借金取りと文士
「駄目だ……こんなんじゃ駄目だ」
男はペンを置くと、書きかけの紙を丸めてしまう。
男は文士だった。
物語を考え、それによって人に夢を与える仕事だった。
しかし、誰も彼の作品を読んでくれなかった。
才能が、無いのだ。俺には。
彼の才能を認めたのはたった一人だけ。
今は亡き妻だった。
「あなたの書くお話はとても面白くて、わたし好きよ」
彼女は事あるごとにそう言って文士の作品を褒め称えた。
彼の作り出す世界が好きだと、いつも言っていた。
お金の心配はしないで、と彼女は文士の為に働き、夜遅くまで働いた。
だからだろうか。
元々体の強くなかった彼女は、体を壊してしまい、そして――帰らぬ人となった。
文士は涙を流し、それでも作品を生み出す為に筆を執る。
文士と妻の間には子供がいた。
今年で5つになる男の子だった。
妻の忘れ形見を、文士は愛し、息子の為、亡き妻の為、作品を書き続けた。
でも、彼の作品はどれも評価される事は無かった。
俺には、何もないのか。
空虚な痛みだけが、彼に残った。
そんなある日、不思議な噂を聞いた。
誰かが不思議な能力をくれるらしい。
いや、くれるのではない。貸し与えるのだ、と。
「誰がそんなものを与えているのだ?」
文士が訪ねると、噂を振りまく男は、さぁ?と首をかしげた。
「女という話もある。子連れだったり、まだガキだったり。かと思えば男だと言うやつもいる。一人だと言うやつもいれば、集団だと断言するやつもいる。つまり分からないって事さ」
「そんなもの、噂どころか、与太話じゃないか」
文士が嘆くように言うと、男はにやりと笑った。
「一つだけ、はっきりしている事がある。そいつは黒い服を着ているらしいって事だ」
「まるで礼装だ」
「そして、街の掲示板にそいつらが現れる場所と時間を書いた紙が貼られているらしい」
「そんなもの、見た事無い」
「そりゃそうだ。見たやつが隠しちまう。誰だって、独り占めしようとするさ」
確かにそうかもしれない。
下らない噂でしかなかったが、文士には藁にもすがる思いがあった。
金が――金が必要なのだ。
文士の息子が不調を訴えたのは、夏の日の午後だった。
じりじりと肌を焼くように太陽が照りつけているというのに。
お父さん。今日は寒いね。
それは、文士の妻が漏らした言葉と同じだった。
あなた、今日は寒いわね、と。
でも、文士は笑って、そんなはずないだろう、と、彼女の声を一蹴した。
妻は笑って――――彼女がもう治らぬ病であると気づいたのは、それから三か月後の事だった。
妻はそのまま亡くなった。
息子も同じ症状だった。
異変に気付いた文士はすぐさま息子を医者に見せた。
「息子を治してください! お願いします!」
「ああ、安心しなさい。発見が早かった。これなら助かるだろう」
奇跡だ。文士は亡き妻に感謝した。きっと彼女が知らせてくれたのだと。
しかし、その後に続く医者の言葉は冷たく無情であった。
「しかし病を治す薬は高い。あんたにそれが払えるのかね?」
金がいるのだ。
妻を失い、今度は息子を奪おうというのか。
たとえ法螺話だろうが、一寸でも可能性があるならば。
夜も過ぎた頃、文士は一人、街の掲示板の前にいた。
噂に聞いた掲示板。
その隅に、小さな紙切れが止まっている。
「これ……は」
喜びと絶望の二面の顔が描かれたその紙面には、ただ短く空き地の住所が書かれていた。
時間は特に書かれていない。
気付いた時には、文士は走り出していた。
紙片に書かれた住所に辿り着くと、月明かりの中、一人の男が佇んでいた。
黒い服、黒い靴、黒い鞄、黒い帽子。
しかし顔だけは、まるで雪のように白い男。
「おや、お客さんのようだ」
「あんたが才能をくれるのか!」
文士の言葉に、黒い男は鼻で哂う。
「ただであげられるほど、我々も優しくはないよ。これは『貸してあげる』だけさ。そして、利子を含めた対価をいただくよ」
「対価、とは?」
「あなたの大事にしているものでもいいし、類稀なる才能でもいい。あなたが得たものに対する対価なら何でも構わない」
黒衣の男の声は、無味無臭で、まるで人間性を感じなかった。
逆に、それが男の話が真実である証左でもあった。
「さあどうする? チャンスはそう何度も来ない。歓喜か絶望か」
「俺は――」
答えはもちろん。
その日から、男の書く物語は飛ぶように売れた。
誰もが口をそろえて絶賛した。
街中の人間が、こぞって本を求めた。
国中の人間が、彼の物語に陶酔した。
やがては貴族たちにも男の書く物語は伝わり、果ては王も称賛したという。
収入も大きく増えた。
男は手に入れた金を使い、息子の為に高い薬を購入した。
息子の病は少しずつだが確実に快方へと向かっていった。
万事、上手くいっていた。
「……明日、か」
それが黒衣の男が示した約束の期日。
明日までに、対価を支払う必要があった。
文士が手に入れた、「文章を書く」という才能に匹敵する対価。
黒衣の男はあの月の夜の晩、文士にこう告げた。
「対価とは――何も才能だけではありません。あなたの愛する全て。何でも構わないのです」
その言葉が濁って棘のように心に降り注ぐ。
それはつまり、最愛の我が子を差し出せと、そう告げていた。
息子の病はもうすぐ完治するだろう。
だが――本来、才能が無ければ助からなかった命のはずだ。
だからこその対価。だからこその代償。
だからこそ、支払う価値があるのだ。
払う訳にはいかない。でも、いや、しかし……。
その言葉は澱のように、汚く積もる。
もし息子の命を差し出せば、俺は文士として、もっと――
それは抱いてはいけない思いだった。
我が子の命を天秤にかけるなど、畜生にも劣る。
己を恥じ、しかし思いは棄て切れない。
明日――決断しなければいけないのだ。
「ねえお父さん」
眠っていたはずの息子が声を掛けてくる。
息子の手には一冊の本が抱えられていた。
それは、文士の本だった。
「それは……」
「これ、面白いね」
それは、彼が能力を手に入れる前に書いた、まさしく文士の本だった。
誰にも見向きもされず、ただただ優しいだけの物語。
愛される事のない、愛の話だ。
誰にも評価を受けなかった作品だ。
なぜ今さらこんな本を持っているのか。
文士には分からない。
なぜなら、妻が死んだあの日、全て燃やしてしまったはずだから。
「それは、どこにあったんだ?」
「お母さんの宝物入れ」
「宝物入れ?」
「うん。大事な物はここにしまってるって。ぼく、教えてもらったんだ」
小さな箱だった。
箱の中には、男の本が何冊も何冊も大事に保管してあった。
男が棄ててしまったはずの世界。
男が壊してしまったはずの物語。
それが、そこにあった。
「そんなもの……面白いはずがない」
「でも、ぼくはこのお話、好きだよ」
あなたの書くお話はとても面白くて、わたし好きよ。
それは、どこかで聞いた言葉。
愛されなかったはずの。愛されたかったはずの。
文士は涙を流す。
自分の作品の読者はここにいるのだと。
自分の為じゃなく、誰かの為に書こう。
だから――
「能力を返す、ですか……」
約束の月明かり。
黒衣の男は意外そうな顔を見せる。
文士の下した結論に、彼は少し不服そうだった。
「富も名誉も捨てると、そう仰るのですか?」
「ああそうだ」
「もし能力を返せば、あなたの得たすべては塵のように消えるのです。それでも?」
「それでも、本当に大事なものを差し出す事は出来ない」
きっぱりと、文士は告げる。
そして、黒い男は笑う。
夜空に浮かぶ欠けたあの月のように。
「分かりました。あなたのような人間もいるのですね。能力は返してもらいますよ」
あっさりとそう言うと、黒衣の男は闇の中に消えていく。
しかし、少しして、彼は足を止める。
振り向かず、男は文士にこう言った。
「あなたの書く物語。私も好きですよ」
「お父さん、こっちこっち!」
文士の息子がはしゃぎながら街路を走る。
あれから息子の身体はすっかり良くなった。
それと同時に、男の本は再び売れなくなった。
国中があれだけ騒いでいたというのに、今では古書市で叩き売られる始末。
でも、文士は今でも書き続けている。
優しいだけの物語。
たとえ誰が見てくれなくてもいい。
たった一人の読者に向けて。
「あまり走るんじゃないぞ」
分かってるって。
そう言いながら、少年は走る。
走る。
楽しそうに。
嬉しそうに。
走る。
走って。
通りを横断する馬車が、少年を轢き殺した。
悲鳴が聞こえる。
誰かの叫び声。子供が轢かれた。引っ張り出せ。駄目だもう助からない。
馬の嘶き。ぶひひん。ぶるるん。あひゃひゃひゃひゃ。
現実感の乏しい光景に、文士は愕然とした。
何が起きたのか。
息子の元気そうな声が聞こえない。
さっきまでの笑顔はどこに消えてしまったのか。
赤い赤い血だまりが、街路をゆっくりと満たしていく。
そして見た。
赤く染まったその先に。
夜よりも暗い死の色を纏った男の姿を。
蝋よりも白い絶望の笑みを浮かべた男の顔を。
黒衣の男はあんなにも遠くに立っているのに。
文士には聞こえたのだ。
その一言が。
「利子は確かにいただきました」