転移
~首相官邸・危機管理センター~
「もうやれることは全部やった……か」
外国から日本に帰って来た輸送機の最後の便が成田空港に着陸したとの報告を聞いて、保野総理は椅子に深く体を沈めた。
「各省庁からも『準備完了』との報告が入っています」
総理のデスクの前で、首相秘書官が手元の端末に目をやりながら言った。
「みんな、よくやってくれた」
事態の判明から今まで、政府は不眠不休で準備し、そしてとうとうその作業を完遂したのだ。
皆が小さな喜びを感じている中で、部屋の隅で休憩中の危機管理官達は声を潜めてこんな事を呟きあった。
「あの最終便の輸送機の中身って……」
「ああ、『あんまり深く詮索しないほうが良い系のアレ』だな」
「――N計画とCP計画って……」
「らしいな……何が『平和国家』だ」
彼らが知るソレは、昔の日本を知る彼らにとっては信じられない代物であったが、今の日本に必要なモノであるという事実を彼らは十分に理解していた。
「ああ、日本の食品メーカーは偉大だ、お湯を注ぐだけでこんなにおいしい物が食えるなんて、本当に有難い」
少し暗くなった雰囲気を戻そうと、少しおどけた様子で一人が言った。
「そうだな」
デスク上の家族写真と時計に目を配りつつ、彼らはカップ麺を啜った。
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~海上自衛隊佐世保基地 第一護衛艦隊群旗艦「あかぎ」艦内~
「失礼します」
今後の艦隊の行動についての会議中に、防水扉が開いて電信員が紙挟み片手に入ってきた。
「海幕から秘匿通信です」
海上幕僚長直下の海上幕僚監部――海幕からの秘匿通信は、即ち重要な戦略行動の指示を意味していた。
「読み上げろ」
「ヨアケシダイヒキコモレ、ヨアケシダイヒキコモレ、以上です」
その言葉を聞いて、島津海将補は直ぐに返答文を告げる。
「そうか……返答『イヤダ』以上」
「返答『イヤダ』了解しました」
必要なやり取りを終えると、電信員は敬礼して駆け足で電信室へと戻った。
「今のは?」
この「あかぎ」の艦長である今井一等海佐が、あまりに貧弱な語彙で行われた通信内容の意味を怪訝な顔で聞く。
「転移後の活動計画……手元資料S-11号の発動……それが海幕の決定だ」
「S-11ですか……」
S-11号計画とは、転移後速やかに周辺の確認を行う為、護衛艦及び各種調査船からなる船団を編制し、航空機と共に周辺の調査を実行した後、速やかに撤収するという計画であり、転移後直ぐに調査を開始できるメリットがある一方、意思疎通困難な存在との衝突の可能性も排除できない、ハイリスクなものだった。
「今この艦に出来ることは有りますか」
「待機と……そうだな、乗員に手紙書かせた方が良いかもしれない」
「わかりました」
二人はそうやり取りした後、少し目を伏せた。
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~ 日本国標準時 5/31 06:12 ~
「――先程の地震、震源地は不明、震度三以上の地域は青森県、秋田県……」
ある朝、突如日本全国を震度4程度の揺れが襲った。地震による被害はごく軽微であったが、それよりも大きな事が日本を襲っていた。
~首相官邸・危機管理センター(07:28)~
「総務省からです。全回線、接続ロストしたとのこと……現在確認作業中ですが、我が国は『転移』したものと思われます」
「『転移』漏れは?」
その報告を聞いた保野総理は、何時もと変わらない様子で尋ねる。
「現在確認作業中ですが、情報庁によると恐らく事前の予測通りとの事」
事前の予測……つまり日本周辺の西大西洋が地盤ごと転移するという予想は、幸か不幸か的中したようだった。
「……北海道は?」
長期に渡ってこの世界に単独で放置されていた北海道を救援する為、大量の救援物資と航空機と共に自衛隊を主幹とした二万人にも及ぶ救援部隊が青森に待機していた。
「先程交信が繋がりました」
「状況は?向こうは何と?」
「それが……」
「?」
「――北海道が『転移』したのは一時間前だそうです」
「そうか……会見を行う、原稿が出来次第やるぞ」
安心してため息をついた総理を尻目に、救援部隊の準備を担当した職員は泣きそうな顔で各所との調整を行っていた。
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~ムサシ王国・ケテル城・執政室~
突如空が光り輝き、窓とカーテン越しに執政室を明るく照らした。つい先程も同じような発光があったが、この国の王フォルイは、そんな些細な事に気を留めず、直近の課題である帝国の侵略。これを何とかして防げないかと万年筆を弄り回しながら思考を巡らせていた。
「我軍の戦力では正面から戦えば確実に負ける……」
王道である、武力に対し武力で対抗することも考えはしたが、考えるだけ無駄であった。
「どこかの国と同盟を……結んでくれる国あるか?」
この国、ムサシ王国は、多種族が共存する国家である。人間は勿論、獣人、翼人等の他国では被差別的扱いを受ける種族であっても、積極的に受け入れていた。
そのせいもあって、他国から普通の国家では無いと看做される事になり、外交では苦労を重ねていたのは知っての通りであるが、安全保障のパートナーという国際関係に於いて重要な要素を欠いていた。
「戦っても駄目か……しかし……」
そんな中、誰かがドアをノックする。
「失礼します」
「はいどうぞ」
ドアを開けて入室してきたのは、国王付き秘書官のキャリローである。
あたかも空想人物の様なしなやかな体を持つ彼女は人間では無く、猫の獣人である。自分が最も信頼する人を前にしても尚、フォルイの顔がアレグラス山脈並の険しさだったのは、恐らく彼女が小脇に抱え、今目の前にある封筒の束のお陰であろう。
「要件は」
「離島港湾施設整備状況視察の件です」
情報流出防止の為に、そして大陸各地から集まった獣人達とのコミュニケーション手段として用いている日本語……それも漢字を用いて長々と書かれた書類名を秘書官が読み上げる。
「――ああ」
一瞬何のことか理解出来なかったが、視界の隅に写り込んだカレンダーを見て思い出す。
「明日の天候、気象庁曰くかなり不安定だそうですが、延期はなされないのですか?」
キャリローは更に自分の紙挟みに挟んだ資料をペラペラと捲って検索し、目的の明日の予想天気図を提示する。
「行かなきゃしょうがないだろ」
天気図を見たが、どうやらそこまでの風雨は吹かないらしく、小雨程度であると天気図は言っていた。
「了解しました。詳細はこちらで詰めます。で、こちらの件なのですが………
執務は続く、されど終わらず。