長めな短さ、短めな長さ
幸福とは何か。そんな人間としては大きな問いかけとなる問題に、少しでも波風が立てられたらと思っていたり、いなかったりな小説です。
女性はお手洗いにいくことを「お花を摘みにいってきます」というらしい。
誰かがいっていた、「排泄する行為は人間の中でもっとも恥ずかしい行為だ」と。そんな恥ずかしい行為を乙女のかわいらしい行為とすり替えるとは...先人も苦労しているのである。美しいけれどとげがあるのはバラ、美しいけれど排泄をするのは乙女、と。
潤はふと、窓越しに映る風景を眺める。青々とした空の下、家々が目の前を通り過ぎたと思うと、徐々にゆっくりと視界から消えていく。電車の中、周囲の目からみると潤の姿は直立した状態での読書に飽きた、ぼぅー、と外を眺めている大学生、というように見えているに違いない。
ところが潤にとっては数多く存在するであろう緊急の対処法の一つを実行しているに過ぎない。ゆったりとガラスに顔をつけ、周りに悟られないようにする。腹の下のほうから来る強烈な便意に苦悶した顔を、だ。落ち着け、ここで、もらせば、まだ、はじまってもいない、さおりとの、デートは、終わる...。呼吸は静かに激しく、動作はゆっくりと全身全霊をこめて。読みかけのページに切符を挟み、ズボンのポケットにしまう。さあ、あとはひたすらに己と戦うだけだ。
大丈夫、おれならできる。きっとやり遂げてみせる。人類は幾度となく、この戦いに勝利を収めてきたはずだ。そうであるのなら今回もその勝利の女神とやらは私に微笑んでくれるはずだ。幸い目的の駅はあとひと駅分、わたしの凱旋する姿はあとひと駅分彼方先。おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へ洗濯に、女はお花摘みに、男は凱旋に。
そう、ひたすら考え込んでいたが、ふと我に返ると先ほどの便意はおさまっていた。敵は苛烈なわたしの抵抗にあい、撤退したようだ。そこで彼はようやく車両の内部のほうへ目をやることができた。日曜日のだいぶ昼に近付いた午前中、ところどころ空席のある車内をのどかな雰囲気が包む。このひと時を幸せと呼ばずに何と呼ぼうか。「ねえまだつかないの~」「あともうちょっとだからね」小学校低学年くらいの女の子と母親らしき人とのそんな会話が聞こえる。ちょっとおとなしめのカップルはお互いよりかかりあい、静かに目をつぶっている。後は、おじいさん、おばあさん、おばあさん、おばあさん、おばあさん。みんな仲良しそうだ。高齢化社会とかなんとかより、いまは、戦いに一時的とはいえ、勝利した余韻のもと幸せな気持ちで同じ車両に乗っている人たちを眺めることができた。
「次は~、次は~。おのりの方は、お忘れ物のないようご注意ください。なお~」
勝利のファンファーレと思われる車内アナウンスは、次の瞬間、黒板でつめを立てた時の音よりもっと残酷なものとして潤の耳の中に攻め入った。腹の下の悪魔がまた活動を始めた瞬間だった。
「ねえ、ここでしょ、ねえーーーここでしょーーー」先ほどまでおとなしくしていた女の子が大きな声をだす。母親はなだめることも忘れて、携帯を眺めていた。カップルは潤のほうをみてひそひそ話をしているように見える。おじいさん、おばあさん、おばあさん、おばあさん、おばあさん、皆死にかけているのだろうか。ヒューヒューとのどから空気が洩れるような声を出している。地獄絵図だ。
電車が止まる。潤の目の前のドアが開く。気合いをこめる。一歩。二歩。よたよたと。もう、駅だ。トイレまで、あと、何歩だろうか。130、140、いや、それ以上か。脂汗がにじむ。下手をすると、あの電車から出られた安心感でもらすところだった。油断は禁物。幸い、後続して電車から降りてくる人はおらず、しばらく潤は立ち止まることができた。
後ろから笛の甲高い音が鳴る。電車は動き始め、潤も足を踏み出す。おなかを抱え、着実に。周りのことを気にしている場合ではなかった。先ほどの車両がもう先にある。最後尾。潤の隣を通り過ぎていく。
通り過ぎていくはずだった。不意に肩を掴まれる。最後尾の運転手が隣にいる。おどろきのあまり、「ぐぇ」と声を出す。地獄、という文字が頭によぎる。またあの電車の中に戻らされるのか...
覚悟を決めた潤をおいて、電車は通り過ぎて行った。あれ?この手は?
恐る恐る振り向くと頬に何か当たった。
「潤君、おっはよーー。あはは、ひっかかかった。」
さやかが笑いながら人差し指でぐりぐりと潤の頬をいじる。潤は一方でうすら笑いを浮かべながら、けつの安全確認を行う。...まだだいじょうぶ!
「さやか大事な話があるんだ」潤はまだもらさない。限界だ。死ぬかもしれない。きみのためなら死ねるっていうが、まだここは死に場所ではないはずだ。終わらない戦い。「が、凱旋に行きたいんだが」
さやかは理解できていないようだ。おじいさんはやまへしばかりに、おばあさんは川へ洗濯に、女は花摘みに、男は
「花を摘みに行かせてください」




