「騎士に男女なんてない」と婚約者が言うので、その考えを最後まで尊重することにしました
学園の中庭で、歓声が上がった。
騎士科の模擬戦だった。円形の訓練場の真ん中で、木剣を落とした上級生が尻もちをついている。
勝ったのは、赤毛を一本に結んだ女子生徒だった。
ヴェロニカ・ローデン。騎士科二年。
彼女は木剣を放り投げると、観戦していた男子生徒のほうへ一直線に駆けていった。
そして、勢いよく抱きついた。
「カイル! 見てた!? 一本取ったよ!」
「見てた見てた! すげえじゃん!」
抱きつかれた男子生徒は、ヴェロニカの腰に腕を回して、その場で一回転した。
中庭の端の、屋台で買った揚げ菓子の袋を持ったまま、アリシア・ファルベールはそれを見ていた。
隣で、友人のミレーヌが揚げ菓子をくわえたまま固まった。
「……あれ、婚約者だよね?」
「そうだね」
「あなたの」
「今のところね」
ミレーヌは、揚げ菓子を飲み込んだ。
「今のところって言った?」
「言った」
アリシアは、袋の口を折って閉じた。
◇
「カイル」
声をかけると、カイル・グランツはヴェロニカを床に下ろしながら振り返った。
「あ、アリシア。来てたんだ」
「楽しそうだね」
「今日ヴェロニカが上級生から一本取ったんだよ! あの先輩、騎士科の三位だぜ?」
「へえ」
ヴェロニカは、カイルの腕に手をかけたまま、アリシアににっこり笑った。
「ごめんなさい。騎士科のノリって、普通のご令嬢にはびっくりするわよね」
「腕、離さないの?」
「これ?」
「それ」
「ああ、貴族のご令嬢だと、こんなことも気になるのね」
「騎士科じゃ男だ女だって、いちいち気にしないんだよ」
カイルが、当然のように言った。
「騎士に男女なんてないからさ」
「へえ」
アリシアは、カイルの腕に絡まったヴェロニカの指を見た。
それから、二人の顔を見た。
「へえ、だって」
後ろでミレーヌが言った。
「考えてる」
「何を?」
「騎士ってすごいね」
「たぶんそれ、騎士関係ないよ」
◇
三日後の放課後、アリシアは学園の図書館裏のベンチで、カイルと向き合っていた。
婚約者同士の週一回の面会である。
アリシアの父、ファルベール伯爵が決めた。将来、伯爵家に婿入りする男が領地の話を何も知らないのは困る、というのが理由だった。
「来週、お父様が王都に来るの。水路の改修の話、一緒に聞く?」
「また水路?」
「また水路」
「俺がいても分からないって」
「将来、あなたも管理するんだけど」
「結婚してから覚えるよ」
「水路は結婚を待ってくれないんだよ」
カイルは、ベンチの背にもたれて空を見た。
「アリシアってさ、考えすぎなんだよ。もっと気楽にいこうぜ」
「気楽に水路が決壊したら困るの」
「決壊しないって」
「去年したよ」
「……したの?」
「したの。その話を来週するの」
カイルは、聞こえなかったふりをした。
アリシアは、膝の上で手帳を閉じた。
本題は水路ではなかった。
「それと、もう一つ」
「ん?」
「他の女性と、ああいう触れ方するの、やめてほしい」
「またそれ?」
「今回初めて言ったけど」
「あれくらい普通だって。騎士科じゃ」
「男性の騎士とも?」
「何で男とやるんだよ」
カイルは、即答した。
即答して、自分の言葉を特に気にした様子もなかった。
アリシアは、黙った。
「……何?」
「もう一回言って」
「何で?」
「いいから」
「何で男と抱き合うんだよ」
「騎士に男女ないんじゃなかった?」
「そういう意味じゃないって!」
「どういう意味?」
「……仲間なんだよ!」
「男も仲間だよ」
「お前、めんどくさいな!」
アリシアは、ゆっくり頷いた。
「ああ。最後、そこに逃げるんだ」
◇
翌日の昼休み、アリシアが食堂でミレーヌと日替わりのシチューを食べていると、向かいの椅子が乱暴に引かれた。
ヴェロニカだった。
「カイルに、何か言った?」
「言ったよ」
「困るんだけど」
「何が?」
「騎士科の人間関係に口出されても困るの。あなた、領政科でしょう?」
「私、カイルの婚約者なんだけど」
ヴェロニカは、ため息をついて腕を組んだ。
その仕草も雰囲気も、さっきまで廊下で男子生徒と話していたときとは、ずいぶんと違った。
「私はね、女として騎士科にいるつもりはないの。騎士なの。男だ女だっていちいち意識される方が、面倒なのよ」
「うん」
「肩を組んだくらいで、いやらしいことみたいに見る方が、むしろ変じゃない?」
「うん」
「そういう男女の見方自体が、私には分からないの」
ヴェロニカは、少し身を乗り出した。
「何でもそういう目で見ているから、いやらしく見えるんじゃない?」
ミレーヌのスプーンが、シチューの中で止まった。
アリシアは、パンをちぎって、口に入れた。
よく噛んで、飲み込んだ。
「なるほど。よく、分かったわ」
「分かってくれた?」
「うん」
「よかった」
ヴェロニカは、満足そうに立ち上がった。
アリシアは、ヴェロニカの背中に向かって、普通に言った。
「試してみる」
ヴェロニカが、振り返った。
「……何を?」
アリシアは、もうシチューに戻っていた。
◇
「やめなよ」
その日の放課後、ミレーヌは開口一番に言った。
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
「やっぱり?」
「やっぱり」
「でもさ、向こうが『いやらしく見える方が変』って言ったんだよ。じゃあ、同じことを私がやっても、変じゃないってことだよね」
「理屈はそうだけど」
「理屈がそうなら、試さないと」
「……」
ミレーヌは、しばらくアリシアの顔を見ていた。
「やるなら呼んで」
「やめなよって言ったよね?」
「言ったけど、見たいもん」
◇
作戦会議は、図書館の奥の閲覧室で開かれた。
アリシア。ミレーヌ。それから、騎士科の男子生徒が四人。
代表は、フェリクス・ハインツ。騎士科二年の首席で、背が高くて、真面目で、少しだけ顔が怖い。
騎士科の真面目な男子生徒たちは、最近困っていた。
ヴェロニカたちの振る舞いのせいで、「騎士科は男女関係がだらしない」という噂が学園中に広まっていたのだ。来月の推薦査定を前に、迷惑この上なかった。
アリシアは、作戦を説明した。
ヴェロニカがカイルにやったことを、翌日、アリシアがフェリクスに同じようにやる。
肩に触れる。腕を取る。距離を詰める。模擬戦に勝ったら駆け寄る。
説明が終わると、閲覧室が静まり返った。
「……嫌なら、本当に断ってね」
「嫌というか」
「うん」
「恥ずかしいです」
「私も」
フェリクスは、天井を見た。
「これ、どこまでやるんです?」
「向こうがやったところまで」
「……結構ありますよ?」
「私も調べて、ちょっと引いてる」
「俺も今、引いてます」
ミレーヌが、手を挙げた。
「ちなみに、大人の許可は取ってあるの?」
「取ってある。お父様経由で、近衛騎士団長に」
「何で騎士団長」
「推薦査定で来週学園に来るし、騎士科のこういう噂、一番気にするの騎士団の人でしょ」
アリシアは、鞄から一通の手紙を出した。
〈面白い。全員同意の上なら好きにしろ アルベルト・ヴァイス〉
ミレーヌは、手紙を二回読んだ。
「本当に近衛騎士団長?」
「父の友達」
「嫌な友達だね」
「父も言ってた」
◇
逆実験は、翌日から始まった。
一日目。
朝、廊下ですれ違いざま、アリシアはフェリクスの肩を軽く叩いた。
「おはよう、フェリクス」
「……おはようございます」
フェリクスの肩が、叩かれた形のまま固まった。
廊下の向こうで、カイルが足を止めた。
二日目。
昼休み、アリシアはフェリクスの袖を掴んで引っぱった。
「ねえ、それちょっと見せて」
「……どうぞ」
「やっぱりフェリクスに聞くと早いね」
完全にヴェロニカの台詞だった。ミレーヌが、離れた席で机に突っ伏して震えていた。
食堂の入口で、カイルが持っていた盆を傾けた。スープが少しこぼれた。
三日目。
アリシアはフェリクスの腕に、自分の腕を絡めて、中庭を歩いた。
フェリクスは、右腕と右足が同時に出ていた。
「フェリクス。歩き方」
「分かってます」
「直ってない」
「直そうとすると余計に分からなくなるんです」
すれ違ったカイルの顔は、もう笑っていなかった。
その日の夕方、訓練場の裏で、カイルがヴェロニカに言っているのを、ミレーヌが聞いてきた。
「なあ、アリシアのあれ、どう思う?」
「あれ?」
「フェリクスと腕組んでたやつ」
「ああ。ちょっと令嬢としては、はしたないわよね」
「……だよな。男の腕を軽々しく組むとか」
「淑女が聞いてあきれるわよね?」
「一回、ガツンと言ってやらないと、かもな!」
「まあ、私たちも今、組んでるけどね」
カイルは、自分の腕を見た。
ヴェロニカの腕が、しっかり絡まっていた。
「…………」
「…………」
「いや、俺たちは騎士だから」
「そうよ。騎士だから」
「アリシアは騎士じゃないからな」
「そうよ。だから、はしたないのよ」
二人は、うんうんと頷き合った。
腕は、組んだままだった。
ミレーヌは、この話をするあいだ、三回ほど笑いが出て話が中断した。
そして、四日目。
騎士科の模擬戦があった。
フェリクスが、三本先取で上級生を下した。
訓練場の端で見ていたアリシアに、フェリクスがちらりと視線を寄越した。
「……来ます?」
アリシアは、聞こえるか聞こえないかの声で答えた。
「行かないと駄目かな」
「俺は、もう十分だと思います」
後ろから、ミレーヌの声がした。
「行け」
二人は、黙った。
アリシアは、フェリクスのほうへ歩いた。小走りにはなれなかった。
フェリクスの前で一度止まって、深呼吸して、それから、軽く両腕を回した。
一秒もなかった。
「おい!!!!」
訓練場じゅうに、カイルの声が響いた。
フェリクスは、即座に離れた。
両手を上げて、二歩下がった。
「……助かった」
◇
「何やってんだ!」
カイルが、大股で訓練場を横切ってきた。
「喜びを分かち合った」
「抱きつく必要ないだろ!」
「騎士同士なら普通なんでしょ?」
「お前は騎士じゃない!」
「フェリクスは?」
「俺を使わないでください」
フェリクスは、もう一歩下がった。
そこへ、ヴェロニカが駆けつけた。
「ちょっと、アリシアさん。さすがに貴族令嬢として、はしたなくない?」
「あなたも、昨日同じようにやってたよ」
「私は騎士だから!」
アリシアは、フェリクスを見た。
「騎士?」
「そう、私たちは騎士候補の仲間です、一緒にしないで!」
「そういう話じゃないでしょう!」
「ずっとその話をしてるんだけど」
カイルが、アリシアの前に立った。
「お前には、俺がいるだろ!」
「私にも、あなたがいるね」
「だから、他の男とベタベタするな!」
「嫌なんだ?」
「当たり前だろ!」
アリシアは、カイルを見た。
「私も、嫌だったよ」
訓練場が、静かになった。
カイルが、口を開けて、閉じた。
「でも、私たちは騎士だから――」
ヴェロニカが言いかけた。
アリシアは、ヴェロニカのほうを向いた。
「そろそろ、別の言い訳ない?」
「別の言い訳とは何だ。言い訳ではない、信念だ」とカイルが言い、「そうよ、私たちは純粋に仲間として」とヴェロニカが続け、「でも男とは抱き合わないんでしょ」とアリシアが言い、「それとこれとは違う!」「何が?」「何かが!」――と、話が三周目に入りかけたとき。
訓練場の入口から、拍手が聞こえた。
ぱち、ぱち、ぱち。
全員が振り返った。
入口の柱に、背の高い男がもたれていた。
灰色の髪を後ろに撫でつけて、近衛騎士団の濃紺の軍服を着ている。腕を組んで、にこにこしていた。
カイルの顔から、血の気が引いた。
「……団長」
近衛騎士団長、アルベルト・ヴァイス。
推薦査定の下見で、今日から学園に来ていた。
「続けていいぞ」
「無理です」
全員の声が、揃った。
◇
団長は、ゆっくり訓練場に入ってきた。
査定に来ていた騎士が二人、後ろについてくる。そのうちの一人が、もう一人に小声で言った。
「団長、笑ってるぞ」
「誰か死ぬ?」
「物理的には、たぶん死なない」
団長は、カイルとヴェロニカの前で止まった。
「報告は受けている。騎士科の一部で、騎士には男も女も関係ない、と言う論調で、婚約者を持つ男女が不必要に接触していると」
二人の肩が、跳ねた。
団長は、そこで笑うのをやめた。
「先に、はっきり言っておく」
声の調子が、変わった。
「騎士としての能力を、男か女かで決めるつもりはない。剣の腕も、責任も、訓練も、任務も、私は男女で区別しない」
ヴェロニカが、顔を上げた。
「だが、男と女であることそのものが、消えるわけじゃない。身体の違いも、それに必要な配慮もある。違いを理由に不当に扱わないことと、違いそのものを無視することは別だ」
団長は、二人を順番に見た。
「そして今回の問題は、そこですらない。お前たちは、私的な親密さを『騎士だから』という言葉で正当化した」
カイルが、何か言いかけた。
「騎士団は、仲良しクラブじゃない。贔屓、嫉妬、庇い合い、仲違い。そういうものが命令系統に入り込めば、戦場では人が死ぬ。だから騎士団は、公務と私情を分けられない人間を嫌う」
団長は、間を置いた。
「私も、そういう人間を部下には欲しくない」
訓練場が、静まり返った。
ミレーヌが、アリシアの袖を引っぱった。
「……まともなこと言ってる」
「言ってるね」
「まともな人なの?」
「仕事のときはね」
団長は、ふっと息を吐いた。
それから、またにこにこし始めた。
「さて」
後ろの騎士が二人、そろって一歩下がった。
「ヴェロニカ・ローデン嬢」
「は、はい」
「君は、女として扱われるのが嫌なんだって?」
「……はい」
「なるほど」
訓練場の隅で、騎士科の誰かがつぶやいた。
「……来た」
「何が?」
「団長の『なるほど』」
「逃げた方がいい?」
「もう遅い」
◇
「北辺に、第五前哨地という場所がある」
団長は、楽しそうに言った。
「……北辺?」
「うむ。魔獣の通り道を見張る砦だ。今、欠員が一人ある」
団長は、指を折りながら説明した。
「常設の宿舎はない。天幕だ。風呂もない。水は飲用が優先で、身体を拭く分は雨が降るのを待つしかない。用を足す場所は、茂みに穴を掘って魔獣が来ないのを祈りながらする。冬は雪で埋まる。夏は泥で埋まる。魔獣は夜に来る」
ヴェロニカの顔色が、一段ずつ白くなっていった。
「本来なら、女性騎士を送りやすい環境ではない」
ヴェロニカが、一瞬、ほっとした顔をした。
「だが君は、男だ女だと扱われる方が煩わしいそうじゃないか」
ほっとした顔が、そのまま固まった。
「任務については、本当に区別しないぞ。夜襲があれば起こす。魔獣が来れば戦ってもらう。雪でも歩いてもらう。二年務めれば、騎士爵への推薦を考えよう」
ヴェロニカは、口を開けた。何も出てこなかった。
団長は、優しく言った。
「もちろん、断ってもいいぞ」
ヴェロニカは、助けを求めるように周りを見た。
カイルは、目を逸らした。
フェリクスたちは、全員下を向いていた。
最後に、ヴェロニカの目がアリシアに止まった。
アリシアは、さすがに気の毒になって言った。
「……無理しなくても、いいんじゃない?」
ヴェロニカの頬が、ぴくりと動いた。
「……行きます」
「え?」
「行きます!」
「本当に?」
「行くって言ってるでしょう!」
「いや、私に怒られても」
団長が、満足そうに頷いた。
「素晴らしい。では手続きを進めよう」
ミレーヌが、小声でアリシアに言った。
「今の、完全にあなたのせいだよね」
「私、止めたよね?」
「止め方が最悪だった」
◇
「さて、カイル君」
「……はい」
カイルは、もう半歩下がっていた。
「君も、素晴らしい考えを持っている」
「何の話でしょう」
「騎士は仲間。男も女もない。喜怒哀楽を、身体で分かち合う」
「そこまでは――」
「言ってた」とアリシア。
「言ってたね」とミレーヌ。
「俺も聞きました」とフェリクス。
「何で全員敵なんだよ!」
団長は、うんうんと頷いた。
「ところでカイル君。君、模擬戦で男の先輩に勝ったことはあるか」
「……あります」
「そのとき、その先輩に抱きついたか」
「抱きつくわけないでしょう」
「なぜ?」
「何でって……」
「騎士に男女はないんだろう?」
「……」
「なるほど」
騎士科の隅で、誰かが「二回目だ」とつぶやいた。
「西方監獄島を、知っているか」
「……はい」
西方監獄島。王国の西の海に浮かぶ、罪人の島だ。
収容された者たちは、有事に備えて兵として鍛えられている。荒くれ者ばかりで、男しかいない。
「管理補佐が、一人足りない」
「嫌です」
「まだ何も言っていないんだが」
「嫌です」
団長は、気にせず続けた。
「あそこの連中は、とにかく仲間意識が強くてね。訓練に勝てば抱き合う。遠征から帰れば担ぎ上げる。宴会では、全員で肩を組んで歌う」
団長は、カイルの肩をぽんと叩いた。
「君にぴったりだ」
「全員男ですよね!?」
「そうだが?」
「いや、それとこれとは違うでしょう!」
「何が違う?」
「何かが!」
アリシアが、小さくつぶやいた。
「出た」
「何かが」
ミレーヌが、復唱した。
団長は、心から不思議そうな顔をした。
「安心しろ。私は、君の思想を否定していない。むしろ尊重している」
「尊重しないでください!」
「わがままだなあ」
◇
その後のことは、早かった。
学園は、二人の振る舞いを正式に審議した。
問われたのは、抱き合ったことそのものではなかった。婚約者本人から不快だとはっきり伝えられたのに、「騎士だから問題ない」と言い続けたこと。私的な親密さを、騎士という立場の免罪符にしたこと。同じことをされた途端、自分たちだけを例外扱いしたこと。公私の区別と規律の面で、騎士団への推薦に値しないと判断されたこと。
二人は騎士科の推薦資格を失い、そろって学園を去った。
ヴェロニカには、
近衛騎士団長の裁量で、北辺第五前哨地での二年間の実地勤務を完遂し、勤務評価が基準を満たせば、改めて騎士爵への推薦を検討する、という道が残された。本人は、それを選んだ。本人の言葉を借りれば、選ばされた。
カイルは、アリシアとの婚約を解消された。
グランツ子爵家の当主――カイルの父は、手紙一通で息子に言い渡した。
〈婿入り先まで自分で潰したのだから、今後は自分で何とかしろ〉
行き先は、団長が紹介してくれた。
西方監獄島、管理補佐。
◇
審議が終わった日の放課後、アリシアは菓子屋の箱を四つ抱えて、騎士科の控え室を訪ねた。
フェリクスたち四人が、椅子から立ち上がった。
なぜか、全員、少し後ずさった。
「この間は、本当にごめんなさい。それと、ありがとう」
アリシアは、箱を机に置いて、頭を下げた。
「新しくできた店の、限定の焼き菓子。一人一箱」
「……いえ。こちらこそ、噂が消えて助かりました」
フェリクスは、箱を受け取った。受け取りながら、目を合わせなかった。
「推薦査定、団長が『騎士科の首席はまともだな』って言ってたって」
「それは、ありがたいです」
「もう二度と、ああいうことは頼まないから」
「はい」
「本当に」
「はい」
フェリクスは、箱を胸に抱えたまま、もう一歩下がった。
「二度と、やりたくないです」
「私も」
「でも、焼き菓子はいただきます」
「どうぞ」
後ろの三人も、箱を受け取るたびに半歩ずつ下がっていった。
最後の一人は、ほとんど壁に背中がついていた。
◇
北辺第五前哨地。
ヴェロニカは、補給の木箱の前に立っていた。
箱は、膝の高さまである。中身は乾燥豆だ。
近くに、髭面の騎士がいた。
ヴェロニカは、髪を耳にかけた。
声を、半音上げた。
「ねえ、これちょっと重くて……」
騎士が、振り返った。
「重い?」
「うん」
騎士は、木箱とヴェロニカを見比べて、真剣な顔で頷いた。
「筋力不足だな」
「え?」
「今日の腕立て、三百回追加」
「三百!?」
「元気な声が出るじゃないか」
「そういう問題じゃない!!」
別の日。
ヴェロニカは、天幕の綱を張り直そうとして、手を止めた。
教官が通りかかった。
ヴェロニカは、もう一度、髪を耳にかけた。
「ちょっと、手伝ってくれない?」
教官が、止まった。
「声が細い!」
「え?」
「腹から出せ!」
「出してます!」
「出てない! 腹筋五百!」
「五百!?」
「今のはいい声だ! でも五百は五百だ!」
「何で!?」
さらに別の日。
「あのぉ、この見張りの順番なんですけどぉ」
「語尾が伸びてる! 気が抜けてる証拠だ! 背筋三百!」
「……」
その翌日。
「見張りの順番について質問があります」
「よし! いい声だ!」
ヴェロニカは、自分の口を押さえた。
その夜、天幕の中で、ヴェロニカは寝袋に潜り込みながら、隣の女性騎士に聞いた。北辺第五前哨地に、女性騎士は彼女を入れて三人いる。
ちなみに、全てヴェロニカと似たようなトラブルを起こし、ここに配属となったらしい。
「……ねえ。ここの人たちって、何で甘えても全然通じないの?」
女性騎士は、寝袋の中で目を開けずに答えた。
「甘える相手を間違えてるからだよ」
「誰に甘えればいいのよ」
「魔獣以外なら誰でもいいけど、全員、腹筋を勧めてくる」
「……」
「寝な。明日、雪かきだから」
◇
数か月後、ファルベール伯爵家の王都の屋敷に、団長から手紙が届いた。
伯爵宛てだったが、半分以上がアリシア宛ての内容だった。
〈ローデン嬢は健在。
最初の一週間は毎晩泣いていたそうだが、最近は泣く体力も惜しいらしい。
男性隊員への妙に甘い声は三日で消えた。出すたびに腹筋が増えたからだろう。
最近は、教官の姿を見るだけで、反射的に腹へ力が入るようになったそうだ。
なお本人は、帰還までの日数を毎朝、天幕の柱に刻んでいる。このままでは、本人より先に柱がもたない〉
ミレーヌは、手紙を読んで言った。
「元気そうだね」
「これ、元気なのかな」
◇
西方監獄島。
カイルが桟橋に降りたとき、最初に目に入ったのは、筋肉だった。
次に、髭。
胸毛。
筋肉。
また筋肉。
「お前が、新しい管理補佐か!」
身の丈がカイルの頭一つ半大きい男が、カイルの背中を叩いた。
バン!!
「ぐっ!!」
「よろしくな!」
別の男が、横から肩を組んできた。
「歓迎するぜ!」
「近い近い近い!」
「何だよ、仲間だろ?」
カイルは、身をよじって腕から抜け出した。
「俺は管理補佐だ! お前たちとは立場が違う!」
「立場?」
男たちは、顔を見合わせた。
「でも団長が言ってたぞ。新しい管理補佐は、『騎士に男も女もない。仲間なら喜びを身体で分かち合う』って考えの持ち主だって」
「言い方!!」
三日後、訓練で島の部隊が本土の部隊に勝った。
「勝ったぞおおお!!」
男たちが、五人まとめて抱き合った。
カイルは、壁際まで後退した。
「おい管理官!」
「何だ」
「お前も来い!」
「俺はいい!」
「喜びは仲間で分かち合うんだろ!」
「誰から聞いた!?」
「団長!」
「余計なこと全部喋ってる!!」
結局、カイルは捕まった。
六人目として、抱き合いの輪の真ん中に押し込まれた。
正面の男の胸板に、顔から突っ込んだ。
シャツの胸元が、大きく開いていた。
「むぐっ」
慌てて顔を上げた。口の中に、何か残っていた。
「毛! 毛が口に入った!」
「誰のだ?」
「俺が知るか!」
顔をそむけた先に、別の男の顎があった。
立派な髭だった。
「ぶはっ! 今度は髭!」
「吐くなよ、仲間だろ!」
「仲間なら毛を食わなきゃいけないのか!?」
「勝利の毛だ! ありがたく食え!」
「ありがたくない!!」
次の週、遠征帰りの部隊を桟橋で出迎えたら、カイルは担ぎ上げられた。
「管理官が出迎えてくれたぞおお!!」
「下ろせ!!」
「仲間を担ぐのは、島の礼儀だ!!」
「そんな礼儀知らない!!」
「団長が、お前は仲間と喜びを身体で分かち合う主義だって!」
「そういう意味じゃない!!」
島を半周するあいだ、カイルは男たちの肩の上で揺られていた。
暴れるたびに、下の男が「おっと」と担ぎ直した。担ぎ直されるたびに、カイルの顔の位置が変わった。
三度目に担ぎ直されたとき、カイルの顔は、誰かの頭頂部と誰かの肩のあいだに挟まっていた。
「前が見えない!」
「見なくていい! 仲間を信じろ!」
「信じてない!!」
その夜は、宴会だった。
左から肩を組まれた。右からも肩を組まれた。前に座った男が、カイルの杯に酒を注いだ。注ぎながら、カイルの膝を叩いた。
「何で全員、こんなにでかいんだ……」
「何が?」
真後ろから声がした。
「うわああああ!!」
振り返ると、さっきカイルの背中を叩いた男が、きょとんとした顔で立っていた。
「いや、何がでかいのかなって」
「……背が」
「ああ。鍛えてるからな! お前も鍛えるか!」
「鍛えない!」
宴会は、夜明けまで続いた。
カイルは、三回逃げ出して、三回連れ戻された。四回目は、もう逃げる体力がなかった。左右から肩を組まれたまま、八十人分の歌を最後まで聞いた。歌詞は、全部「仲間」と「筋肉」でできていた。
二週目には、カイルは夢にうなされるようになった。
夢の中でも、肩を組まれていた。
三週目には、管理棟の自室の扉に鍵を三つ付けた。
翌朝、扉ごと外されていた。
「鍵がかかってて入れなかったからな!」
「入るな!!」
「仲間に壁はいらねえ!」
「扉はいるだろ!!」
◇
ひと月で、カイルは限界に達した。
ある晩、彼は管理棟の机に向かい、震える手で団長に宛てて配置転換の願い出を書いた。
〈西方監獄島勤務について。
隊員間の身体的距離が過度に近く、業務上必要とは思えない接触が多々あります。
私自身、非常な精神的負担を感じております。
配置について、ご再考いただけないでしょうか〉
二週間後、返事が届いた。
便箋の真ん中に、一行だけ。
〈奇遇だな。君の元婚約者も、ほぼ同じことを言っていた〉
カイルは、便箋を持ったまま、動かなくなった。
後ろから、巨大な腕が首に回ってきた。
「手紙終わったか! 飲むぞ!」
「離せ!!!」
「いいから! 今日はあいつの誕生日なんだ! 全員で抱き合うぞ!」
カイルの顔から、血の気が引いた。
「……八十人」
「おう!」
「今日は一人ずつだ!」
「誕生日だからな!」
「もう助けてくれぇぇぇぇ!!」
◇
「カイル、十キロ痩せたって」
王都の大通りの屋台の前で、アリシアは団長からの二通目の手紙を読み上げた。
片手に、串焼きを持っていた。
「健康的じゃない?」
ミレーヌが、自分の串焼きにかぶりつきながら言った。
「原因が健康的じゃないと思う」
「あと何て?」
「配置転換の願いを、もう四通出したって。全部、同じ一行で返したって」
「団長、楽しんでるよね」
「楽しんでるね」
「ヴェロニカは?」
「腹筋がすごくなったらしい」
「騎士っぽくなったじゃん」
「本人は全然喜んでないって」
「でしょうね」
二人で、串焼きの最後の一切れを同時に食べた。
そこへ、通りの向こうから、騎士科の制服の一団が歩いてきた。
先頭は、フェリクスだった。
フェリクスたちは、アリシアに気づいた。
全員、反射的に、半歩下がった。
「……まだやるの、それ?」
「身体が覚えてしまいまして」
フェリクスは、目を逸らしながら言った。
「もう何もしないって」
「分かってます」
もう半歩、下がった。
「分かってないよね?」
ミレーヌが、串を持ったまま笑った。
「まあ、何かあるたびに抱きつかれるかもって思ったら、そりゃ距離取るよね」
「しかも、上級貴族で婚約者持ちだし」
「私だって好きでやったんじゃないんだけど」
アリシアは、串焼きの串を屋台の籠に戻して、腰に手を当てた。
「それに、私はもう婚約者もいないんだけど」
フェリクスが、さらに半歩下がった。
「だから下がってるんです」
「どういう意味!?」
(了)




