第一話 茜色
心に穴が空いて風が通り抜け、空虚な音が鳴り、それが嗚咽と気付くのに時間がかかった。
僕という人間は、人として大切なものが欠けている。僕はこれを心と呼んでいる。決して見下しているとか、人を傷つけて楽しんでいるとかではない。ただ感情の起伏が他の人よりも極端に無い。
「おはよう」
登校して下駄箱に靴を仕舞おうとすると、横から声をかけられる。見ると女子生徒が靴を持っている。
「おはよう、志村」
「おはよう、浜元!」
志村は同級生で、クラスメイトだ。ツインテールを低いところに下ろしている。最近はこの髪型が流行りなのか、女子生徒はみんな似たような髪型をしている。スカートは膝近くまであり、他の同級生に短くしている人がいる割には長いままだ。
「今日も元気ないね、嫌なことあった?」
「僕は元からこんな感じだよ。志村は今日も元気だけど、何かいいことあった?」
僕は上履きを履きながら、靴を仕舞う志村に返事する。
「私も元からこんな感じだよ」
踏み潰した踵を直す僕の背中を叩きながら、志村は笑って歩いていく。「先行くね」なんて言いながら手を振っている。
背後により強い衝撃を感じ、前の床に手をついた。振り返りながら立ち上がると、そこには男子生徒が立っている。制服を分かりやすく着崩しており、髪には整髪料をつけている。いかにもレールに乗りたくないとか、決めつけられたくないという風体だが、誰かの真似のようなグレ方はある種の制服と言えるのでないだろうか。
「お前ちょっとこっち来いよ」
ポケットに両手を入れたまま、あごで指図する。顔に見覚えはある。学年の不良連中の一人だ。
「ここで済む話ならここでいいよ」
僕は手についた埃を払いながら返事する。正直この手の絡みは慣れている。
「調子乗るんじゃねえよお前」
彼はそう言うとくねくねしながら僕に近づいてくる。肩で風を切って威圧しているつもりなんだろうが、中学生の体躯でやっても、愉快なだけだ。
「志村はお前のこと好きなわけじゃねえからな。マジで調子乗んなよ?」
「志村は反応が薄いのを面白がってるだけだよ」
登校時間、周囲の生徒は遠巻きに眺めている。ここで飛び込んで助けに来るような友人は、僕にはいない。
「そんなこと気にするなんて、お前志村のこと好きなの?」
お前志村のこと好きなの、の部分だけ大きな声で言ってやった。周囲の同級生がざわつき始める。
「はぁ?そんなんじゃねえよ!」
照れた。こいつには悪いが、あと一ヶ月はこの噂で小馬鹿にされるだろう。そして最終週あたりで誰かが志村を連れてきて、なんだか気まずい感じになって終わるのだ。可哀想だが、僕だって辿った道だ。文句を言うのはそれ以降にしてもらいたい。
「お前マジでふざけんなよ!」
「やめなよ後藤!」
彼がポケットから手を出し、肩を掴んだところで声が響く。見ると手ぶらの志村が立っている。荷物は教室に置いてきたようだ。後藤というのは肩を掴む彼のことだろうか。後藤は母親に悪さが見つかったかのような、バツの悪い顔をしている。
志村はヅカヅカと歩いてくる。上履きなのにハイヒールのような硬い音がしそうなくらい堂々と。
「浜元に何してんの?」
「いや、ちがうんだよ」
後藤は肩から手を放し、両手を上げる。銃を突きつけられているかのようで、何とか誤魔化せないかと目玉がぐりぐり動いている。
「前言ってたよね、自分のために暴力振るうのはめちゃくちゃダサいことだって。私あれ結構かっこいいと思ってたのに」
「え、まじ?」
後藤の口角が若干上がる。彷徨っていた視線が志村に向けられる。対して志村の表情は険しくなり、腕を組んで毅然と後藤を睨んでいる。
「バカなの? 今の後藤がダサいって言ってんの!」
後藤は雷に打たれたように数歩だけ後退りする。
「わかったら謝る!」
「ごめんなさい」
後藤は至極素直に、僕に謝罪した。顔からは一切の感情が消え、安い人形のようだ。
「いいよ別に。俺も言いすぎた」
こう言っておけば大抵のことは丸く収まる。魔法の言葉というやつだ。後藤は「はい」とだけ小さく言って、普通に歩いて教室に向かった。その背中は哀愁を漂わせていた。
「浜元もさ! もっと言い返したりしないとだめだよ」
志村はまだ怒りが収まらないらしく、一歩一歩を地面に刻むように歩いている。僕の方が背が高く歩幅も広いはずだが、志村は僕の少し前を歩いている。
「言い返したりはしてたよ。うまく聞いてくれなかっただけで」
「そういうことじゃなくて、強く言うってこと!」
志村は振り返って僕を指差して言う。僕に怒られても困るのだが。
「強く出てくる相手には強くいかなきゃ。ていうか、そもそも何話してたの?」
ことの発端が気になったらしく、志村は僕に問いかける。
さてどう誤魔化したものか。後藤は志村のことが気になってて志村と仲のいい僕に嫉妬して怒ってしまった、と言うのは、少し後藤に悪い気がする。あの時は大きな声で言ったが、正当防衛の範疇だ。何より本人に言ってしまうのはあまりに不憫だ。
「言えない。男同士、色々あるんだよ」
彼女は残念そうにして、唇を尖らせながら前を向き直してまた歩いていく。特に後藤に言うつもりはないが、今度何かあったら頼らせてもらおう。そのまま志村は扉をガラガラと開ける。
「志村!」
教室に志村が入ると女子が何名か近づいてきた。
「急に走ってくからどうしたのかと思ったよ」
「モテムーブしてきたよ」
得意気に語る志村に「なにそれー」と言いながら女子は笑っている。
「本当だよ。だよね浜元」
「勝手にモテるな。でもいざこざの仲裁は助かったよ」
席につきながら、僕は返事した。女子は困ったように笑っている。そして普段通り、昨日のドラマの話とか今日の宿題について話し始めた。話しながら彼女たちは僕の後ろの席に移動する。志村は僕の後ろの席だ。
僕らのクラスは25人いる。男女二人セットの席が縦に四列、その塊が横に三つある。一番窓際は一人多いので合計25人。男女二人セットは縦に交互に入れ替わりながら並んでいるため、それぞれ前後と横は異性がいる状態だ。これはうちのクラスだけで、異性を前後にするとふざけて授業にならなかったからだ。当初こそ反発があったものの、結果としてこれは正解だった。思春期ゆえの性別に対する過剰な意識から男女間で壁ができていたが、それが男女関係なく和気あいあいとしたグループになった。壁が無くなったわけではないので、必要な時には随分秩序が取れるようになった。
各生徒は班で分けられ、班員は4、5名。班長を6名選出して、班長間の秘密会議で決める。もちろん疎まれてしまう生徒もいるわけだが、志村があまり話したことないとか、面白そうとか理由をつけてメンバーに入れているらしい。かく言う僕もおそらくそっち側だ。結果として、うちの班は秩序が取れていると言うよりは、各々が志村と話せるというだけで、互いには基本的に不干渉の姿勢だ。
「お、おはよう」
「おはよう」
僕は隣の席の女子と挨拶を交わした。長い癖っ毛をしており髪を下ろしている。意外にもそういう生徒は少ない。あまり人と会話することが得意ではないようで、目が合ったことはない。
「浜元くん、これってわかるかな」
彼女は僕に対して机上を指差す。今日までの数学の宿題のプリントだが、あまり解けているわけではなさそうだ。
「あぁ、わかるよ。一つ目の式の両辺を三倍にして、二つ目の式を二倍したら加減法で解ける」
「ありがとう」
そう言って彼女は一つ目の式の左辺だけを三倍した。
「違うよ、右側も同じように三倍する。この記号は両側が同じって意味だから、左側だけ三倍するとバランスが崩れちゃう」
「あ、ごめん。ありがとう」
彼女は焦って消しゴムで荒っぽくプリントを擦る。プリントが破れてしまいそうだ。
「轟って真面目に授業受けてるのに、あんま頭よくねえよな」
轟の後ろから頬杖をついて、男子が声をかける。轟は一瞬体を跳ねさせ、俯いて静かに落ち込んでいる。
「結城、流石に擁護できないぞ今のは」
「そうだよ結城。奏多ちゃん気にしちゃダメだよ」
志村は席から立ち上がって後ろを回って、轟の頭を撫でる。志村とさっきまで話していた女子も信じられないという顔をしている。
「あ、いや違うよ!そんなに努力できるのはすごいのに、先生の教え方が悪いから伸びないんだろ。もったいないなって!」
結城は手を振り回しながら、苦しい言い訳をしている。彼の日頃の行いや言動を見ていれば、悪気はないことはわかるが、もう少し口にする前に考えられないだろうか。
「窓締めよし!」と志村が窓の鍵を指差しながら言う。僕はクリップボードのチェックリストにマークをつけた。今日は僕と志村が当番の日だ。
僕のクラスでは朝当番と夕当番がいて、朝当番は時間割の記入やホワイトボードのペンを補充したりする。夕当番は戸締りなどを確認して担任に報告する。
「残っている生徒なし!」
「それに関しては指差し確認いらないんじゃないか」
そうじゃなくても、指差し確認をわざわざする必要はない気がする。
「あ、浜元知らないの? 指差し確認すると単純な見落としが半分くらい防げるんだよ。車掌さんとか工場とか、危ないところの職員さんはみんなやってるんだから」
「それは。知らなかったな」
志村は明るくて少し変わっているが、たまにこういうことを言う。例えば指差しして声に出せばミスを防げるよと言われて、素直に行動できる中学生がどれくらいいるだろう。自分をよく見せたいというのが人間というものだろう。大人の言うことに素直に従えないと言うのもあるかもしれない。
それでも志村は良いものだと思ったら積極的に取り込める。コミュニケーションもそうだが、影響を受けるという行為に躊躇がない。触れ合うという行為に恐怖がない。形容する言葉が思いつかないが、よく言う「人間ができている」というやつなのだろう。
「あ!」
志村が大きめの声をあげて、僕は思わず顔を上げる。志村を見ると、彼女は僕のことを指差している。
「何?」
「浜元の珍しい顔、よし!」
そう言って彼女は屈託のない笑顔で笑った。窓から差し込む春の夕焼けでオレンジ色に染められた教室。彼女の嬉しそうな笑い声がやけに響く。そんな彼女から目が離せず、僕は少し声を出せなかった。カメラのピントが固定されたみたいに。
「そんなに変な顔してたかな」
「浜元は無表情だからね、たまに動くと嬉しいんだよね」
志村はそう言うと華麗にくるりと回り、机上の荷物を手に取った。スカートが遠心力でふわりと浮かぶ。女子にとって上履きはバレェシューズのようなものなのだろうか。
「さ、先生にリスト渡して帰ろ」
「そうだな」
前側の扉から出ようと教室の前方に移動し始めたとき、続けて志村がもう一周回ろうとする。そのとき、一瞬僕は漠然と、危ないと思った。足元に僕の荷物があったからだ。足が当たりそうだなと思っていたら、志村は自然に僕の荷物に足を引っかけてバランスを崩す。カバンが明後日の方向に飛んでいき、志村は顔を僕に向けたまま倒れていく。焦った顔がスローモーションのように目に焼き付いていく。志村の体は捻られて、背後にあった机に顔面をぶつける。固いものに人体をぶつけた時に、聞こえてはいけないと直感でわかる鈍い音が聞こえた。
カバンは少しして近くの床に落ちた。閉じていなかったようで荷物が一部溢れている。志村は一応起き上がったが、声もなく悶えて、立てもしないらしい。
「大丈夫か!」
反射で出た言葉だった。大丈夫じゃないことは一目見ればわかるのに。
「大丈夫、ごめんねびっくりさせて」
志村は顔に手を当て、僕から顔を背けたまま言った。目の当たりを押さえている。そんな場所を押さえていて大丈夫なことはないだろうにと、僕は正面に回り込んで近くに駆け寄った。
「ちょっと見せてみて」
「」あ
一瞬目が合い、志村は勢いよく顔を背ける。転んで顔面を打った彼女の患部は手で覆われているが、一瞬、指の隙間からは破損面のようなものが見えた。陶器が割れたような。「あはは」と彼女が照れ笑いしながら顔を背ける。
「ドジやっちゃったな、私。はしゃぎすぎちゃった」
僕は志村の手首を咄嗟に掴んだ。その力は強く、吸盤のように顔に張り付いている。
「顔、怪我したのか?」
「ちょっとだけね。腫れてるかもしれないからあんま見ないでほしいな」
強く引っ張るがびくともしない。志村にこんなに力が強いイメージはない。むしろお遊びで腕相撲をしても負けていることが思い出される。
西日が差し込む教室が、夕陽が雲に隠れたのか徐々に暗くなる。大丈夫だと言うのならば放っておいていいだろうという気持ちと、何か妙だという好奇心がせめぎ合う。
「人命優先だ」
「えっち。おっきな声出すよ」
辛うじて危うい拮抗を保っていた無関心と好奇心は、その瞬間好奇心が大攻勢に出た。僕が力任せに手を引くと吸い付く手を引き剥がすことができた。
彼女の顔は腫れていなかった。むしろへこんでいたというか、そこに皮膚がない。彼女の皮膚があった部分は陶器のように割れ落ちて、内側の虚な闇だけがこちらを見ている。西日が雲から姿を見せてまた教室に夕焼けが入る。環境が揃ったのか絵の具で空気を染めたように全体がオレンジ色になる。彼女の顔面の空間からは何本か、蛸か蛭のような触手が飛び出て動いている。僕は小さく呻き声を上げて、数歩後ずさる。脚に力が入らず立ち上がれない。
「やめてって言ったのに」
志村はゆっくり立ち上がる。顔はもう隠していない。その患部が、まともな怪我とは違うことは一目見ればわかる。夕焼けが差し込んでも真っ暗な彼女の顔の暗闇。そこから少しずつ触手が三本這い出てきた。粘性の分泌液でも出しているのか、動くと表面は一部は糸を引いて、微かにスライムのような水音が聞こえる。
「浜元みたいないいやつに、こんなことしたくないのに」
顔面の4分の1ほどが欠けているが、少し寂しそうな覚悟を決めた顔が見える。触手をうねうねと動かしながら彼女がゆっくりと近づいてくる。僕は相変わらず力が抜けて立てない。尋常ならざる存在に何も考えることができない。
あと2歩ほどの距離に彼女が来る。僕は片腕で辛うじて顔をガードするが、なぜか目を離すことができない。これまでのわずかな人生の走馬灯の再生準備が完了したであろう瞬間。先ほどから聞こえていた衣擦れや足音が止まる。
彼女は視線を落としたまま硬直している。何かに驚いているようで、脳が情報処理するのに時間がかかっているようだ。徐々に処理が終わったのか、彼女の表情が少しずつ変わり始める。顔が紅潮し明らかに動揺している。夕焼けとは関係なく赤くなっている。
「何それ!」
彼女は狼狽しながら数歩、また数歩と後退りする。触手がゆっくりと彼女の内側へ引っ込んでいく。彼女は恥ずかしそうに顔に手をあてている。志村のそんな姿を見たことはなかった。何が起きているか分からず声を出せない。
「浜元の変態魔人!」
志村は声を張り上げて叫ぶと、落ちていた自分の荷物を拾い、走って教室を出て行った。
何を言っているかわからないが一応助かったようだ。血が通うように、脚に力が入るようになる。
「わけがわからない……」
独り言を呟きながら立ちあがろうとした時、僕は志村の言っていたことを理解する。何故なら僕自身はもう強く立ち上がっていたからだ。首筋の後ろは冷え切っているのに顔だけ熱くなるのを感じる。きっと夕焼けに照らされているからだろう。
一体明日からどんな顔をして志村と会えばいいのか。色んな問題が山脈を連ねていながら、僕の上の頭はそんなことを考えていた。