339.アスタロト大公の出仕禁止
久しぶりにのんびり過ごすアデーレは、漆黒城の庭先にいた。魔王ルシファーが仕事の中止を言い渡したので、引き継ぎを済ませてすぐ戻ったのだ。
普段は魔王城で泊まり込みなので、別荘滞在に似た感覚だった。
丘陵に立つ黒い城は、吸血種にとって重要な拠点だ。広い地下室は、城の主人であるアスタロトが作った魔法陣で拡張されていた。
長い眠りに入る際は、この地下室の一角を広げて利用するのが一般的なのだ。理由は同族が本気で守ってくれるから。眠る吸血鬼は非常に無防備だった。そこで自分が起きている時は守る側に回り、眠る時は守られる。お互い様の精神だ。
そこに加え、魔王の腹心である吸血鬼王の城は、防御魔法陣が常時発動している。緊急時の避難場所に指定される程だった。何より、あの恐ろしいアスタロト大公の城に攻撃を仕掛ける勇者は、魔族に現れないだろう。居たとしても瞬殺される。
まだ膨らんでいない腹をゆっくり撫でる。妊娠するつもりで襲った夫だが、意外にも情熱的に相手をしてくれた。ぬか喜びさせたくなくて、ギリギリまで判断を待って報告する。
衆目の的で告げるつもりはなかったが、あの時は仕方ない。仲裁も兼ねて、周囲の意識を逸らすことに成功したのだから。大成功ではないだろうか。
「ふふっ、隠せないものね」
魔王ルシファーを筆頭に、魔族は子どもに甘い。幼子や赤子は無条件で保護され、親が罪人でも里親が愛情をもって育ててきた。魔力が多い種族ほど子が出来にくい事情も手伝い、生まれる子は大切に見守られた。
「何を隠したのですか?」
馴染んだ夫の声に、アデーレは身を起こした。手をついて振り返ろうとすると、さっと支えられる。妊娠初期は流産の心配があるので、過保護になっているのだ。
「ありがとう、あなた」
いつもならアスタロト大公と呼ぶところだが、休暇中のアデーレは「魔王城の侍女長」ではない。ならば、「アスタロト大公閣下」を夫として扱ってもいいだろう。もし侍女長になっていなければ、大公夫人なのだから。
「顔色があまり良くありませんね。ルシファー様の言う通りでした。気づかなくてすみません」
丁寧に話すアスタロトが顔を近づける。重なった唇から、ゆっくりと魔力が流れ込んだ。ぬるりとした液体を、舌を絡めながら啜った。アスタロトの血は魔力が豊富だ。量を飲まなくても、魔力や血の補充が可能だった。同族にとって、アスタロトの血は甘露な回復剤に近い。
「もういいわ、ありがとう」
体がぽかぽかと温かくなる。頬がほんのり色づいた様子を確かめ、アスタロトは表情を和らげた。
「温泉街の屋敷を借りました。一緒に行きませんか?」
「素敵ね、仕事は平気なの?」
行きたいけれど、あなたは忙しいと思うわ。そう答えたアデーレに、アスタロトは視線を空に向けた後で苦笑いした。
「ルシファー様に出仕禁止を言い渡されました。アデーレの体調が落ち着くまで、顔を見せるな! だそうですよ」
どうせ半年もしないで泣きつくくせに。そう付け加えた夫の言葉に、笑いが漏れた。
「どうしました?」
「そっくり同じことを言うんだもの。出産前の休暇を言い渡されたとき、私もそう思ったのよ。意外と何とかしてしまうのかしらね」
なるほどと頷いたアスタロトは、納得しかけて眉を寄せた。
「何とかされたら、それはそれで腹が立ちますね」
「分かるわ」
頼られ過ぎると重いけれど、自分達で解決されると寂しいの。頼って欲しいし、絶対に必要な存在でありたい。その意味で、アスタロト大公夫妻の意見は一致していた。
「安定したら一度職場の様子を見に行きたいわ」
「ええ、その時は付き添いましょう」
似た者夫婦は顔を見合わせ、水入らずの穏やかな時間を過ごした。




