甘さが足りない
わたしはコーヒーが嫌い。
まだ小さい頃、いたずらでお母さんが飲んでいたコーヒーを少し飲んだ。すっごく苦くてまずくて、全身に電気が走るみたいにびりびりっとした。それがトラウマで今後一切、コーヒーに手を伸ばしたことはない。ミルクたっぷりのカフェオレも、砂糖多めでもわたしは飲めなかった。
ひとくち、ほんの一口くちにいれるだけでぐらぐらと視界が歪むのだ。自分でもどうして飲めないのだろうと思った。コーヒーを飲む同級生が大人びてみえる。それが悔しくて仕方なかった。
「お待たせ致しました」
頭上から声がした。驚いて顔を上げた。カフェの店員がコーヒーを運んできた。若い女の人だった。
「え、わたし、頼んでません」
急だったため言葉が震えた。
「お連れ様がご注文されましたので」
店員はわたしの前の席を手のひらでさして言った。店員の細長い指先には黒いマニキュアが塗ってあった。飲み込まれそうな黒だった。
「お連れ様……」
目の前の席にはなにもなかった__生きているものはなにも。
「砂糖とミルクはご自由にどうぞ ではごゆっくり」
店員は淡々と言い、後ろで束ねた髪を揺らして去っていった。呆然としているわたしに何も言わずに。
白いカップに入った真っ暗なコーヒーは白い息を吐いていた。目の前の席のなにかは何も言わない。そもそもいないし。ぴくりとも動かない。だって輪郭がないのだから。もしそのなにかが動いてもわたしにはわからない。
わたしは1分くらいずっとコーヒーを眺めていた。どす黒いコーヒー。時々前の席もみた。やっぱりなにもいない。いるわけない。
___ぽちゃん
脳内で音がした。水の落ちる音。
違う。脳内ではない。わたしが、わたしが砂糖を、角砂糖をコーヒーに入れていた。
__ぽちゃん、ぽちゃん
2個、3個………店員が運んできた分を全部コーヒーに入れた。最後の1個をいれたとき、目の前でなにかがちらついた。
「お待たせ致しました」
頭上から声がした。驚いて顔を上げた。カフェの店員が、さっきの若い女の人がコーヒーを___違う。
角砂糖を茶碗にいっぱいに入れて運んできた。
「…あ、あの……わたし、頼んでませんけど」
わたしはこわくて顔が引きつった。声もさっきより震えていた。
「お連れ様がご注文されましたので」
「っ、お連れ様なんて…!!!」
わたしは反発しようとした。でも、できなかった。
「頼んだのはわたしです」
「足りなかったの。角砂糖が。もっと、たくさん欲しかったの」
前の席に座ったなにか、それは、死んだはずのわたしだった。
わたしはここにいるのに、目の前には間違いなくわたしの姿があった。
「わたし、コーヒー飲めないじゃない」
__ぽちゃん
コーヒーが揺れた。
「もっと、もっと、角砂糖をください、もっと、たくさん……」
「足りないの」
わたしはぼろぼろと泣いていた。
わたしは目の前で泣いているわたしをみて、言った。
「苦いより甘い方が幸せよね。」