本当なら良い休みだったのにな
これは、ある春の休日。
10歳の少年と、その両親が暮らす家で起きた出来事だ。
ガララ……
僕は、玄関の開く音で目を覚ました。
あれ、今何時だ?学校、行かないとな。
まだお母さんが起こしに来ないから、僕は心配になったが、デジタル時計の日付を見て安心した。
ああ、なんだ、今日は土曜日だった…。
時計はもう9時を回っていた。僕はとりあえず顔を洗おうと思い、一階の洗面所へ向かった。
階段を降りようと、一歩踏み出した時だった。一階の廊下を見て、僕の心臓がドクンと跳ねた。
そして反射的に身を隠した。
誰だ…?あれ、
はっきりとは見えなかったが、大人くらいの身長で、全身黒の格好をした何者かが、家の中にいた。
目が合わなくて良かった。
お父さんとお母さんは共働きだから、今の時間ならもう仕事で家を出ているはずだから違う。
怪しい人だ…。
鼓動が速く、苦しくなった。
ふと、さっき玄関の開く音がしたのを思い出した。多分あの時に入ってきたのだろう
まさか泥棒?もしそうなら、どうしよう……。
何か盗まれてるかもしれない。
そのうち、僕の部屋にも来るのだろうか。
相手は、武器を持っているかもしれない…。
あ…
ぐるぐると考えているうちに、僕は、とあるもう一つの考えに至ってしまった。
相手、“殺人鬼“だったりして…
その時、体がゾワッとした。
凶器を持っているのを実際に見たわけではないし、断言はできないが、格好がすごく怪いため、可能性はあるのかもしれない。
だけど、もし本当に今自分のいる場所のすぐ下にいるのが、殺人鬼なのだとしたら…
そう思うと、僕はとても怖くなり、その場に固まってしまった。
5分程経っただろうか。ヤツは、まだ一階にいるようだった。
そうして僕は、やっと考えをまとめた。
ここから逃げよう…!でも、どうやって?
今僕のいる場所は二階で、その下はアスファルトなので窓から逃げるのは難しい。一階にはヤツがいて、どこの部屋に行ったかは分からない。
う〜ん…
そして僕は、家の中で絶対に見つからないような場所に隠れようと決めた。
8分後…
よし、ここなら…、絶対に見つからないな。少し狭いけど、これくらい我慢しなくちゃ。
僕の隠れた場所は、僕の部屋の隣の、お父さんとお母さんの部屋のクローゼットの中だった。
二階にある物で、使えそうなのをできるだけ集めた。
手元には、ガムテープ、カッター、ハサミを置いた。
ガムテープは、クローゼットの内側に頑丈に貼り付けた。もし開けられてしまっても、少しでも時間を稼げるようにとそうした。
開けられた時に、カッターとハサミで攻撃する案も考えたが、それには抵抗があり、これは御守りとして置いておこうと思った。
クローゼットの中には、お母さんのコートがいくつか掛けてあったから、僕はそれで身を隠した。
あれこれ考えても疲れてしまい、怖くなるため、僕は目を閉じることにした。
最善は尽くしたつもりだったが、僕の心は不安でいっぱいだった。
クローゼット中はちょうど良い温度で、心地良く、このまま眠ってしまおうかとも思ったが、もし寝息が聞こえては困るため、僕は我慢した。
けれど、だんだん瞼が重くなり、僕はとうとう眠ってしまった。
目が覚めると、真っ暗で何も見えなかった。
そうだ、ここはクローゼットの中だ。
どれくらい時間が経っただろう。ヤツはあれからどうしただろうか。
外から話し声が聞こえた。
その時、僕は初めて、希望が与えられた気がした。
もしかして、近所の人が通報してくれた…?
そう思うと、なんだか涙が出てきそうになった。
そうだ!お父さんとお母さんにも連絡がいって、みんなで僕を探しているのかもしれない…!
そうだ…そうに違いない!
あ…良かった、僕は助かったんだ。
すっかり安心し、胸の中が希望に満たされた僕は、閉ざしていたクローゼットの扉を、自ら開いた。
ガムテープの剥がれる音が響き、見えたのは…
え…?
そこには、僕の家族の部屋のソファーで、まるで自分の家のように寝転がる、黒い格好の怪しい男の姿があった。
僕は、テレビがついているのに気が付いた。
先程の話し声の正体は、テレビの音声だったようだ。
なんだ…
助けが来ているわけでも、みんなが僕を探しているわけでもなかった。
その事実に、僕はようやく我に返った。
ガムテープの剥がれる音や、クローゼットの開く音で、大きな音をたててしまったが、反応が何もなかったので、寝ているのだろうと思った。
テーブルに、ビールの空き缶やらお菓子の空やらが散乱しているのを見て、全部僕の家から盗んだものだろうと思うと腹が立ったが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
今は、逃げないと…!
ヤツが寝ている今が、最大のチャンスだと思った。
僕はゆっくりクローゼットから出て、できるだけ音をたてないように、でも素早く逃げた。
すごく怖くて、すごく必死だった。
階段を下り、そしてついに、玄関の戸を開け外へ出た。
ガララッ…
はぁ、はぁ…
暑い日差しを、一気に全身に浴びた。家の中にいる時は、外がこんなに晴れていることに気が付かなかった。
でも、これでもう大丈夫だ…
その時僕は、家の車庫に駐めてあるお父さんの車を見つけた。
「えっ…?」
そっか、でも、あれ…?
“お父さん今日、仕事休み…? ”
僕は一度、頭を整理し、よく考えてみた。
今日お父さんが仕事なのって、僕の勘違い…?
ということは、階段の下で見た黒い服の男も、ずっと僕の家の中にいるのも、さっきソファーで寝ていたのも、
まさかお父さん…?
その瞬間、僕の今までしていた行動が、なんだか分からなくなり、とても恥ずかしいものだったと気が付いた。
なんだよ、もう、紛らわしいんだよ…。
でも…何もなくて、本当に良かった。
結局、殺人鬼などいるわけもなく、全て自分の思い込みだったことが分かり、僕はそっと胸を撫で下ろした。
そうだ、今日は普通の土曜日の朝なんだ。今までのことは全部僕の妄想。
全く、僕は小説の読みすぎだよ…。
アスファルトの地面から視線を離し、上を見上げると、雲一つない快晴。青く澄んでいて、とても綺麗な空だと思った。
何故だろうか、今まで見た中で一番と言って良い程、綺麗な青色だった。
ああ、今日はこの後どうしようかな。お父さんも休みだし、頼めば車でどこかに連れて行ってもらえるかもしれない。…楽しみだなあ。
あれっ…?
よく見ると、お父さんの車の横に、大きな水溜まりができているのが見えた。
そしてその中に、太陽に照らされてキラリと光るものも見つけた。
ん、なんだろう、ガソリン?
遠くからだと反射してよく見えなかったから、僕は近くにいってみることにした。
そこには…
え、何これ…血?
車庫のコンクリートの床に、どろどろの赤い液体が、大きく広がっていた。
どうしてこんなところに、どうしてこんなにたくさんの量…。
僕はなんだか、いや、すごく気持ちが悪いと思った。
「あっ…」
僕は見つけた。
その赤黒く、鮮やかな液体の中に沈んでいるのは、お父さんの腕時計だった。
事態を把握しきれていない僕は、ただそれを見つめることしかできず、後ろから黒い服を着た男が、怪しい笑みを浮かべて近づいて来ていることに、気づかない。