バニバナルリハコベー色の変わる花
ベルばらのお好きな方、バロネス・オルツィの小説「紅はこべ」、宝塚歌劇「スカーレット・ピンパーネル」ご存知な方、フランス革命史にご興味のある方、ガーデニング好きな方、そうでなくても、読んでみて下さい。
朝、庭師派遣会社の事務所に出勤すると、ボスが怒っていた。
「おまえ、トイレ借りたら窓閉めて出ろよ、空き家なんだから。セキュリティ会社から苦情があったぞ、窓が開いてるって」
新米庭師のミックは何とか返答した。
「はあ? オレはまだ鍵もらってないっすよ。合鍵くれってずうっと言ってるじゃないっすか。小のほうは茂みで何とかなるけど、大のほうもよおしたらどうするんです。八時間勤務なんですから勘弁して下さいよ」
中学の社会科教師から事情があって転職したばかりで、実はまだ庭師の粗雑な物言いに慣れていない。
面接時、この上司に「その男爵さまのような発音どうにかならねぇか? 庭師は歴史上召使なんだよ」と言われた。
クィーンズ・イングリッシュを話して咎められるのもやり難いことだ。
軽トラを走らせて担当の庭に着いた。
ミックは荒れ放題の草原を前に立ち尽くしてしまう。一ヘクタール近い庭は、刈っても刈っても形を現さない。膝まで伸びた芝草はどこまでが花壇でどこからが芝生かすっかり隠している。花が咲いている庭木はあるが、どれがどれやら見極めも難しい。悪名高いヒルガオ科の雑草はバラをぐるぐる巻きにして窒息させてしまいそうだ。
「ここの庭をカントリー・コテージ風にしてちょうだい」
隣接する敷地を所有する、若き地主夫人は簡単に言ってのけた。
フレンチ・ハウスと呼ばれるこの一軒家のオーナーが年老いたのをいいことに、現金をちらつかせて殆ど地上げと紛うやり方で買い取ったのだ。
二十才も齢の離れた彼女の夫は長者番付に載るような男で、その金は貴族やハイソ向けの会員制カジノ経営で儲けた、父親からの遺産だ。
「文句は言えない。自分も彼女に雇われている身だ」
最初の顧客に気に入られれば、次の客がつく。
いずれは自分のガーデンデザイン・メンテ会社を起業するつもりのミックにしてみれば、渡りに船、最高の足がかりと言える。
草刈り機の音で気付かなかった、その若夫人のスレンダーな容姿が自分に向かって緑の波の間を歩いてきていた。
「道具は物置小屋にしまって鍵かけてね。お手洗いは家の中のを使って」
と、鍵束を渡された。
「家の中といわれても……」
フレンチ・ハウスは依然として空き家だ。いずれ庭のおしゃれなB&Bに改装するつもりらしいが、前オーナーが追い出された状態のまま、過去に留まっている。
彼は長く闘病したらしい。手を入れる時間も、人を雇うお金もなかったようだ。家の内装は壁紙も絨毯も七十年代、タイルなどの古い部分はもしかして二十世紀初頭から替えてないのでは、と思わせる。
トイレは二階にあった。裏口からそこへ上がる階段は狭くて急で廻っている。上の廊下の歪んだ天井が距離感を狂わせる。梁が剥き出しになっていて頭をぶつけそうだ。床も水平ではない。
ふと振り返ったら飛び上がるほどドキッとした。
人影があった。
と、思ったら階段の向こうの壁に取り付けられている姿見だ。
自分が映っただけじゃないか。
ミックは小用を済ませてしまってから、中を見て廻ることにした。何があるかわからないから怖い。この二階家の全体を一通り目にしてしまえば、後は日常だ。
カビ臭いキッチン、リビング、ダイニングに書斎。風呂場がふたつ。片方はトイレの水が出ない。寝室が五部屋。埃をかぶった、触ると手に纏わりつきそうな古いカーテン。病人の吐いた息が残っていそうな主寝室には、足を踏み入れる気にはならなかった。
何故か階段が三本もある。ひと家族で暮らすなら多くても二つあれば十分だろうに。
歴史的建造物の指定を受けているこの家は、一番古い部分が十五世紀に造られたという。そして建て増しを繰り返し、今の大きさになっているのだが、十八世紀末には一度崖崩れに遭い、家自体が百メートル丘の下にずり落ちたという記録がある。
家の歪みはその時の衝撃から来ているのかどうか、ミックにはわからない。
翌日事務所でまたボスに訊かれた。
「おまえ、本当に窓開けてないか? 昨日も連絡あったぞ?」
「昨日はオーナーが来ていましたから、彼女じゃないですか?」
「お、ヴィクトリアさん見に来たのか。納期までまだあるからって手を抜くんじゃねぇぞ」
昨日、自分がトイレを使った時には窓は閉まっていた。自分ひとりが使うくらいでわざわざ開けやしない、と可笑しくなった。匂いが籠っていてヴィクトリアさんが後で開けたんだったら、それも恥ずかしい気がしないでもないが。
草刈りがやっと一巡したので、南側のロックガーデンの除草を始めることにした。木漏れ日が遊んでいる。茂り過ぎた木々をすかせばドーバー海峡が見え、天気のいい日はフランスも見えるかもしれない。フレンチ・ハウスと呼ばれるのだから。
岩の間にはベニハコベが茂っていた。四方にはびこるが、抜きやすい雑草だ。星型の小さな、朱色の花がかわいい。一本ぬくと広い面積が綺麗になるのが気に入っている。タンポポのように根が残らない。ヤエムグラのように種が服にへばりつかない。
同じベニハコベなのに一株だけ青い花が咲いていた。イギリスでは園芸品種以外に青花はないと聞いている。抜かずにおこう。
石組の盛りあがった部分の除草を済ますと、はたと手が止まった。
ネトルだ。
ロックガーデンの際、石の下から這い出すように茂っているのは、素手で触るとびりっとする、通称イラクサだった。今日している薄い手袋では防げない。みみず腫れになり、痛みは翌日まで残ったりする。
おかしい。ベニハコベは痩せた土地に生える雑草だ。逆にイラクサは、養分たっぷりの堆肥などを好む。
――石の上と下の土壌の違い――
ゾクっとした。どうもこの庭で働き出して寒気を感じることが多い。南向きの丘に建っている家の南側の庭だというのに。
三時の休憩に屋内のトイレに入った。奥の階段が目についた。三本の階段のうち、二本は一階と二階を繋ぐだけだが、一番奥のものには屋根裏に上がる部分がある。近付いてみた。
上がりは一段と細くなっており、迫りくる両壁に自然と手を置いた。一面に引っ掻き傷がある。
段に腰を下ろして指でなぞった。薄暗い中でもそれらが文字になっていることがわかった。
――イニシャル、紋章、ラテン語の家訓、そして “Vive la Reine, Vive le Roi”――
イラクサを触ってしまったときよりも手のひらが、びりっとした。
そして閃いた。
フランス革命後の恐怖政治、テルール。人権宣言の理想に留まれなかった悲惨な勇み足。ギロチンを逃れるために多くの仏貴族は英国に亡命した。
特権階級から突然引き摺り落とされた人々の隠れ家がここ「フレンチ・ハウス」だ。
何とか海を越え、親戚、知人を頼って英国各地へ潜伏するまでの仮の住処。生の証を残したかった壁の刻印。
しかしここまで辿りつきながら、志半ばにして斃れたか、崖崩れに圧し潰された、いくつもの人生があったわけだ。
――あれはロックガーデンじゃあない。墓石の集まりだ――
叶わなかった帰国の願い。海峡を見降ろし、故国を望む沈黙の墳墓。
貴族だったからといって、個人が悪を成したわけじゃない。いい加減な革命裁判の判決。王党派であれ、人間であり市民であったはずだのに。
流れる時代の中で、たまたまその時期、駆逐される側になってしまっただけ。市民思想の萌芽の混乱の中で、彼らも必死に生きようとしただけだ。
ミックは庭に出て改めてフレンチ・ハウスを見上げた。
貴族も第三身分も召使も、オーナーも教師も庭師も、何と儚いことだろう。
貴族を匿った家も殺した崖も、余りに悲しい。
貴族の末裔をギャンブル漬けにして得た金でこの土地を買い取った女も、雇われて草を刈る自分も虚しい。
「故郷に帰りたい」という純粋な思いの前に、世界は余りにもいびつだ。
自己の理想を押し付けて暴力で他者を排除するテルールの、テロの未だ無くならないこの世の血生臭さ。
――血を吸ったギロチンは形を変え、今も我々の首を狙っている――
ドーバー海峡を越えてフランスから上がってくる風を庭に通せば、墓の住人達は少しは気が休まるのだろうか?
窓が開くのもそうだろう。家が歪むのも頷ける。フレンチ・ハウスでは、ベニハコベの思いは涙を集めて、青花になることもあるのだろう。
種明かしを少々。
「フレンチ・ハウス」は実在します。亡命貴族が住んだ記録はないようです。担当庭師によると、庭には愛犬のものらしい墓石があるそうです。
ちなみに題名の「ベニバナルリハコベ」は呪文ではなく、植物スカーレット・ピンパーネルの正式和名です。
「スカーレット・ピンパーネル」は革命時、仏貴族亡命を助けた英国貴族のグループ。
ホラーというより、エッセイか私小説にすべきかもしれませんが、洋ホラーの片隅に置いていただけると嬉しいです。