二羽の烏
迦月と伐狐は、藤乃の案内で寺の裏にあるうっそうとした林の中に来ていた。
「藤乃さんって、この辺よく散歩するの?」
《そうだよ。墓場にいるだけじゃつまんないじゃない。あ、ほら あれだよ》
そう藤乃が指差した先を見ると、確かに小さな祠がポツンとあるのが見える。
「あれか」
迦月が祠へ近づこうとすると、後ろにいた伐狐が肩を掴んでそれを制した。
『だめだ。それ以上近づくな』
伐狐がそう言うときは、従った方が安全だというのを長年の経験から知っている迦月は足を止めたが、藤乃は伐狐の忠告を気にもとめず、ずかずかと祠の前へと歩いていく。
「藤乃さん!」
《? なんともないじゃないの……うわっ!》
藤乃が祠に触れようとしたとき、木の上から二つの黒い影が飛び出して藤乃に襲いかかった。
「藤乃さん!!」
『チッ!』
舌打ちをしながら伐狐が身構えながら印を組み、藤乃の周りを半透明な球体で囲んだ。
それを確認した迦月が、ベルトの左側に付けた50cmはくらいの革製のケースから、素早く細い鎖で繋いだ三本の棒を引き出し、踏み込んだ勢いのまま三節槍の先端を影に向かって突き出す。
しかし、二つの影はそれをかわして、祠の後ろに立っている一本の大きな枯木の枝へと舞い上がった。
《…明弥?》
伐狐の作り出した球体の中で、驚きと困惑の表情を浮かべた藤乃が、上を見あげて小さく呟いた。
《宵瀬…?》
「!?」
『なんだと?』
迦月と伐狐が上に目を向けると、そこには右目が紅い烏と、左目が碧い烏がいた。
《明弥、宵瀬!どうしたの!》
何かの間違いだと必死で二羽の烏の名を呼ぶ藤乃。だが、明弥と宵瀬は藤乃に目もくれず、ただじっと迦月を見つめている。
『迦月、こいつらにかけられている呪を解けるか?』
《呪が…?》
いつの間にか、藤乃を囲んていた半透明な球体は消えていた。
力が抜けたのか地面に座り込んでしまった藤乃が聞き返したが、二人は何も喋ろうとせず、二羽の烏を見つめ返す。
「出来なくはないけど、なんで…?」
二羽の烏にもう戦意がないことを確かめた迦月が、三節槍をしまいながら答えた。
『こいつらが、お前に話したいことがあるそうだ』
「私に?なら藤乃さんを通してでも…」
『直接言いたいらしいな』
見ると、珍しく伐狐が真面目な顔をしている。
伐狐がこんな顔をするのは久々だなと迦月は思いながら、ショックでいささか放心気味の藤乃に目を向けてた。
「伐狐、藤乃さんについててあげて」
そう言うと迦月は、コートの胸ポケットのボタンを外して、中から札のついたを取り出した。
『大丈夫か?』
「大丈夫、だと思う」
不安げに聞いてくる伐狐に、苦々しく笑ってみせた。
コートの裏から針を掌ほどの長さにしたような物を取り出し、細長く折った札をそれに結び付ける。
それを地面に突き刺して、先程からじっと迦月たちを見ていた二羽をを呼んだ。
「明弥、宵瀬。ちょっとここに降りて来てくれないか?」
針を挟んだ向こう側を指差し、迦月が言った。
二羽はその言葉に従って静かに滑降して降り立つ。
「準備はこれでよし。あとは私か…」
元もと、解術が苦手な迦月は、過去に何度も失敗した例があるため、ここ十数年は弘寛に任せきりで、自分で行うことがなかったのだ。
うーんと渋い顔で悩む迦月を見兼ねた伐狐は藤乃のそばを離れ、自分の髪を一本抜く。そして、その髪の毛を迦月に差し出した。
「伐狐…」
「使え。お前だけじゃ無理だろう」
「…わかった。ありがとう伐狐」
微笑みながら礼を言う迦月に、いささか照れ臭くて目を背ける。
「いいから、さっさとやれ」
伐狐は照れているのをごまかすように、憮然とした態度で髪の毛を迦月に持たせた。
伐狐が藤乃のそばへ戻ったのを確認すると、迦月は右の人指し指に伐狐の髪の毛を結び付け、意識を二羽と針に集中させる。
ゆっくりと息を吐きながら、右手の人指し指と中指を立て、口元へと持ってくる。
そして、静かに迦月が詠唱を始めた。
「《
天高きは“空”
花咲きしは“大地”
その万物の理をねじ曲げられし 彼の者たちを
あるべき理へ戻し
真の姿を与え給え… 》」
すると、針を中心とするように青く光る八卦紋様が浮かび上がる。
「この紋様の中に入って」
指示されたように、二羽は光る線の内側へ足を踏み入れる。
迦月はちゃんと二羽が中に入ったのを確認して、両手で印を組みながら、小さく祝詞のような言葉を呟く。
それにつられるようにして、八角形だった紋様が円になり、中にいた二羽を包み込むように球体へと変化していく。
印を組み、小さく祝詞に似た言葉を呟くという作業を繰り返していくと、二羽を包んだ球体が、それに合わせて形を変えていく。
そして、何度目かのとき、球体は人が入れる程の縦に長い楕円形になった。
そして、迦月がパンッと胸の前で手を合わせる。
それと同時に球体がいっせいに砕け散り、破片は風の中へ消えていった。
だが、そこに明弥と宵瀬の姿はない。
「……」
失敗か…うつ向き、立ち尽くす迦月。
そんな迦月を見て、伐狐が短く落胆の溜め息をつく。
《…明弥?宵瀬?》
伐狐のそばで座り込んでいた藤乃が、頭上を見上げて小さく発した言葉には驚きが含まれていた。
その声につられ、迦月と伐狐が上を見上げる。
はらり、はらり、と静かに落ちてくる二枚の黒い羽根。
『これは…』
徐々に視線を下げながら伐狐がつぶやく。
「はぁ〜…」
力が抜けたのか、ぺたんとその場にしゃがみ込む迦月。
しかし、先程とは違ってほっとした表情を浮かべ、伐狐に微笑む。
三人の前には、黒い翼をもつ人影が二つ。
目を丸くさせている藤乃を横目に、迦月がその人影に笑いかけた。
「…おかえり」
『ありがとう迦月さん。…藤乃さん、ただいま』
そう言ったのは、背が高く山伏姿の若い男。
その右目は紅く、微笑みを浮かべていた。
『本当にありがとう。藤乃さん大丈夫?』
澄んだ声で心配そうに言ったのは、中国の宮廷衣裳のような姿で長い黒髪をさらりと吹く風に遊ばせている少女。
左目は碧く、大丈夫?と微笑んでいる。
二人の背中には美しい漆黒の翼がある。
《その声…明弥と宵瀬…なの?》
聞き覚えのある声と、その紅と碧の瞳を持つ二人に藤乃は戸惑いながら問い掛けると、男と少女は何も言わずにっこりと笑った。
《明弥!宵瀬!》
立ち上がり、二人に抱きつく藤乃。その目からは一筋の涙が溢れている。
二人はそんな藤乃を優しく抱き留めた。
「とりあえず、成功かな」
安堵の溜め息をついて、迦月は伐狐を見上げる。
『まぁ、迦月にしては珍しく成功だな』
伐狐が手を差し出し、迦月を立たせた。
『心配かけてごめんね、藤乃さん』
宵瀬が優しく藤乃をなだめる。
《…迦月が失敗すると…死んじゃうって、聞いてた、から…》
鳴咽交じりに藤乃が言った。
「えっ何それ!?失敗は多いけど、死なせたことはないから!!」
ちょっとショックを受けながら、迦月が藤乃の言葉を訂正する。
その横では伐狐が顔を反らし、肩を震わせながら笑いたいのを堪えていた。
「ちょ、伐狐!隠れて笑わないでよ!」
『ククッ…悪いな、つい』
笑いを堪えて苦笑しながら謝る伐狐に言い返そうと迦月が口を開いたとき、ふいに横から声をかけられた。
『お二人とも、少しよろしいでしょうか?』
二人が見ると、そばで山伏姿の男――明弥が戸惑い気味に笑っていた。
藤乃も落ち着き、祠から少し離れた場所へ移動した五人はそれぞれ石や倒木などに腰掛けた。
『で、何なんだ?』
最初に口を開いたのは、石の上に方膝を立てて座っている伐狐だった。
問われた明弥と宵瀬は少し気まずそうに顔を見合わせる。そして軽く頷き合い、迦月と伐狐に向かって頭を下げた。
『お願いします!どうか我らの主をお助けください!』
「!?」