第一話 見知らぬ女性
そこは見知らぬ空間だった。
目の前には、リビングなどで見かけるダイニングテーブルが置いてあり、その上にはばら撒かれた書類があった。
「ここは、何処だ?」
誰もいないその空間で、一人静かに呟くのだった。
もちろん、返事など返ってくるはずもない。
この場には自分一人しか、存在しないのだから。
それが当たり前で、常識なの筈だ。
しかし、この場では違った。
「ここは、貴方の為に用意した、憩いの場ですよ? どうです、気に入ってくれましたか?」
柔和な女性の声が、四方八方から聞こえて来る。優しく問いかけるようなその声に不快感はなく、奇妙にも心が安らいでいた。
「えっと、その……」
突然の問いに、答えを窮してしまう。特にこれといった感情があった訳ではない。
それ故に、どう言い表すべきかに迷いを感じてしまった。
「ふふっ、無理に答えなくても良いのですよ? そんなところも愛おしいですから」
もし、声の主が目の前にいるのなら、その人は優しく微笑んでいるに違いないだろう。
そう思わせてくれる声に、ほんの少しの安堵感を覚える。
「それよりも、そろそろ貴方の前に行きますね? せーのっ!!」
掛け声に合わせて、ポンッと弾けるような音と共に姿を表したのは、この世の存在とは思えない程に美しい、女性だった。
女性が現れたその瞬間、自分を含む世界の時の流れが、刹那にして揺らいだように思えた。
まるで悠久の時を一瞬で感じるように、瞬刻を永遠とも捉えるように、世界に、いや自分自身に何かを与えたのだろう。
「……綺麗、ですね……」
自分が思った時には、口をついて出てしまっていた。
率直な感想ではあるものの、それ以外に形容できる言葉はなく、またそれ以外の言葉を必要とはしていなかった。
「うん、ありがとう。貴方も、カッコいいわよ?」
女性の甘く惑わす声に、脳裏が焼き尽くされる。たった一言の言葉ではあるものの、その言葉は今まで受けたどの言葉よりも、愛おしく純粋で美しかった。
「……ありがとう、ございます……」
「ふふっ、どういたしまして」
今の状況を口で説明するのならば、簡単なことだ。だが、それに含まれる感情は、聞いた者全てには伝わらないだろう。
だが、あえて言おう。
今、単純にお互いがお互いを褒めあっただけの話だ。
だから言っただろう?この感情は、誰一人とて伝わりはしないと。
「ん? どうしたの、そんなに難しい顔をして?」
優しく首を傾け、心配そうな瞳でこちらを見つめている。
その瞳を見れば、以下略。
特に難しいことを考えている訳ではないが、どうも一人でに舞い上がっていることを理解する。
一度、深呼吸を置き、心を落ち着けてから言葉を口にする。
「あー、いえ、大丈夫ですよ? それより、俺は何で、こんな場所に?」
ようやく話が進む。
自分自身の一番最初の疑問を、目の前の女性に問いかける。
彼女は優しく微笑むが、何かを答えようとはしない。
「それじゃあ、質問を変えるよ。俺は、死んだのか?」
次の考えはこうだ。アニメやマンガなどでよくある展開、所謂お決まりだ。
もしかしたら、それに沿って事が進んでいるかもしれないと踏み、それに関するような質問をしている。
しかし、答えは同じだった。
何かを答えようとはせず、今度はそっと首を横に振るのだった。
「もう、良いかしら?」
納得のいかない状態の中、女性は微笑みを崩さずに、考えを遮った。
しかし、それが自然であるかのように、なんの反発も起こらなかった。
ストンと、心が納得する。言い得て妙だが、しかしそうとしか言いようが無い。
特に不快感もなく、言葉を飲み込んだ。
それを笑顔で納得した女性は、後にこう続けるのだった。
「貴方、私と同じ神にならない?」
神、その言葉は自然と理解できた。
それは、崇高な者であり、永遠な者であり、絶対な者だ。
しかし、女性が伝えた言葉には、引っ掛かる点があった。
それは『私と同じ』だ。
言葉を変えよう。
それは、彼女が神であることの、他でもない証明だ。
そのことを理解した瞬間、全ての事柄が一つの波紋のように納得出来てしまった。
この空間は、神が住まう場所。
この状況は、神が望んだ場面。
この思いは、神へ切望した、一人の青年の淡い願いだ。
「それで、答えを聞いても良いかしら?」
その声に、なぞるように自分の口から言葉を発する。
しかし、自分自身は思いがけない様な言葉を発していた。
「いいえ、俺は神ではなく……魔王になりたいです」
その言葉には俺も、そして目の前の彼女も驚いていた。
何故、その様なことを言ってしまったのだろうか。
今はまだ、本人は知らないことだろう。
「そう、貴方はいつも、そう答えるのね?」
女性は含み笑いでなんらかの思いを馳せていた。
何かを含む言い方をするが、皆目検討がつかない。
「……ふふっ、魔王だったわね? 良いわよ? 叶えてあげる」
女性の顔には諦めた表情が張り付いており、どうにも胸が締め付けられる気分になる。
「……やったー、で良いんですかね……」
「えぇ、それで構わないはずよ? 貴方の望みを叶えてあげるのだから」
バツが悪く、恐る恐る確認を取るも、当たり前のように流されてしまった。
しかし、女性の表情は未だに暗いままだった。
「魔王……進化することは可能よ。でも、一つだけ守ってほしいルールがあるわ」
女性は自分が納得するための理由を説明する。
それが、守ってほしいルールだ。
「貴方を魔王にすることは簡単なの。でも、一つだけ、次なる世界ではのんびりと、ほのぼのと生きてほしいの。生き急ぐのではなく、ゆっくりゆっくりと永久の命を咲かせてほしい」
女性は懇願する様な表情で、必死に想いを伝えていた。
まるで、最愛の者を慈しむように、親愛の者を嗜めるように、情愛の者を愛おしむように。
「ゆっくり、ですか……えぇ、わかりました。次なる世界では、ゆっくりと穏やかな生活を過ごしてみます」
「そう……本当に頼むわよ?」
最後まで切望するかの様に、女性の思いは強かった。
「それで、最後に聞いても良いかしら?」
「はい?」
「貴方の名前は?」
「俺の名前は…………」
そこで唐突に、意識が途絶えるのだった。
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