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簡潔に言うならば、僕の住んでいるマンションで騒動が起きた。少し難しく言うならば、隣人の兎々多壊破が、まさに窓から落ちようとしているところを、マンション住民が下に降りて止めている声で、僕は起きた。
十時……わりと寝たな。
いやいや、さすがに僕といえど、隣人が死のうとしている、まさにその瞬間にのんびりしているほど、マイペースな人間ではない。
マイペース? どうだろう、実際、自殺しようとしている部屋の隣で、寝ている人間はマイペースではないだろうか――いや、これはただの鈍感だ。
それも違う。そもそも、壊破さんが自殺するからと言って、僕が起きる道理が何処にあるのだろう? 確かに起きた後は、今僕がやっているように、急いで壊破さんを止めようとするだろう。だからと言って、起きる前までそれを責められる筋合いはないはずだ。
少し言い訳がましくなったが、とりあえずあまりの衝撃に目覚めはよくなったということで、確認終了だ。
さて。
事実、現実から目を背けないというのであれば、壊破さんはすでに隣のベランダで、いざ死なんとしている。正直、この短い人生の中で、身内はおろか、他人の死すら直接見たことがない僕にとって、壊破さんの自殺を止める方法など、微塵も思いつかなかった。
下では「馬鹿なことはやめろ」と叫ぶ人間と、不謹慎だが、物珍しさに写メを撮っている人間が複数いる。どちらかが多いかはこの場合問題ではなく、むしろ誰一人として、本気で彼を止める気がないというのが問題なのだろう。
どうせ死なない――やめるに決まっている。
彼らの中には、そういう思考が、思い込みがあるのだろう――だとすれば、そういう歪んで卑劣な彼らの思考を、何としてでも覆してやりたいところではあるが、そうなれば必然的に壊破さんには死んでもらうことになるので、そんなのは御免だ。
となれば、彼らの思い描くストーリー通りにする役目を背負うのが、僕というわけだ。
「壊破さん!」
このマンションのベランダは、隣のベランダが普通に見えるほど障害物が少ないので、洗濯物――パンツとか――をしているときにばったりなんてのは、よくあることだ。隣が壊破さん――つまり男性で、僕は少しほっとしている。
まあ、少し残念な部分はあるが。
「……やあ、ねんと君か。どうした、君も死にたいのかい?」
「自殺ですか」
「ああ、そうだ……仕方あるまい」
仕方ない。
死ぬのが仕方ないだなんて、おかしいじゃないか。
「どうして死のうなんて、自殺しようなんて――」
僕が言い切る前に、壊破さんは答えた。
「死にたいとは!」強く、大きな声で、「……前から思っていたさ」彼はそう言った。
壊破さんは、僕の知る限りでは、優しく、誠実で、聖人君子のような人で、誰からも憎まれていないような、憎んでいないような、完璧人間だった。
いいや、〈完璧〉という称号に相応しいのは、間違いなく万丈目さんか、あるいは記館さんだ。
そして万丈目さんが〈金積万屋〉であるように。
記館さんが〈無忘探偵〉であるように。
壊破さんは、〈化物市民〉だった。
〈化物市民〉。まるで対局のように、対義語のように並ぶその二つの言葉は、実は彼にぴったりだったとも言える。
そもそもこの世に、聖人君子のような人が存在するのだろうかということだ――いや、たとえ聖人君子と言えども、人から恨まれることはある。それこそまさに、人から恨まれたことがない人間などいないのだ。
人は恨まれ恨み生きていく。恨まず恨まれずなど、あってはならない。
そんなことをできるのは、化物だけだ。
一人の市民であろうとする、化物だけだ。
「フフフ……君の目は前から冷たかった。いや、世間の目すらも、冷たかったかもしれない。私の見せる優しさに、皆溺れ、死んでいく――殺されていく」
「死ぬ? 壊破さん。僕は、死んでいませんよ」
そしてもう一度、強く言う。
「僕は死んでない」
「死ぬのさ。いやむしろ、君が生きているからこそ、私が死ななければならないのだ。君が生きているうちに、死なないうちに、殺されないうちに、私は死ななければならない」
「それが死ぬ理由ですか」
「ああ……君だけじゃない。私に殺されていない、私の友人を守るため――私は死ぬ」
壊破さんは、力強くベランダの柵を握った。
人を守るために死ぬ。
人が殺されないために死ぬ。
なんて奇跡。なんて美しい。なんて誇り高い。なんて聖人。なんて素晴らしい。なんて喜び。なんて――
なんて化物。
「偽善だ。あなたらしくもない。いや――」
むしろ、あなたらしいのかもしれない。
それは、この場で言うのを踏みとどめた。
「偽善か――いや、偽悪だったのかもしれない。私の優しさに付け込ませて、人を殺す。挙げ句私は何も悪びれていない。偽悪そのものだ」
「いつまでもそうやって捻くれていてください。捻くれて、捻くれ続けてください。そうすれば、生きていける。捻くれてでも、生きていける」
生きていけば、捻くれ続けられる。
「ハハッ! 君は、自殺を止めるのが下手だな」
「そうですね――何せ、僕は素人なもんで」
「そんなプロはいないよ――いたら、それこそ偽善者だ」
彼は冷徹に言った。そこだけは、冷たい声だった。
「やらない善より、やる偽善ですよ」
「下を見ても、まだ同じことが言えるのか? 彼らを見てみろ。私を嘲笑っているのさ。〈貴様にそんな勇気はない〉とな。止めているふりをしている。偽善だ。素晴らしい偽善だ――だから私は、彼らの偽善を木端微塵に潰してやりたい。お前たちの目の前で死んで、現実というものを見せてやる」
「壊破さん!」僕は叫んだ。「……現実が見えていないのは、あなたも同じだ」
その言葉を聞いたとき、壊破さんは確かに笑った。僅かだか、それでも笑った。
「ねんと君は本当に面白いなあ……そうだ、ねんと君。最近、彼女ができたらしいけど、その子とは順調なの? ええっと――五十嵐さんだっけか」
「……いい感じですよ。ただデートのときに、もの凄く引っ付いてくるので、歩きづらくてしょうがないです」
「青春だな」
「赤秋ですよ。今は秋ですから」
「赤は、血の色だ」壊破さんは下の野次馬を見ながら言った。「赤は血の色で、殺人の色で、自殺の色だ」
「またそれですか――いいですよ。だったら……分かりました」
もうこれしかない。
「壊破さん、あなたは、僕のために死んでくれると言いました。僕が死なないために、と。だったら、死にます。あなたが死んだら、僕も死ぬ。遺書も残さず、誰にも告げず、まるで誰かに殺されたかのように――死んでやる」
その言葉を言ったとき、壊破さんは再び笑った。今度は正真正銘、声を出して笑った。そして笑い終わってから、僕を睨んだ。
でも全然怖くない。
「卑怯だな、君は」
「……それはあなたもです」
「死ねるのか? 君に」
「どうですかね――それは、やってみないと分かりません」
壊破さんはすっかり黙り込んで、それから先程から柵を強く握っていた手を、ゆっくり離す。
「分かったよ……自殺はやめよう。死んで、それでもまだ人が死ぬのなら、私が死んだ意味がなくなる」
「そうですよ。僕も、あなたが生きていることが、生きる理由になる」
「今日は、外で一緒に昼食でも食べないかい? 朝も食べていないんだ」
死ぬつもりだったからね――壊破さんは冗談のつもりで言った。そんなブラックジョークは、全く笑えない。
けれど――
「好都合ですね。僕も朝はまだです。腹ペコなんで、今からでも行きましょう」
「……フフッ……ハハハ!」
その後僕らは、わりと高めのレストランで、昼食を共にした。
一応、野次馬にばれないように、一人ずつ十分ほど間隔をあけて、裏口から出たけれど、壊破さんを心配していた一階の警備員さんにだけは、ばれてしまった――が、警備員さんはものすごく心配していたらしく、むしろそう言った野次馬根性で助けようとする輩を、壊破さんに近づけさせないようにしていたらしい。
その高めのレストランも、警備員さんの紹介だ。