能したのだ。
「しゅごいね! ヤン」
大喜びでヤンに声を掛けた幼女……その声に一番驚いたのはヤンだった。びくりと大きく全身を揺らし、小山ほどもある巨体が見る間に小さくなっていく。牛程度のサイズで、ぎこちなく振り返った。
柔らかな象牙色の肌、黒い髪に銀色の瞳。愛らしい顔立ちの幼女がにこにことヤンを撫でる。四本の脚が震え、がくりと崩れ落ちかけた。しかしイヴを落とせないと踏ん張る。前脚を畳み、ゆっくりと伏せた。
「イヴ姫、降りていただけますか」
「うん、いいよ」
低くなった背中を、お尻で滑り降りる。イヴは走ってまわり込むと、正面からヤンを抱きしめた。
「ぎゅ! ヤンはすごいね」
今度は言えた。噛まなかったことが嬉しいイヴはさらに笑顔を咲かせる。青ざめたヤンは、どうしたものか困惑していた。
まさか、我が主君のお嬢様を誘拐することになるとは!?
降ろし忘れただけなので、そんなに大それた罪ではない。そもそもルシファーなら、笑って許すレベルだった。だが混乱しパニック手前のフェンリルは、このままでは一族存亡の危機と焦った。
他の獣に襲われぬよう気を張り、耳を澄ませる。すぐ追ってくると思った主君が来ない。討伐隊を組織されたのでは? まさか、先に一族を滅ぼしてから我を捕えるのか。
悪い方へ進み始めた思考は、誰も止めてくれなかった。いや、止める人がいない。イヴは足元に生えた小さな白い花を摘み始めた。鼻歌を歌うが、やや音が不安定だ。母親の歌を真似たせいだろう。耳コピーの弊害である。
ルシファーが何度も直したので、ほんのりズレた感じは何とも味があった。これはこれで、そういう曲だと言われたら納得する。人一倍どころか、獣の聴覚はかなり優れていた。微妙な音の歪みやブレは、増幅されてヤンの精神を削っていく。
「イヴ姫を隠し、知らなかったことに」
ぶつぶつと物騒な方向へ進む思考は、茂みをかき分ける音で途絶えた。はっと顔を上げたヤンから数歩先で、イヴは花を摘んでいる。その向こうに大きな魔物がいた。黒が混じる焦茶の毛皮が見事な魔物は、脚が六本ある。外見で近いのは、牛だろうか。日本人がいれば「バイソンとか?」と首を傾げただろう。
やたら頭の大きな、角がある魔物は長毛だった。ぶふっと妙な音を吐き出し、威嚇するように角をこちらへ向ける。ヤンから見た直線上で、イヴは白い花を片手に立ち止まった。魔物はあの歌で興奮したのか、イヴに狙いを定めている。
ぐぉおお! 吠えた魔物が走り出し、ヤンはさっきまでのパニックを放り投げて全力で威圧した。
「我が前で、姫に手出しはさせぬ」
威圧は真っ直ぐに放たれ、イヴにも直撃した。驚いて泣き出したイヴに突進する魔物バイソンに、ヤンは巨体をぶつける。フェンリル本来の大きさに戻った勢いで、バイソンを押し倒した。魔物より知能が高く、森の獣王と呼ばれるフェンリル相手に、バイソンもどきが勝てるわけはない。
魔力を帯びたフェンリルの毛皮を貫けぬ角は折れ、圧死したところで、ヤンはほっと息を吐いた。
「素直に詫びよう」
きっと我が君は許してくださるに違いない。まだ半べそかいたイヴを背に乗せ直し、狩ったばかりのバイソンを咥える。幸いにして薬草はイヴが採取していた。白い花がついた薬草の葉を使うのだ。ぐるりと見回し、ヤンは背の幼子を落とさぬよう注意して走った。




