213.あたくしは寛大な女王ではなくてよ?
巨大な海水の壁、日本人がいたら「津波」と呼んだだろう。初めて見る大暴走は、水の精霊族であるルーシアに強く干渉した。泣き叫び痛みを訴える海水の精霊達に悪意はない。怖い物、痛い場所から遠ざかろうと陸地へ逃げた。
己の行為が何をもたらすか、誰の命を奪うかなんて気づいていない。ただ恐怖によって混乱していた。パニックになっていたから、意思の疎通が出来なかったのね。ルーシアは深呼吸して、さらに魔力を絞り出す。その間にじりじりと転移魔法陣へ移動した。真上で、ぎりぎり持ち堪える。
海水の精霊がもたらした恐慌が、湧き水の精霊に伝播する。それに伴い、ルーシアの支配から逃れようとする者が現れた。それを強引に魔力で縛って協力させる。ごめんなさい、こんな力の使い方をして。でもあなた達が逃げてしまったら、いつも水辺で戯れる小動物や魔獣の子も死んでしまうのよ。
ギリギリまで魔力を放出し、意識が遠のきそうになる。倒れながら、後ろの魔法陣の位置を確認した。乗れば、自動的に魔王城へ繋がるはず。地脈の力を使っているから、私の魔力はほとんど要らないわ。お願い、どんな形でもいいから……家族の元へ返してね。
水の精霊や魔法陣に語り掛けて目を閉じたルーシアは、その場に崩れ落ちた。彼女が作り出した透明の壁に海水が激突する。ぐにゃりと変形しながらも、一回だけその衝撃を受け止めた。追加で押し寄せる波が壁を壊そうとした時、ルーシアは誰かの腕に抱き留められる。
「何てこと! これほどの壁を作るなんて。死んだらどうするの? それくらいなら庇護者であるあたくしを召喚なさい!」
驚いた響きから、叱りつける声に変わる。その透き通った声と柔らかな腕に包まれ、ルーシアは安堵の息を吐いた。間に合ったのね。水の精霊達が呼びに行ってくれたけれど、無理だと思ってたわ。
「壁を使わせてもらうわよ」
繋がっていた魔力の糸を断ち切ったベルゼビュートは、ルーシアから譲り受けた壁の維持に魔力を注ぐ。かなり持っていかれたが、二波目を受け止め切った。そこへ強化のために魔力を注ぐ。足元の転移魔法陣に繋がる地脈を捻じ曲げて、出口を自らの体につないだ。
これでしばらくは魔力が維持できる。後でどっと疲れが押し寄せるけれど、数日動けなくなるくらいが何なの? 腕の中で目を閉じたルーシアは、いつもより幼く見えた。こんな若い子が必死に命懸けで民を守ったなら、大公であるあたくしが奮起するのは当然よね。
元から気が強く同族や仲間への愛情が深いベルゼビュートだ。大公女ルーシアを傷つけた海水へ魔力を叩きこんだ。恐慌状態に陥って陸地を襲う彼らに、陸地はもっと恐ろしい場所だと刻みつければいい。二度と陸に逃げ込もうと考えないように。
「あたくしは寛大な女王ではなくてよ?」
ティターニア――精霊の女王を意味する単語だ。それはもう一つの顔を隠す彼女を示す隠語でもあった。魔王ルシファーでさえ滅多に呼ばない名は、世界を構成する万物に死を与える女王である。四大元素を自在に操る精霊女王ならではの、特異な力だった。
「戻りなさい、あたくしが言葉で制している間に……従わぬなら、海を死の水たまりに変えてあげる」
一気に放出された魔力で、湧水側が優勢になる。海水に汚染された大地を洗い流しながら、清らかな水は数度に渡る海水の突撃を防ぎ切った。足元を必死で逃げるリスや魔犬の子を見送り、ベルゼビュートは抱きかかえたルーシアに声をかける。
「先に戻りなさい。夫や娘達が心配しているわ」
ありがとうございます。声にならない感謝を口にしたルーシアを、転移魔法陣で魔王城へ送り届けた。自らの上に張っていた結界を解いて、ベルゼビュートは剣を召喚する。
「どこから片付けようかしら」




