【2】幸せのベクトル、重なる背中。
披露宴会場「ヴェネツィア・ヴェルディ」──
由来はイタリアの都市ヴェネツィアと、音楽家ジュゼッペ・ヴェルディから。煌びやかな幻想の街と、荘厳な旋律の名を冠したその空間は、見た目からして完全に“異世界”だった。元夜職、元ギャンブラー、現留年確定大学生──そんな肩書きの俺が場違いなのは言うまでもない。
「えーと……まずはパン、配るんだっけ?」
国見さんから渡された資料を眺める。
読める、読めるんだけど……理解はできない。
なんだこれ、日本語?いや、日本語なんだけど、なんだこれ。業務用語ってRPGの魔法スキル表より意味不明なことあるんだな。
「朝霞くんだもんね、じゃあアサって呼ぶね。今日一緒に回るからよろしく!」
初対面でこの距離感。絶妙に陽キャすぎて苦手なタイプかもしれない。
でも「僕」って一人称の人に悪い奴いない説、今のところ人生で外してない。
「あ、はい。よろしくお願いします……国見さん。」
「うん、気楽にやろう。料理を出し下げして、パンを配るのが今日の仕事。パンが2種類あるの、覚えてる?」
「……ええと、最初に甘めのパン、スープの後に出して。で、もうひとつはソース絡める用の……魚と肉のとき、ですよね?」
「正解。ちゃんと資料読んでるんだね。」
いや、読んでるっていうか、必死に暗記しただけです。内容は今すぐフォーマット消えそうだけど。
パンは各卓に最初から置かれてる小皿に、トングで配る。
この“トングで配る”ってのがまた難しい。
スッ……ポトンッ。え、今落とした?いや、ノーカンってことでいいか?
お客様がまだ来てないからよかったけど、これ本番だったら焦ってナプキンで手づかみしてるレベルだ。危ねえ危ねえ。
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「前菜です!失礼いたします!」
料理が始まる。
これはもう完全に格闘技。パントリーから料理が出た瞬間、俺はステップインしてラウンド開始。
「ちょ、皿3枚ってどう持つのこれ。誰だよ、こんな持ち方考えたやつ……!」
皿の形、なんかおしゃれなぶん不安定。あと熱い。なぜだ。
手首の筋肉が悲鳴を上げるなか、卓番号と料理とパンとタイミングを全部意識しなきゃいけない。
これ、夜の仕事より100倍情報量多いんじゃね?
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「お済みのお皿、お下げしますね……」
汗だくで何とか肉料理まで乗り切った。
テーブルを片付けながら、ふと目に入ったのは新婦の父が新郎に向かって頭を下げる姿だった。
──“娘を、頼んだぞ。”
ああ、やめろ。
やめろって。
そういうの、効くから。
父親か。俺、成人式で泣かせたな。というか、成人式で「借金作って留年しました」って報告するやつ、俺ぐらいだろ。
──夜の世界と似てると思ってた。
“誰かに何かを届ける”って点では、確かに同じだ。
でも、夜は快楽で、ここは祝福なんだ。
届けてる“幸せのベクトル”が違う。それが、こんなに胸にくるとは思わなかった。
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「アサ、初めての披露宴どうだった?」
国見さんの問いかけに、俺は照れくさく、そしてぎこちなく笑った。
「……案外、向いてる気がします」
俺のブライダルスタッフとしての新しい人生が、はじまった。