263.帰還はこの一言から「ぱっぱ!」
「ルシファー達、遅いわね」
「書類処理から逃げたベルゼビュートも含め、帰ってきたらお仕置きが必要でしょうか」
窓枠に肘をついて溜め息を吐くリリスに、淡々と書類を片付けながらアスタロトが同意する。その脇で、署名した書類のチェックを行うルキフェルが肩を竦めた。
「帰ってきたら、僕はしばらく研究棟に籠るからね」
ルシファーがいない間の書類処理に呼ばれ、大公3人で署名を続けている。魔王ならひとつで済む署名が、3つ並ばないと効力を発揮しない。面倒だが、自分達で決めたルールに従っていた。
「……リリス様、ルキフェル。お茶にしましょう」
「私の名を呼ばないところがベールですね」
さりげなく声を掛けずにスルーされたアスタロトが溜め息をつく。ルシファーがいないだけで、彼らの間はぎくしゃくした。叱られていようと逃げ回ろうと、彼がこの世界の中心である事実は揺るがない。実力を誇る大公達が膝を折り、首を垂れて従うのはルシファーのみだった。
要が抜ければ、纏まっていた扇はバラバラに崩れてしまう。それぞれに実力があるからこそ、衝突の可能性は高まっていた。
「リリス様、お茶を……あ、これからお茶会でしたか」
レライエがワゴンを手に飛び込んだ。ノックをしなさいと注意しようとして、開きっぱなしのドアに気づく。注意力が散漫な証拠だった。先ほど書類を届けた文官が閉めなかったのだろう。大公達は顔を見合わせ、署名の手を止めた。
立ち上がりソファへ移動する。リリスが同席したのを確かめ、レライエと一緒に顔を見せた大公女達が空いた席に落ち着いた。幹部がほぼ揃うが、ルシファーとベルゼビュートが足りない。努めて明るい声を出したルーサルカが、お菓子の皿を差し出した。
「森で採れたナッツが入っています」
香ばしい焼き菓子に手を伸ばすが、誰もが無口だった。賑やかだった過去のお茶会が嘘のようだ。しんと静まり返った中、お茶を注ぐ水音や菓子を食べる音が響いた。日常で気にならなかった音が、ひどく大きく聞こえる。
「ママ! ママ、これ」
イヴが指さした焼き菓子を半分に割ったリリスは、我が子の口に運ぶ。もぐもぐと食べるイヴは、きょとんとした顔で周囲を見回した。それから突然窓の外を指さす。
「ぱっぱ!」
「え?」
今までになかった行動に、驚いて全員が窓の外を見つめる。特に鳥も飛んでいないし、空中に人も浮いていなかった。何を指さしたのか、首を傾げた直後……圧倒的な魔力が世界に降臨する。
「陛下?」
呟いたベールの声を皮切りに、それぞれが「魔王様」や「ルシファー」と名を口にした。これほどの魔力量と質を誇る魔族は他にいない。誰とも間違うはずがなかった。唯一の主の帰還だ。
喜色満面のルキフェルが飛び出していき、慌ててベールが後を追う。大公女達もお茶のカップを放り出し、あたふたとリリスに駆け寄った。
「リリス様、よかったですわ」
「一緒に出迎えに参りましょう」
涙を溢れさせたリリスは鼻を啜り、愛娘を抱き上げた。大急ぎで歩く皆を見送り、アスタロトはぐしゃりと前髪をかき上げる。緩んだ口元を隠すように俯き、厳しい表情を作った。
「外出が長すぎるのです。きっちり叱りますから」
そう口にしたくせに、口角は持ち上がり笑みが形作られる。不器用な義父に、戻ってきたルーサルカが声をかけた。
「お義父様、早くしてくださいな」
「はい、分かっています」
アスタロトが部屋を出たのを最後に、執務室のドアが風に揺れる。通りかかった侍従のコボルトは、溜め息をついてドアを閉めた。




