166.結界の達人相手に戦うのはしんどい
振り向いたベールの目は海より深い青だった。一見すると冷静そうに見えるが、これは色の印象だけ。普段よりキツくなった目元や、物騒な笑みを湛えた口元が真逆の状態を示していた。銀の髪がふわふわと舞い上がる。海から蒸発する水分が上昇気流を作り、霧となってベールの周囲を取り巻いた。
「思ったより理性が飛んでるな」
リリスやイヴに対して、そこまで思い入れがあったのか? ルシファー自身も見当違いだろうと思いながらも、肩を竦めた。そういうことにしておこう。おそらく過去の古傷が抉られたのだ。彼は最愛の番を喪っている。その傷口をルキフェルがかなり癒したが、それでも何かの拍子に開いてしまう。
「ベール、オレを傷つける気か?」
無造作に近づくルシファーの背に広がる4枚の純白の翼が、ばさりと音を立てた。目を見開き、僅かの沈黙が場を支配する。オレを認識したな、そう思ったルシファーが気を緩めた瞬間、結界の外側にヒビが入った。
「くそっ、全然認識してなかった!」
ベールの手に握られた細い剣が結界の表面に食い込み、一番外側の結界が弾ける。魔力を込めた一撃に、ルシファーは咄嗟に収納から剣を取り出した。
がうぅ! 足元でイカを屠ったケルベロスが吠える。自分を使えと言うのだろうが、もしデスサイズを振るったら過剰戦力だ。
「ケルベロス、そのまま援護だ」
援護だけ命じ、デスサイズとして振るわない意思を示す。不満そうにしながらも、ケルベロスは宙を駆けあがった。元が魔力を帯びた不定形の生物だ。空を飛ぶくらい簡単にこなす。
キンッ、二枚目の結界に剣を縦に刺そうとするベールの姿に、ルシファーは溜め息を吐いた。これは厄介だ。本気で殺しに来てるから、オレどころか誰も認識できない状態だった。何らかの方法で気絶させるか、冷静になるまで隔離だな。
作戦を練りながら、二枚目の結界の内側へもう一枚追加した。内側から押し出すように結界を複数追加する。割られる間に手を打とう。
そんなルシファーの姿にヤキモキするのは、外部の者だ。一度撤退を命じられた魔王軍の精鋭であるドラゴンは、現時点での上司に当たるルキフェルに突撃を具申する。だがベルゼビュートに一蹴された。
「陛下は勝てないんじゃなくて、勝たないのよ。あの方が本気で力を振るったら、ベールが粉々に……って、ちょ! ルキフェル?!」
無言で聞いていたルキフェルが魔法陣を足元に投げ、転移で消える。残された魔法陣が、盾となる結界を維持していた。慌てたベルゼビュートがその魔法陣に魔力を流し、さらに強化する。
結界を纏めて割られたルシファーの上に、ケルベロスが飛び出す。真っ二つに斬られる寸前、ルシファーが「デスサイズ」と呼び変えた。鎌の刃が、ベールの剣の軌道を逸らす。結界に長けたベールとの戦いは、思ったより厄介だった。
結界の僅かな綻びを探り当て、無意識にそこを突いて来る。舌打ちしたルシファーが手足の一本は後でくっつけると乱暴な理屈で、デスサイズをベールに向けた。迎え撃つベールの表情が険しくなる。ほぼ同時に動いた二人の間に、水色の髪の青年が現れた。
「っ!」
「くそっ、間に合うか」
軌道を変えたルシファーがデスサイズを散らす。元が物理的な刃ではない鎌は、ルキフェルの結界に触れて消えた。外側にヒビの入った結界に、ベールの刃が迫る!
キンッ、甲高い音で弾いた。と同時に真っ赤な血が噴き出す。ルキフェルの水色の髪に、赤い血が広がった。叫ぶリリスが顔を逸らし、イヴの目元を手で隠す。
「ロキちゃんが!?」
「違うわ、あれは……っ」
息をのんだベルゼビュートの叫びに、後ろのドラゴンからも悲鳴や呻き声が漏れた。




